第65話 不安
彼の声が名残惜しくて、私は通話が切れた後も携帯に耳を当てていた。
何か伝え忘れがあって、リダイヤルしてこないだろうか?
ありもしない妄想に耽る。
私はやっぱり、鏡島貴志の事が好きなのだろうか?
そんな事が頭を過ると、携帯に耳を当てている事すら恥ずかしくなって、私はパッと携帯を机に置いた。
なんだ、この機械は。鏡島貴志も携帯に耳を当てて話しているのなら、お互いに耳元で囁き合っているのと変わらないではないか。
……顔が熱い。
不埒な妄想を頭の隅に追いやる。
私にはまだ、考えなければならない事があるのだ。
明日香ちゃんを気にかけて欲しいと、わざわざ彼が言ってきた事もそうだし、何より明日は彼が私の家に来る。
急な事で頭がパンクしそうだが、今まで頼り切りだった鏡島貴志に頼られているという事実が、少し嬉しかったりもする。
少し前までは人に迷惑を掛けないよう一生を消化していくと思っていたのに、人生分からないものだ。
一先ず、明日香ちゃんについてだ。
まだ四時だし、家を訪ねてみようか?
もしかしたら明日香ちゃんの家に行く途中で、彼に偶然会えるかもしれないし。
クローゼットを開き、着ていく服を選ぶ。
あくまで偶然を装って会うのだから、あまりしっかりしたファッションは不自然だ。
かといって、このシャツはラフすぎるし……。
彼はどういう服が好みなのだろうか?
何を着ていても褒めてくれるのは嬉しいが、それでは少し張り合いがない。
鏡の前で合わせたり、ネットで調べたりしていたら、いつの間にか三十分が経過していた。
ようやく服は決まったのに、前髪が……。
何度なでつけても、なかなか可愛くならない。
結局、このまま前髪と格闘していたら夜になりそうだったので、しかたなく適当な所で諦めた。
玄関から出ると、蝉とコオロギの声が混ざり合って耳に飛び込んでくる。
少し前と比べて、午後はすっかり涼しくなったな。
あんなに鬱陶しかった夏の暑さも、無くなってしまえば少し寂しい。
まあ、その暑さも明日の昼には何事も無かったかのように戻ってくるのだが。
歩みを進めていると、少しずつ明日香ちゃんの家に近づいていく。
それはつまり、鏡島貴志の家に近づいているという事でもある。
緊張してきた……。
彼が偶然外に出てくるなんてまずあり得ないのに、私の期待は彼の家に近づくにつれて、どんどん高まって行く。
いよいよ、彼の家が見えてくる。
心なしか、歩く速度も遅くなる。
あっ……。
肩が思わず跳ねる。
前方から、彼らしき人が歩いてくる。
足早に進み、彼との距離を詰める。
声を掛けようと口を開きかけたところで、私は自分の間違いに気が付いた。
違った。彼ではない。
髪型が似ている別人だ。
私はそのまま、足早に彼の家を通り過ぎた。
恥ずかしい。
どうせ明日になれば、彼は私の家に来るのだ。
今は明日香ちゃんの事に集中しよう。
明日香ちゃんの家の前に立つ。
何度見ても大きな家だ。
私は少し緊張しながら、チャイムを鳴らした。
「はーい……わあ! かみなしさん! ちょっと待ってて」
インターホン越しに、明日香ちゃんは驚いたように声を上げる。
しばらくすると、玄関から明日香ちゃんが飛び出してきた。
家を訪ねる時はいつも全力疾走で出てくるから、転ばないか心配になる。
「かみなしさん! どうしたの?」
明日香ちゃんは、元気よく私に抱き着いてくる。
「ええと、今日の話とか……聞いておこうと思って」
「それで、わざわざ来てくれたんだ! うれしい!」
明日香ちゃんはニッコリと笑い、私を家に招き入れる。
高級そうな家具が並ぶこの家は、何度は行っても慣れない。
「飲み物、なにが良~い?」
「じゃあ、お茶をお願い」
「はーい!」
そう元気に返事しながら、明日香ちゃんは器用にお茶を淹れ始める。
何とはなしに、テーブルの上に置いてあった紙束に目が行く。
……魔導書のコピーだ。
以前に私が貸したモノだろうか?
手に取って、軽く目を通す。
時間遡行、か。夢魔術の方向から時間遡行にアプローチした、近代魔術についての記述のようだ。
これ、よく見たら魔導書のコピーじゃないな。
ネットの色々な記述をまとめて印刷してあるみたいだ。
明日香ちゃんは、時間遡行に興味があるのだろうか?
そのままパラパラと紙を捲っていると、近くに人影を感じて顔を上げる。
「あ、カサネさんだったっけ? 貴女も来ていたのね」
「……はい。私は明日香ちゃんの友達ですから」
無表情で、無感情に、カサネさんは答える。
正直、カサネさんについては良く分からない。
鏡島貴志に神を降ろそうとして失敗し、行方不明になったと聞いていたのだが……。
「一応聞いておくけど、貴女はもう彼を神にしようとは企んでいないのよね?」
「はい、あいつは私の父になると言ってくれたので」
「……ん?」
どういう事だ?
「聞こえませんでしたか? 父です、父親、パパとも言います」
相変わらず、カサネさんは無表情だ。
「どういう事? というか、何故?」
父になると言った? 訳が分からない。
私の知る彼は、親という概念そのものに否定的だった筈だ。
三人で遊んでいる時も、明日香ちゃんが彼に父性を求めようとすると、とても嫌がっていた。
だが、カサネさんの言う事が正しいのなら、彼は親という存在を乗り越えた事になる。
何故? カサネさんの何かが彼を変えた?
……いや、そんな生半可な事で、彼と親との確執はどうにもならない筈だ。
じゃあ、なんでカサネさんは彼を父だなんて言っている?
意味が分からない。
心がざわつく。
何故?
私のなのに……。
どういう事?
溢れる疑問に、カサネさんはシンプルな回答を出す。
「あいつが、妙な奴だからです」
全くもって納得いかない説明だった。しかし、ここで明日香ちゃんがお茶を持ってきた為、会話はなんとなく中断される。
「かみなしさん! 今日たかしと遊んだ話、聞きに来たの?」
「ええ、まあ、その、明日のセンユウマートは無しになったのだけど……」
「え! なんで!? 私が、たかしに変なこと言っちゃったから?」
明日香ちゃんは、慌てた様に身を乗り出す。
「いいえ、違うわ。明日は、最初から私の家に来てもらう事になったの」
自分でそう口にして、急に実感が湧いてくる。
鏡島貴志が、私の家に来るのだ。
しかも、明日。
「ど、どうしよう……明日、鏡島貴志が私の家に来る、わ。来るの? いえ、来るのだけれど」
キュウッと、胸が詰まる。
「どうしよう、明日、来るわ」
頭が回らない。
私は、とんでもない約束をしてしまった……。
「かみなしさん、落ち着いて!」
「ご、ごめんなさい。でも、なんだか具合が悪くなってきたわ」
「大丈夫? せなか、とんとんしてあげるから、がんばって!」
明日香ちゃんがパッと立ち上がり、私の背を叩きはじめる。
私は胸を締め付ける違和感に耐えながら、背中に意識を集中させる。
「ふぅー」
テーブルに頭を乗せて、目を瞑り、ゆっくりと呼吸する。
そうしていると、緊張とも高揚ともつかない感覚は次第に落ち着いて行った。
「かみなしさん、もう落ち着いた?」
「ええ、ごめんなさい。迷惑を掛けて」
「ううん、気にしないで! それに、かみなしさんなら絶対大丈夫だよ!」
「そう、かしら?」
明日香ちゃんの言葉に、少し勇気づけられる。
「うん! それでも明日、不安なら、たかしのこといっぱい教えてあげるし!」
そう言うと、明日香ちゃんは貴志について話し始めた。
好きな食べ物、嫌いな食べ物、今日あった事、前に言われて嬉しかった事、蝉が嫌いな理由、どんなゲームが好きか、何故コーラを飲むようになったのか、指ぬきグローブを気に入っていた事……これだけ話しても、明日香ちゃんはまだ止まらない。
思っていた以上に、明日香ちゃんは彼の事を知っているようだ。
どんどん、どんどん、明日香ちゃんが知っていて、私の知らない彼の一面が出てくる。
私の知らない彼を明日香ちゃんが話す度、私の胸が少し痛んだ。
彼と過ごした時間は、私も明日香ちゃんも大差ない筈なのに……。
明日香ちゃんの方が、彼をよく見ていた?
思えば、私はいつも人の事を気にしている様で、自分の事ばかりだった気がする。
やっぱり私は、彼を本当に好きなんじゃなくて、ただ独占したいだけなのだろうか?
気持ちが落ち込む。
そして、私は口を滑らせた。
「……ねえ、明日香ちゃん。もしも鏡島貴志が明日香ちゃんに告白したら、どうする?」
浅ましい、彼にも明日香ちゃんにも失礼な、愚にもつかない質問だ。
そんな質問を、私は酷く傷ついたような声音で口に出してしまった。
しまったと思っても、もう遅い。
言ってしまったのだから。
小学生に何を聞いているのだ、私は。
恐る恐る明日香ちゃんの表情を窺う。
予想に反して、明日香ちゃんの表情はとても優しいものだった。
何故? 私がそう聞く前に、明日香ちゃんは口を開いた。
「……かみなしさん、不安になっちゃたんだね?」
明日香ちゃんが、ゆっくりと私の頭を撫で始める。
……私は馬鹿だ。
大蜘蛛様が死んで涙を流す鏡島貴志を見て、盗られるのが怖くなって、だから恋仲になって安心しようと思った。だというのに、今の私はカサネさんだけでなく明日香ちゃんにまで嫉妬して……これでは怪物と大差ない。
「明日香ちゃん……ごめんなさい」
「うん、いいよ。私、かみなしさんが大好きだから、なんでも許してあげるの」
明日香ちゃんが、ぎゅっと私の頭を抱きしめる。
「でも、かみなしさんは、私のこと許さなくて良いからね……」
明日香ちゃんが、耳元で小さく呟く。
「どういう事?」
「…………」
私の質問に返事はせず、明日香ちゃんは私の頭をもう一度なでて笑う。
その笑顔は一瞬だけ、酷く悲し気に見えた。
「かみなしさん、今お外に出たら、たかしに会えるよ?」
「……え?」
「ほら! すぐ行かないと!」
促されるままに、私は明日香ちゃんの家から出る。
「……あ」
いた、鏡島貴志だ。
今度は見間違いでは無い。
「あ、ぐ、偶然ね」
「おう。お前、明日香の家に来てたのか」
「え、ああ、ええ、その、明日香ちゃんの様子を見に、ね」
明日香ちゃんを気に掛けてくれと言われていたのに、逆に私が気を遣われた事を思い出し、少し気分が落ち込む。
「そうか、今から帰り?」
何気ない様子で、彼は会話を続ける。
「まあ、そうね」
どうやら落ち込んでいる事はバレていないようだ。
「へえ、まだ明るいけど気をつけてな。じゃあ、また明日」
そのまま、彼は自分の家に戻ろうとする。
もう、会話は終わりか。
明日もまた会えるというのに、何故こんなに名残惜しく感じるのだろう?
私は小さく、彼の背に手を振った。
「ちょっと待って!」
明日香ちゃんが、大きく声を上げて呼び止める。
「たかし! かみなしさんの好きなとこ、言って!」
「え? ちょっと、明日香ちゃん何言ってるの! 貴方も、別に言わなくて良いからね」
私の制止を聞かず、彼は何食わぬ顔で口を開く。
「気兼ねなく話せるから、一緒にいて落ち着くところが好きだな」
「な! な! なぁ!」
直球の誉め言葉に、私は何も言えなくなる。
そんな私を見て、鏡島貴志は勝ったと言わんばかりに意気揚々と家に戻って行った。
恥ずかしい。
気を抜いたら、口角が上がってしまう。
感情がぐちゃぐちゃになる。
同時に頭の隅で、もしかして彼は私が落ち込んでいる事に気づいていたのではないかと思った。
「かみなしさん、良かったね!」
明日香ちゃんは無邪気にそう言ってくる。
それが余計に恥ずかしい。
私は無言で携帯を取り出し、彼に電話を掛けた。
通話が繋がった瞬間、私は口を開く。
「貴方も耳が赤くなっていたから、おあいこよ」
私は通話を一方的に切った。
頭の中で渦巻いていた不安は、気にならなくなっていた。
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