第43話 楚歌

 俺は幼女の方に向き直り、できるだけ機嫌を損ねないように優しく語り掛ける。

 願いが叶えば、俺は完全に母の呪縛から解放されるのだ。

 こいつの機嫌を損ねて叶えられませんでした、では笑えない。

「なあ、君の事は何て呼べばいい?」


「え? え! 妾が決めて良いのか? 良いのか! ではの、ではの、柚子と! 柚子と呼んで欲しいのじゃ!」


「じゃあ、柚子。一度、本殿から出してくれ」


 次の瞬間、俺はここに来た時と同じように神社の入り口に立っていた。

 辺りを見渡す。

 ……よし、明日香もカサネも無事だ。


「早速で悪いが、俺の願いを叶えてもらう事ってできるか?」

 俺がそう言うと、柚子の表情が目に見えて明るくなる。


「じゃあ旦那様、よおく妾の瞳を覗いて欲しいのじゃ」


 言われた通りにその漆黒の瞳を覗く。

 脳の隅々が柚子の心で満たされて、満ちて、満ち満ちて。

 好きという心が、一緒にいたいという感情が、捨てないでという言葉が、心の隙間を這い巡る。

 咽かえる程の、好意。

 其れは正しく狂気と呼ぶに相応しい。


 そうして神は、目を瞑った。


 俺の脳に満ちていた柚子の心が、波の様に引いていく。

 しかし、あの一瞬で充分だった。


 俺はえずき、盛大に吐く。だが、そんな事気にもならない。

 それほど大きな衝撃を、柚子の心は俺に与えていた。


 俺は柚子が旦那様に向ける愛の一端に触れた。

 本当に、柚子は俺と一緒にいる為なら全てを捧げるつもりだったのだ。

 これの感情は、全ての一言で足りる程に大きな、どれだけ言葉を尽くしても足りない程に重い。

 そんな旦那様一人に向けられた愛だった。


 故に見えた、俺の歪。

 俺はこいつを、どう評していた?

 俺は柚子の事を、母と同じ様に俺を通して他人を見ていると、俺の為と言いながら不愉快な事を強要してくるに違いないと、そう評したのだ。

 こいつの愛はそんな次元に無い。

 こいつの感情に比べたら、俺の言っている本当の意味での人の為なんて嘘だ。嘘だ。嘘でしかない。

 だというのに、俺は今まで少しでも他人の気持ちを分かる気でいた。

 本当に愚かだ。


 思えば、俺は行動原理からして不純そのものだった。

 上梨と明日香だけでなく、あわよくば叔父さんやカサネまでも救えるのでは等と思い上がって、本質は徹頭徹尾エゴの塊。

 母を自分の中から追い出す為に、必死で自分の中に母を探している。

 人の為等という綺麗事を装った、矛盾塗れの自意識だ。

 そんなトラウマの正体を、俺はようやく理解した。


 俺はもう、何をどう間違っても人の為だなんて理由で行動できない。


 そんな俺がそれでも明日香や上梨と一緒にいたいのなら、それこそ心を読んで相手のトラウマから欲求まで全てを知り尽くす事で、好きな相手の望むように、願うように動くしかないのだ。


 結論は出た。

 そして思考は完結し、俺はようやく柚子に与えられた衝撃から解放される。


 いつの間にか目を瞑っていたようだ。

 眩しさに目を細めつつ、ゆっくりと目を慣らす。


 心配そうな顔をした幼女二人が、俺の顔を覗き込んでいた。


「たかし! 起きて! ゲロしながら寝たら死んじゃう!」


「旦那様! 旦那様! 大丈夫か? ぽんぽん痛いのか?」


 そういえば俺、吐いたんだったな。


 改めて、じっくりと二人の顔を見る。

 ……あれ?

 さっきみたいに感情が流れ込んでこない。


 もう一度二人を見る。

 しかし、結果は同じだった。

「なあ、柚子。本当に俺の願いは叶ったのか?」


「ん? うむ。相手の目を見れば、たちどころに覚れる筈じゃ」

 柚子は当然といった様子で頷いている。


 今度は対象を明日香一人に絞り、じっくりと目を覗き込む。

 しかし、俺の脳には一向に明日香の思考が流れ込まなかった。


「…………本当に俺の願いは叶ったのか?」


「その筈じゃが……少し確かめてみるか?」

 そう言うと、柚子は俺の両目を手で覆う。

 しばらくそのまま待っていたが、何か様子がおかしい。


「おい、どうした?」


「……掛けたはずの術が見つからんのじゃ」

 そう言うと、柚子は俺の両目に翳していた手をどける。


【るぇゑ、ぇるぇ、ゑぇる】


 次の瞬間、俺の左手から黒いウニョウニョが飛び出した。

 久しぶりに見たな。それに、なんだか前よりデカくなってる。


「なるほど、旦那様は孔を開けておったのか」


「……どういう事だ?」


「その黒い炎は孔と言って、基本的に体内に留まっとる魔力を取り出すときに使う穴なんじゃ」


 柚子は、前に叔父さんから聞いた魔力のパスについての説明と同じような事を言った。


「それでの、術というのは基本的に相手の魔力に干渉する事で発動するんじゃが、妾の力が大き過ぎて穴が広がり、そのまま術が流れ出てしもうたという訳じゃ」


「っ……」

 俺が心を読めるようになる手段は無いって事か?

 そういえば、儀式の時も叔父さんの術が俺には効き辛かった。


 クソ、こんなことなら魔力のパスなんて繋げなけりゃ……いや、そういえば炎を切除すれば魔力のパスは切れると叔父さんが言っていた。


 その事実に思い立った瞬間、俺は左腕に纏わりつく黒い炎を無造作に掴んだ。


【るッぇゑ! えゑェるㇽえ!】


 力を込めて引っ張ると、炎は不快な断末魔を上げ始める。

 俺はそれを無感情に見つめ、なおも力を込め続けた。

 全てを知れなければ、事実を突きつけられなければ、俺は上梨の告白にも答えられないし、明日香の願いも叶えられない。


【えゑェるッぇゑるㇽえェるッェるッゑるㇽえェる】


 更に右手に力を込める。


【るるrるゑるるるゑるゑるるえるゑるるえるゑるㇽㇽrrrrr】


 赤黒い液体を噴き散らしながら、更に激しく炎が蠢く。

 ブチブチと嫌な音が鳴り始める。


 ……痛みは無い。


 俺はそのまま、一気に引き抜こうと力を込める。

 瞬間、明日香が俺の右腕に縋りつく。


「やめて! やめて……やめてよぉ…………」

 明日香が泣きながら俺を睨んでいる。


「止めてって、お前。別に痛みとかは特にないぞ?」


「違う! 違うの!」

 違う、違う、と明日香は更に涙を流し続ける。


 訳が分からない。

 何が違うっていうんだ?

 こんなすれ違いだって、心さえ読めるようになれば解決するんだ。

 上梨が俺に言ってくれた告白にだって、正しく答えれる。

 何も間違っていない筈だ。

 明日香が母に無視された時だって、俺に心が読めていたら、明日香の望みを事実という形で俺に突きつけられていたら、明日香はあんなに残念そうに笑わずに済んだんだ。


「何が違うんだよ。分からないんだ、どれだけ考えても、その予想した気持ちが正しいんだと確信を持てない。何を思っているのか、何て言って欲しいのか! 分からないんだよ!」

 思わず大きな声を出してしまい、すぐに後悔する。

 最悪だ。自分で一番、怒鳴られる怖さは知っていた筈なのに。


「……すまん、大きい声出して。でもやっぱり俺、お前の事も、上梨の事も、なんにも分かんないんだ……」


「本当に、分かんないの?」

 涙を湛えた瞳で、明日香が俺に尋ねる。


「……すまん」


 項垂れる俺を見て、明日香はとつとつと話し始める。

「あの、ね。それ、その魔法の火。私が初めてたかしに会った日の……思い出、だから、とっちゃ、やだ。やだったの……」


 あ……。

 俺は愕然としていた。

 心を読む事ばかりに気を取られ、そんな簡単な事にすら思い至らなかったなんて。


 俺は本当に、何をしているんだ。


「ごめん……明日香。でも俺、やっぱり心が読めないと、明日香や上梨と一緒にいれる自信が無い……」


 俺は、どこまでも臆病だった。

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