第53話 雲煙

 目を開ける。

 なんだ、ここは? 空の上?


 いや、違う。


 周囲にどこまでも広がる雲は、よく見れば蜘蛛の糸だ。それに、最初は青空に浮かぶ月に見えた球体も、目を凝らせば明らかに巨大な眼球にしか見えない。


 ……たしか、カサネが魂を混ぜるだとか、自分が自分でなくなるだとか言っていたな。

 その術の影響だろうか? 叔父さんの儀式の時も良く分からん交差点に連れ込まれたし、十分にあり得る。


 身体も動かせないし、どうすれば良いんだ?


 俺は無理やり首だけ動かし、なんとか自分の体を眺める。


 俺の体は、蜘蛛の巣にベッタリと磔にされていた。

 そりゃあ、動けない訳だ。


 ……いや、訳分からん。

 誰か状況を説明してくれ。


 俺は頭を蜘蛛の巣にあずけ、天を仰ぐ。

 尤も、そこに天は無く、巨大な蜘蛛がぶら下がっていたのだが。


「うえっ……」


 蜘蛛の頭から、なんか赤い液が垂れてきた。

 首を動かして紙一重で避ける。


 涎だろうか?

 だとすれば、俺はこいつに喰われて死ぬのか?


 具体的な死を意識させられ、俺は妙に気が大きくなった。

 どうせ死ぬなら何でもできる、そういう心理状態だ。

 まあ、錯乱したとも言えるが。


 ともかく、気が大きくなった俺は蜘蛛に声をかけた。


「おい、ここはどこだ? 明日香は無事か?」


 俺の質問に返事は無く、蜘蛛はガサガサと足を蠢かせて糸壁の裏に隠れる。

 しかし、まばらに浮いた糸では蜘蛛の巨躯を隠せない。


 それに気が付いた蜘蛛は、見ないでおくれ、と小さな声で繰り返す。

 小さく、幼い声で繰り返す。

 つまりは、柚子の声で。


「えぇ……お前、柚子なの?」


「見ないで、見ないでおくれ……妾は、妾はこんなに醜い怪物などでは……」


 今までで一番怪物じみた姿の柚子は、しかし初めて会った時よりもよほど小さく弱そうに見えた。


 俺が更に会話を続けようとすると、蜘蛛の頭からビチャビチャと液体が漏れ出す。

 その液体は重力に従い、そのまま俺の左目を濡らした。


 瞬間、脳に柚子の心が流れ込んでくる。


『一つになりたい』

 赤い液体が、柚子の涙だと理解する。


『どうせ自分のものにならないのなら、私の魂で汚したい』

 赤い液体が、柚子の唾液だと理解する。


『いっそ、瞳に私しか映らないようにしてしまおうか?』

 赤い液体が、柚子の汗だと理解する。


『私はこんなに頑張ったのに……』

 赤い液体が、柚子の血液だと理解する。


 それらの心はどれも、以前に柚子の心を覗いた時の真っ直ぐな愛と比べると、実に独りよがりでエゴに塗れていた。


 青空に浮かぶ月の様な瞳が、柚子を見つめる。


「ち、違うのじゃ、こ、こんな……」

 柚子は狼狽え、身もだえる。


 ……なるほどな。

「なあ、柚子。前に俺が見たお前の心は、嘘だったのか?」


「う、嘘じゃない! 本当じゃ!」

 柚子は糸の隙間から八つの瞳を覗かせ、信じてくれと懇願する。


 俺が言葉を返そうとしたその時、小さな蜘蛛が糸を伝って現れた。


 ……なんだ?


 みるみる内に、小蜘蛛が増える。

 そして小蜘蛛は、大きな声で柚子の心を吐き出し始めた。


『妾は旦那様を見ている様で、自分しか見ていない』

 小蜘蛛が、柚子の懺悔を吐き捨てる。


『魂が同じでも、旦那様とは違う』

 小蜘蛛が、柚子の悔恨を吐露する。


『妾が捨てられた事なんて、とっくの昔に分かってる』

 小蜘蛛が、柚子の悔悟を口に出す。


「あ! ああ! 黙れ! 黙るのじゃ!」


 柚子が糸を繰り、小蜘蛛を払い落とす。

 しかし次々に小蜘蛛は湧いて、延々と柚子を糾弾した。


『本当はもう、旦那様の顔も思い出せない』


「黙れ!」

 柚子は吼えて小蜘蛛を叩き潰す。


『誰も好きだなんて言ってくれない』


「止めるのじゃ!」


 柚子がどれだけ暴れても、際限なく小蜘蛛は湧いてくる。


『人形を娘として扱っていたら、こんなに孤独じゃなかった』


「止めろ!」


 柚子は糸を引っ掻き、破り、小蜘蛛を虚空に落した。

 それでも、小蜘蛛は増え続けて口を開く。


『一番幸せな時に、大人しく死んでおけば良かった』


「止めてくれ……」


 柚子が数百年育て続けた嘘が、次から次へと溢れてくる。


 とうとう柚子は、小蜘蛛から逃れるように頭を抱え蹲ってしまった。


 それでも、どんどん、どんどん、小蜘蛛が湧いて出る。

 その度に、俺の脳は少しづつ柚子の心や感情に侵されていった。


 なるほど、これが魂を混ぜるという事か。

 なんか、あれだな。

 カサネは魂を混ぜるのは自分が消えるのと同じだ、みたいに言っていたけど、感覚的には人と関わりあって人格が変わるのを急速にやってる感じだ。


 これだけ深く無理やり関わったら、そりゃあ人も変わる。

 気を抜いたら、すぐに精神が引っ張り込まれそうだ。


 どうしようかな……耐える必要あるか?

 なんか、あー、どうしよう。

 頭がぼーっとする。


 小蜘蛛の数が増えていく、少しキモイ。


 小蜘蛛に責められ続ける柚子を見て、何か言った方が良いのだろうと思った。

 だが、こういう時に何を言えば良いのか分からない。


 ……少なくとも、このまま小蜘蛛に呑まれるのは得策では無いな。


 俺は蜘蛛の糸から逃れようと、軽く体を揺する。

 しっかりと体に絡みついているように思えた蜘蛛の糸は、少し強く力を込めるとあっさりと解けた。

 そのまま特段何かに邪魔される事も無く、俺は柚子の前に辿り着く。


 俺が近くに行くと、柚子は頼りない糸をかき集めて身を隠した。

 柚子は、震えている。


 柚子の頭に、そっと手を乗せた。


 ゆっくりと手を動かす。

 手からは、柚子の心が限りなく流れ込んでくる。

 そして、そのどれもがエゴ塗れの愛だった。


 まったく、母親ってのはこんなんばっかりだなあ……。


「……なあ」


 俺が声をかけると、柚子はいっそう縮こまった。


「柚子はさ、どうしたい?」


 俺の言葉に、柚子は沈黙で返した。

 そんな中、周囲の小蜘蛛は変わらず柚子を罵り続ける。


 ……煩いな、まるで蝉みたいだ。


「なあ、柚子。お前さ、何か色々後悔してるみたいだけど、今までずっと旦那様しか見てなかっただろ? それなら俺と混ざる時も、そんな感じじゃ駄目なのか?」


 騒々しい周囲の小蜘蛛に大して、目の前で震える大蜘蛛は相変わらず静かだ。


 ……まあ、俺の言葉なんてこんなもんか。


 どうせ全部混ざってしまうのなら、今は何もすべきではないのかもしれない。

 そう結論付けて、俺はその場に座り込む。


 小蜘蛛の数が、いよいよ増えてきた。

 無数の小蜘蛛たちが好き勝手に柚子の感情をぶちまけるせいで、もはや周囲に響く音は言葉の体を成していない。


 ……なんか、休み時間の教室を思い出すな。

 みんな好き勝手に話していて、それでいて会話は成立している。

 だというのに俺には一つも聞き取れない、あの感覚。


 俺は、このまま柚子と混ざっていくのだろうか?

 だんだん頭に満ちてきた柚子の心を認識し、そんな事を考える。


 頭が熱くて、ぼんやりする。

 脳内は柚子の心でいっぱいなのに、柚子の考えている事は何一つ分からない。


 暇つぶしに、小蜘蛛を一匹手に取る。


「あー……」


 デロリ、と小蜘蛛が溶けた。

 白い液体となった小蜘蛛は、そのまま青い虚空に滴り消える。


 辺りを良く見てみると、徐々に小蜘蛛は溶けて数を減らし始めていた。


 ぼーっと小蜘蛛を眺め続ける。


 小蜘蛛が、溶けて、溶けて、溶けて……半分くらいいなくなった所で、ようやく小蜘蛛達の発する声が意味を持ち始めた。


『旦那様に会いたい』

 小蜘蛛が、そう呻いて溶けた。


『旦那様に逢えない』

 小蜘蛛が、そう喘いて溶けた。


『旦那様に愛されたい』

 小蜘蛛が、そう哭いて溶けた。


 その様子を見て、幽霊は想いの力で現世に留まるという柚子の言葉を思い出す。


 小蜘蛛が減れば減る程、ボンヤリとしていた頭が再び冴えてきた。

 そして俺は気が付く。


 幽霊が願いへの執念で形を保っているのなら、願いが叶わないと知った場合も幽霊の形は崩れるのではないか?

 現に、さっきまで俺の頭に満ちていた柚子の心はすっかりと抜け落ちている。


 ……つまり、このままだと柚子の魂は、俺の魂と混ざらずに消える。

 それは本当の本当に、柚子の死を意味するのではないか?


 そう思い立った瞬間、俺はどうにかしようと立ち上がり、同時に引っかかりを覚えて立ち止まる。


 こいつって、結構クズだぞ?

 母親の癖にカサネにめちゃくちゃ冷たいし、カサネと明日香の魂を何の確認も無く混ぜようとしたし……なにより、生前に娘を殺しまくってる。


 ……いや、違うな。

 それは柚子とカサネの問題であり、柚子と明日香の問題だ。

 俺が口出しする問題ではない。


 俺は、どうしたい?


 ……柚子に、このまま最期を迎えさせたくない。

 直球で愛してるって言われたのは、結構嬉しかったんだ。


 そうやって半ば無理やり自分を納得させた俺は、すぐさま柚子に駆け寄る。

 きっともう、時間は残り少ない。


「おい、柚子。お前が消えないようにするには、どうすれば良い?」


 瞬間、周囲を取り囲んでいた小蜘蛛達が、口々に愛してくれと喚きたてる。

 しかし、他ならぬ大蜘蛛は、柚子は何も話さない。


「俺は何をしたら良い? 柚子は何をして欲しい? 柚子はどうすれば消えないんだ!」


 小蜘蛛が、柚子の心が、蝉の様に煩い。


「柚子、まだ間に合うだろ? 数百年生きたんだろ? お前の言葉で、これからも俺と柚子が一緒にいられる方法を教えてくれよ!」


 それでも柚子は、蹲ったまま動かない。


「どうすれば、良い? 柚子が消えるのは、嫌なんだよ……」


 こいつの心は、どうしたって愛してくれと叫び続けているのに、肝心の柚子は俺を見ようとすらしない。

 ずっと俺だけを見つめていた漆黒の目が、俺を見ようとしないのだ。


 何故だ?


 柚子を良く見る。


 こちらを見てない柚子を見て、気が付いた。

 俺は、やっと柚子の出した結論を理解したのだ。


「なあ、柚子……どんな最期が良い?」


 そうして、柚子はようやく口を開いた。


「妾を、振っておくれ。愛せないと、そう言っておくれ……」


 相変わらず、柚子は俺を見ようとしない。


「……分かった」


 小蜘蛛の声にかき消されないよう、柚子の頭に顔を寄せる。


「なあ、柚子」


 俺がそう言うと、柚子がピクリと動いた。


「柚子、俺は柚子を……」


 言葉が詰まる。

 これを口にしたら、きっと本当に柚子は死ぬのだ。


「……あ」


 そうやって俺が躊躇していると、ついに柚子の表面がドロリと溶けだす。

 溶けた蜘蛛の外殻の内から、見慣れた柚子の幼い顔が現れた。


「旦那様、大丈夫じゃ……」


 柚子は、俺の瞳をしっかりと見つめ返した。


「旦那様、妾はずっと、何百年も、終わりを……結末を待っておった。永遠なぞ、望んでおらぬ。旦那様が居なくなったあの日から、ずっと止まった時を動かしたかっただけなのじゃ……」


 柚子は、狂気すら消えた漆黒の瞳を細めて微笑む。


「旦那様、愛してる。永遠に一緒におって、妾を一番に想って、四六時中抱き合って、重なり合って微睡んで、そうやって、そうやって……」


 溶け続けていた大蜘蛛の外殻が、ついに力なく崩れ落ちる。

 その中心で、柚子はしっかりと立っていた。


「……妾と永遠に愛し合ってくれぬか?」


 数百年越しの、愛の告白。

 字面はまるで安っぽい恋愛映画だが、目の前の少女が抱く感情は、どこまでも現実だ。

 いっそここで、本当の安っぽい恋愛映画のように、柚子の言葉を無視して愛してると嘘を吐こうか?


 ……そんな事、できないけれど。


 俺は柚子から目を逸らさず、ゆっくりと口を開く。


「柚子……俺は柚子と、そんな風には愛し合えない」


 柚子は、小さく揺れた。


「そう、か」


 柚子の顔が、くしゃりと歪む。

 笑顔を作ろうとして、それでも感情が抑えきれない、そんな表情だ。


「じゃあ、さよならじゃ……」


 そう言って、柚子は虚空へ溶け落ちる。

 どこまでも美しい紅を湛えた柚子の雫は、まるで沈む夕日の様だった。




 周囲に残っていた小蜘蛛達が一斉に泣き出す。


 ……やはりその音も、蝉の声に似ていた。

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