第54話 雨食

「はぁ……」


 俺は何もする気になれず、ぼんやりと月の様に浮かぶ目玉を眺めていた。

 もう、ほとんどの小蜘蛛は溶けてしまって、今は数匹の掠れた泣き声だけが虚空に響いている。


 あれで良かったのだろうか?

 いや、後悔はしていない。ただ、別の可能性に思いを馳せているだけだ。


 そう、例えば、どんな未来が、そうだな…………ああ、駄目だ。

 振ってくれと言われたら、俺は絶対に振っていた。

 結局、なるべくして今の様になったのだ。


 残り一匹になった小蜘蛛は、まだ泣いている。


 さっきまで快晴の様に真っ青だった虚空も、次第に紫がかってきた。

 無限に張り巡らされていた蜘蛛の糸も、もう随分と薄くなっている。


 この後は、夕日が沈んだ空の様に真っ暗になって、それで終わりなのだろう。


 終わったら俺は死ぬのか?

 それとも、柚子から解放されて現実に戻るのか?

 重要な事だろうし、よく考えた方が良いのだろう。

 だが、どうにもそんな気になれない。


 俺は大の字に寝転んで、泣き続けている小蜘蛛を手に乗せた。


『愛して……』

 小蜘蛛が泣く。


 ……これが、柚子の本音だったんだろうな。


「俺って、これからも大切な人に殺して欲しいって言われたら殺すのかな?」

 返事は無いと知りながら、俺は小蜘蛛に話しかける。


『愛して……』

 小蜘蛛は、泣いている。


「やっぱ、本当に相手の為を思うなら、相手の言う事を聞くしかないのかな?」

 ずっとそう思っていたけれど、分からなくなった。

 きっと、愛して欲しいというのは柚子の本音で、振って欲しいと言うのも柚子の本音なのだ。


『愛して……』

 小蜘蛛は、泣いている。


「相手が好きだから、死にたい相手に生きてくれって言うのは、やっぱりエゴだよな……」


 指先で、軽く小蜘蛛に触れる。


『愛してる』

 小蜘蛛は、泡の様に割れて溶けた。

 掌の上から、小蜘蛛だった液体がゆっくりと零れ始める。


 俺は手に唇を添え、柚子の涙を呑んだ。


 流れ込んできた柚子の心は歪だったけれど、やっぱり愛だった。


「…………愛してる……なんて」


 口に広がったのは、柑橘類の様な甘さだった。


 俺は立ち上がり、どこまでも続く虚空を眺める。


 最後の小蜘蛛が溶けたのを皮切りに、幽かに残っていた糸は一斉に途切れ始めていた。

 雲が流れるように、どんどん蜘蛛の巣が崩れ去る。


 ……もう、終わりなんだな。


 最後の糸が切れる。


 俺の体は宙を舞った。

 とても大きく見えていた目玉が、次第に小さくなっていく。

 虚空は、すっかり黒に染まったいる。


 遠くで煌びやかに輝く星々も月と同じように、近くで見たら目玉なのだろうか?

 幻想的にグロテスクな夜空を眺め、俺は落ち続ける。


 月のような目が、いよいよ本当の三日月にしか見えなくなった時、俺の落下は唐突に終わりを告げた。

 何かに受け止められたのだ。


 俺は顔を上げ、自分を受け止めた相手を確認する。

「……よう、久しぶりだな」


 俺をお姫様抱っこで受け止めるのは、上梨だった。


「そこまで久しぶりでもないでしょう。それとも、昨日遊園地に行った事も忘れてしまったの?」

 普通の声音でそう告げる彼女の表情は、暗くて良く見えない。


 昨日、か。感覚的には一週間くらい前の出来事だが、俺の脳にはしっかりと上梨の告白が記憶されている。

 柚子の死は、やっぱり飲み込めない。

 でも、上梨の好意とちゃんと向き合えるのは良かった。


 ……なんか、柚子の死に理由を付けるみたいで嫌だな。

 ただ、それ以上に俺は生きていて良かったと思えている。

 今は、それで良しとする。


「まあ、あれだよ、昨日なんて言うと全然時間が経ってないみたいに感じる。だが、よく考えてみろ。昨日お前と別れたのが午後六時、今は大体正午だろ? つまり十八時間も……うお!」


 上梨が、俺の指を口に咥える。


「は……あ、お、え」


「……何?」

 上梨は俺の指を舐りながら、おぼつかない活舌で問う。


「いや、何? じゃなくてな、指を舐めるなよ」


「……貴方が、知らない相手と魂を混ぜられそうになったのよ? 来てみたら貴方は無事だったけれど、それでも少しくらいは落ち着く時間が欲しいのよ」

 そう言って、上梨は俺の指を舐め続ける。


 前に舐めてきた時は少し言えば正気に戻ったが、今回はそうも行かないようだ。


「ちょっ……と、あの、上梨さん?」


 上梨の顔が、俺の首筋に近づく。


「ねえ、貴方から柑橘系の香りがするわ……」

 俺の喉仏に沿って、上梨の舌が蠢く。


「え? あ、え、へえ、そう? か」


 上梨の舌が、俺の顎の淵をなぞる。


「……ねえ、私の事は好き?」


「ん、ああ、好きだよ」

 上梨の声音が何故か、小蜘蛛の泣き声と重なった。


「友達として、好きなの?」

 首筋から顔を離した上梨が、軽く俺の指を噛む。


 本当の所、好きとか、嫌いとか、愛とか、そういうのが最近は良く分からない。だが、俺までそんな事を言い出したら、上梨はもっと迷うだろう。


 俺は小さく頷いて、上梨の言葉を肯定した。


「…………そ」


 上梨は小さくそう言うと、ようやく俺を降ろした。

 そこで初めて、俺達が木の上に立っていたのだと気が付く。


 風も吹いていないのに、ざわりと葉が音を鳴らした。


 上梨が、ゆっくりと顔を近づけてくる。

 ゆっくり、じわじわと、視界に上梨の顔が広がる。


 上梨と俺の顔の距離が縮むにつれ、上梨が先ほどのように俺の首筋ではなく、顔そのものを目指している事を理解する。


 近づいて、近づいて、目と目が触れ合う程に近づいた。

 その時、暗くて良く見えなかった上梨の瞳がハッキリと見えた。


 瞳孔が、異常な程に開いている。

 次の瞬間、花が開くように上梨の上半身が開いた。

 以前見た時と同じように、肉紐と花弁の様な大顎にはズラリと棘が並んでいる。


 上梨は人になっていなかったのだと、俺は理解した。


 俺の上半身が、上梨の生暖かい肉紐と顎に包まれる。

 今度は指ではなく、上半身を口に含まれたのだ。

 上梨の唾液が俺の背中を濡らす。


 咽かえるような、甘い臭気が鼻を刺した。

 昔、梨を腐らせた時にも同じような臭いがしたのを覚えている。


 じわじわと、上半身が締め付けられているのを感じる。

 喰われるとは、こういう感覚なのか。

 あれだけ沢山あった棘は、どれも俺をかみ砕くのではなく、皮膚をゆっくりと裂く事に使われていた。


 ジンジンとした鈍い痛みが、俺の鼓動に合わせて全身を回る。


 痛みに小さく喘いでいると、口内に上梨の唾液が入ってきた。

 そういえば明日香が以前、貴志は上梨さんとキスするんだ、とか言ってたっけ?

 舌を舐るのがディープキスなら、上半身を舐られるのもキスの内だろう。

 つまり、見事に明日香の願い通りになった訳だ。


 上梨の唾液を嚥下すると、上梨の心が流れ込んでくる。

 俺の脳を満たした心は思っていたよりも純粋で、純情だ。

 少し、意外だったな。

 だが、納得感もある。


 こいつも、寂しいんだ。


 だんだんと頭が熱くなってくる。

 魂が混ざる感覚、柚子の時と同じだ。


 もしかして、消化されるってこういう事なのだろうか?

 ぼんやりとした今の頭では、良く考えられない。


 自分の肉が潰れる感覚に身を任せ、俺はゆっくりと上梨を撫で続ける。


 ……眠い。


 俺は目を瞑り、呼吸に身をまかせ、体の力を抜く。

 そのまま肋が蠢くような違和感を無視して、俺は意識を手放した。

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