第42話 面影

 神の瞳に、じわじわと心が蝕まれるのを感じる。

 首筋の毛が逆立ち、口内から唾液が溢れ、心が妙な温かさで満たされるのだ。


 神の瞳に映る黒が徐々に広がる。


 このまま俺はこの宇宙に溺れるのだろうか?

 それも良いな。

 妙な呼吸に身を委ねていると、俺は気が付いた。

 そうか、違うな、近づいているのだ。

 瞳が、鼻が、眉が、瞼が、頬が、口が。


 その貌が。


 視界一杯に広がる神の貌は、最早青空の様だった。

 やけにゆっくりと早鐘を打っている自らの鼓動と、蝉の鳴き声が重なる。


 煩いな。


 こんなにも美しい空が広がっているというのに。


 頬は手に包まれた。


 目の前に瞳がある。


 鼻と鼻は触れ合っている。


 いずれ唇も触れ合うのだろう。


 ああ、心地良い。

 昼下がりの、まどろみのようだ。

 いっそこのまま目を瞑ってしまおうか?


 俺の唇に、いよいよ神の唇が触れそうになる。


「ダメ!」


 明日香が勢いよく幼女を突き飛ばした。


「ダメ! ダメ! ダメ! ダメ! たかしは! かみなしさんと結婚するの! チューも! かみなしさんとするの!」


 面白いように飛んで行った幼女を睨みつけ、明日香は噛みつくように吼えた。


 瞬間、先ほどまでフワフワとしていた意識が覚醒する。

 ……なんだったんだ、今の?

 しかし、それについて考える間もなく俺はまた異常なものを目にした。


 人形の様にぐったりと倒れていた幼女の下半身が潰れる。


 潰れた肉塊から、ウゾウゾと無数に虫の肢が生え始めた。


 幼女は何本もある肢を器用に使い、無理やり立ち上がる。


 その動きは生物と呼ぶには余りに滅茶苦茶で、子供が好きに操る人形を想起させた。


 気持ち悪い。


 気持ち悪い。


 気持ち悪い。


 気持ち悪いと、確かにそう感じた筈だ。

 だと言うのに気持ち悪い肉塊なんて最初から存在せず、普通の幼女が最初からそこにいましたとでも言いたげに俺の目の前に立っていた。


 至って普通の幼女が、立っていたのだ。


 俺、遂に狂ったか?

 精神病院って千雄町みたいな田舎にもあるのかな……。

 そもそも幻覚治す薬って保険おりるのか?


 俺は半ば現実逃避気味に不安を募らせる。

 だが、そんな現実逃避も長くはもたなかった。


 ずっと俺を凝視していた幼女がグリンッと首を回し、急に明日香を見たのだ。


「お前は、要らぬな」

 幼女はそう言うと明日香に掌を向ける。


 ヤバい。魔法や怪物に造詣が深くない俺でも流石に分かった。


 咄嗟に声が出る。


「ちょ! と、待って……下さい」


 口から出た言葉は尻すぼみで随分と情けなかったが、それでも敬語だっただけ上出来だろう。


 幼女は無言で首をゆっくりと回し、俺を見る。

 その顔は今にも泣き出しそうな程、不安気に歪んでいた。


「な、何じゃ? 何か気に障ったかの? あ、謝るから、全部直すから、だから、だから、もう、いなくならんでくれ……」


 さっきまでの超然とした雰囲気から一転、幼女は捨てられた小猫の様に震えた声を出す。


「あれだ、あれです。ふた、二人で話したいから、二人で話せる場所に移動しませんかね?」


 自分でも笑いっちゃいたくなるほど噛んだが、幼女は馬鹿にした様子も無く笑顔で頷いた。

 瞬間、俺と幼女は神社の本殿の中で向かい合って座っていた。

 本殿の中は少々薄暗い。


「何を話したいのじゃ? 何でも良いぞ? 何時まで話そうか? いつまでも話そうか? 妾は、すべからく全てを話すべきじゃと思っておるし、旦那様の頼みとあれば永久すら創るつもりじゃよ?」


 そう捲し立てるように口を回らせる神の瞳は、実に黒々として見えた。


 ……いかん、幼女の目を見てたら呑まれそうになる。

 とりあえず、明日香とカサネから幼女を隔離できたから、次は情報収集だな。


「あ、あの、なんで俺が、だだだ、旦那様なんですかね?」


 比較的落ち着いてきた心とは裏腹に、俺の口からは情けない程に震えた声が出た。


「……ん?」

 幼女のクリクリとしたドングリまなこが見開かれる。


 次の瞬間、神社の本殿が吹き飛んだ。


 瞬間的に膨張した神の肉体。


 無限に増殖する虫の肢。


 あらゆる異常が本殿の破片を蹴り散らす。


 その暴力的な破壊行動はまるで爆弾の様だった。


 巨大な瓦礫が吹き飛ばされてきて、俺の眼前に迫る。

 死ぬ。そう理解した。

 尤も、次の瞬間には何事も無かったかのように全て元通りになっていた訳だが。


 訳分からん。これが神の力って事なのか?

 さっきまでバラバラだった筈なのに、今はしっかりと本殿が存在する。

 薄暗さまで完璧にさっきと同じだ。

 その上、幼女の膨張した肉体や、無限に蠢いていた肢は見る影も無い。


 狂ってんのか?

 世界が。

 いや、俺か?


「ケガは無いか? 傷はついてないか? 死んでないか? 消えてないか? そこにおるか? 痛くないか? 大丈夫か?」


 俺が呆けていると、ぺたぺたと幼女が俺の身体を触りながら心配そうに声を掛けてくる。


「だ、大丈夫です」


 俺がそう答えると、安心した様に幼女は胸を撫でおろす。


「よ、良かった。それで、旦那様が何故旦那様なのか、という問じゃったな?」


「あ、はい、そうですね」


「旦那様はの、前世で妾の旦那様だったのじゃ! 妾は怪物だったのに、旦那様は優しかったのじゃ! それで、それでも、妾が不甲斐ないばかりに、旦那様は居なくなってしまった。じゃから、妾が本当の息子を造れば戻ってくれると思ったのじゃ。故に娘を潰して固めて息子を作った訳じゃな? それでも旦那様が帰ってこんから探しに行ったんじゃが、見つからなくての? 本当に不甲斐ないばかりじゃ。じゃからな! じゃからな! 死して幽鬼になれば永遠に旦那様を探せると思って……思ったのに、坊主に封じられてしもうた。でも、八百万の人間の願いを叶えれば封印は解けるという契約じゃったからの! 頑張っての! 旦那様を探しに行く為に、何百年もずっと願いを叶えておったのじゃ! でも、もう、旦那様も見つかったから、ずっと一緒にここにおれるな! 何をしたい? 旦那様は釣りが好きだったの? この封印の中には川があるぞ? 旦那様の為に創ったのじゃ! そうじゃ、旦那様は息子を欲しがっとったな? 大丈夫じゃ、妾と旦那様の息子を造る為の魂はとっておいてある! 何時でも潰して好きな息子を造れるぞ!」


 まだまだ話を続けようとする幼女の言葉を止める為に、俺は口を開いた。

 次の瞬間、幼女は押し黙る。

 俺が話そうとした事を察し、耳を傾けているのだ。


 ……やっば。


「あの、俺は旦那様では無いです。俺には、その、前世の記憶とか無いので。よしんば俺の魂がその旦那様と同じだとしても、俺とその人は別人です」


「……? 旦那様は、旦那様じゃよ」


「いや、でも、記憶ないんですが。外見も違うだろうし」

 寧ろ、同じところなんか一つも無いだろう。


「心が、同じじゃ」

 自信満々に幼女は胸を張っている。


「……俺の性格は俺の人生ありきのモノなんで、その旦那様とは完全に心も別だと思うんですけど」


 俺の意見に、しかし幼女の自信は揺るがない。


「旦那様の言う通り、心の表面は違うかもしれん。でも、根っこの部分は同じじゃよ? 実際、旦那様の身体からは随分と濃い怪物の瘴気が漂っておる。前世で妾に手を差し伸べた様に、今世でも怪物に手を差し伸べたのじゃろう?」


 ……上梨の事か。


「その顔、やはり図星だった様じゃの? 旦那様が妾以外の女と一緒におったというのは妬けるが、旦那様が今世でも旦那様だったと分かって妾は嬉しいぞ!」


 本当に嬉しくてしかたがないといった様子で幼女は笑っている。


 ……俺は一人で十分だ。

 だいたい、心の根っこの部分って何だよ。知らねえよ。

 いつも見えてるのは心の表層なんだから、表層が違ったら別人だろ。


 そもそも、俺が上梨の力になりたいと思ったのは、あいつが、あいつが……いや、どれだけ不満を並べても意味など無いか。

 俺が怪物と友好関係を築いた時点で、こいつの中で俺と旦那様は同一人物という事になるのだから。

 しかし、事実として俺は旦那様では無い。


 であれば、俺を通して父を見ていた母の様に、こいつも俺の為と言いながら不愉快な事を強要してくるに違いないのだ。


 ……願いを叶えてもらったら、適当に誤魔化してさっさと帰らせてもらおう。

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