第32話 蛹化

 ヤバい。

 あの瞳孔の開ききった上梨の目、確実にヤバい。


 いつもとは確実に異なる上梨の雰囲気が、俺を恐怖に駆り立てる。

 しかし、その間にも上梨は一歩ずつ俺との距離を詰めてくる。


 くそぉ……前回怪物化してから、通話越しでは一度も怪物化する事は無かったのに。

 なんで今になって……というか怖い。本当に怖すぎる。


 そもそも、今回の捕食対象は誰だ?

 ……いや、考えるまでも無いな。

 上梨の視線の先には俺しかいない。

 それなら、俺がここを離れる事さえできれば、明日香に危険は及ばないだろう。


 上梨が怪物化する前に逃げるか?

 海水浴の帰りに、俺を喰いかけて絶叫していた上梨の姿が脳裏を過る。

 俺が喰われたら、今度こそ上梨は自殺するのだろうか?


 俺は、無理やり恐怖に竦んだ足を動かして椅子から立ち上がる。

 しかし、既に上梨は俺の眼前まで近寄ってきていた。


 もう距離が無い。

 俺が上梨を振り切ろうと動く前に、上梨は俺の手を掴む。

 そして、俺の指に食らいついた。


 咄嗟に目を瞑る。


 怖い、怖い、怖い、怖い!

 真っ暗な視界の中で、指が食いちぎられる痛みを耐える為に、必死で奥歯を噛み締めた。

 くそ、くそ、くそ、くそ、痛いのは嫌だ。



 …………痛みは、まだ来ない。

 いや、気を抜いた瞬間に来る奴だろ?

 安心した瞬間が一番怪しいんだ。俺は知ってる。

 俺は尚も、ギリギリと奥歯に力を込め続ける。


「うぐっ!」

 指が、ぬめってした!


 生暖かく柔らかな舌が指を舐る感覚。

 目を瞑っていたからか、嫌に鮮明に感じられた。


 恐る恐る、俺は目を開く。


 上梨は俺の手を両の手で大切そうに持ち、妙に艶めかしく舐っていた。

 ……怪物化は、していない。


「その指を……喰うのか?」


「そんな事、する訳ないでしょう?」

 俺の質問に、上梨は心外だとでも言いたげに口をとがらせて返事をした後、再び俺の指を口に含んだ。


「はああぁ……」

 どっと気が抜け、思わず息が漏れる。


 明日香の言っていた、捕食行為が収まるというのは事実だったのか?

 ……いや、まだ断定するには早いか。

 とはいえ、最悪の事態にならなくて良かった。


 尚も舌を動かし続ける上梨は、俺の浮かべる安堵の表情の理由がいまいちピンときていないようだ。


 俺は、瞳孔が開ききったまま無言で指を舐り続ける上梨に声をかける。

「おい、なんで俺の指を舐っている?」


 上梨は自分の口から、俺の指をぬろっと引き抜く。


「なんでって……こうしていないと、なんだか落ち着かないから」

 まるで何もおかしな事は無いといった様子で、上梨は答える。


 え? あれ? 俺がおかしいのか?

 冷静に考えると赤子も指しゃぶってるしな……。

 もしかして、指を口に含むと落ち着くというのは現代の常識?

 俺が無知なだけ?

 ……いや、流石にないだろ。


「おい、しゃぶるにしても自分の指にしろ。今時は赤子だってそうしているぞ」


「貴方は何を言っているの? 自分の指を口に含んでも意味が無いでしょう?」


 怪訝な顔すんな。お前が何を言っているんだ。

 誰の指を口に含むかによって、意味が生じたり生じなかったりするものか。


 ……本気で大丈夫か、こいつ?

「おい、上梨。友人の指を舐るという行為を、俺は余り一般的でないと思うんだ。お前はどう思う?」


「どう思うって、別に指を、え……? あ……私、な、舐め、え、わ、わ、分からない。なんで? なんで? だって、何の違和感も、う、く」

 最初怪訝だった上梨の表情は次第に揺らぎ、最終的に頬が真っ赤に染まった。


 ……本当に只事では無さそうだな。

 叔父さんに色々聞いてみるか。


「とりあえず落ち着け、別に誰か死んだわけでもないんだ。ちょうど明日香もいるし、久しぶりに近くで話そう」


「で、でも私は……」


「確証は無いが、さっき正気を失わずに襲い掛かってこなかったのなら当分は大丈夫だと思う」


「そ、そうかしら?」


「今も思考力はハッキリしてるんだろ?」

 瞳孔の開ききった、明らかに怪物化しているはずの状態でも、上梨は怪物化していない。

 詳しい事は分からないが、明日香が立ち聞きした捕食行動の沈静化とは、この事なのではないのだろうか?


 結局、俺の言葉に上梨は折れた。

 こいつもなんだかんだ言って、会って話したかったのだろう。

 そこに俺の言葉と叔父さんの話があったのなら、まあ当然の結果だ。


 ちらりと明日香達の方を見る。

 明日香は、見知らぬセーラー少女の登場や、上梨の奇行に、目をまんまるにして呆けていた。

 一方、セーラー少女は相も変わらず俺達に欠片も興味を示していない。

 こいつ、本当に他者に関心無いな。


「かき氷お持ちしました~」

 店員さんが、気の抜けた声と共に登場する。


 さっき指舐められたの、見られてないかな?

 というか、上梨はそろそろ俺の手を放せよ。


 俺は、上梨に視線で抗議する。

 しかし、リコーダーを持つように握られた俺の手は一向に返却される気配が無い。


「ご注文されたものは以上でよろしかったでしょうか?」

 店員さんが、かき氷の配膳を終え、確認をとってくる。


「あ、はい。大丈夫です」

 そのまま店員さんは一礼して帰っていった。


「上梨、とりあえず手を放してくれ」


「その前に、その人は何なのか説明して」

 上梨はセーラー少女を真顔で見つめている。


「私も! 聞きたい!」

 上梨の言葉に続いて、明日香も声を上げる。


 ……説明するのって、俺の手を放した後でも良くないか?


「そのセーラー服の人は、大蜘蛛神社の神の遣いらしい。なんか、願いを叶えるのが目的なんだそうだ」

 自分で言っておいてなんだが、めちゃくちゃ胡散臭いな。

 なんか神隠し的な奴をやってたから信じちゃったけど、神隠すタイプの詐欺師かもしれん。

 壺買えば願い叶うよ、とか言われたらどうしよう。まあ、買わんけど。


「それで、大蜘蛛神社に来て何か願って欲しいらしいけど、そもそも日曜には神社に行く予定だったから、すぐに連れて行くのは待ってもらってる。まあ要するに、俺が約束をすっぽかさないように監視されてるって感じだ」

 俺の話を、明日香はうんうんと頷きながら聞いている。

 対照的に、上梨は胡散臭そうにセーラー少女を見つめていた。


 いつもの上梨だったら、貴方って本当に誰からも信用されていないのね! くらいは言いそうなものだが。

 やはり、明らかに様子がおかしいな。


「……それじゃあ、なんか質問あるか?」


「はい!」

 明日香が手を挙げる。

 元気でよろしい。


「よし明日香、質問を許可する」


「どこで、知り合ったの?」

 ……もっと、こう、自分も願いを叶えられるのか? とか、どんな願いなら叶えられるのか? とか、そういう事を気にしろよ。

 なんで息子に彼女を紹介された親みたいな質問が最初に出てくるんだよ。びっくりだよ。


「叔父さんが儀式の時にやってた、場所を移動させる奴を掛けられて、その時に会った。今朝、玄関を出たくらいのタイミングだ」


「ええ! 今朝?!」


「今朝」


「玄関で?!」


「玄関を出たくらいのタイミングで」


 明日香は、分かり易く驚いている。


「あ……でも、私は会ってないよ?」


 ……こいつ、話聞いてなかったのかな?

「神隠し的なアレの中で会ったから、俺しか会ってないの」


「そうなんだ……」


 そうなんだよ……。

 俺はげんなりとした気持ちを抑え、もう少しまともな質問を求めて上梨に話題を振る。

「上梨は、何か気になる事あるか?」


「そこの人は……その、次の日曜まで、四六時中貴方を見張っているの? ほら、夜逃げとか、されるかもしれないじゃない?」

 お前の中の俺、約束を破る事に全力を掛け過ぎだろ……。

 なんで願いを叶えてくれるって言っている相手に、借金取りと同じ対応をしなけりゃならんのだ。

 借金取りも最初は願いを叶えますよって顔で寄ってくるからか?

 見越し過ぎだろ、金借りる前から夜逃げるな。いや、借りても逃げないけどさ。


 上梨の言葉に、かき氷を食べていたセーラー少女は面倒くさそうに答える。

「別に、そいつを盗ったりしないから安心して良いですよ」


 その言葉を聞いた瞬間、上梨の瞳孔は元に戻り、今までずっと漂っていた異様な雰囲気は霧散した。


「別に、私と彼はそういうのではないから……」

 上梨は耳まで真っ赤になりながらも、声音だけは冷静にセーラー少女へと返事をする。

 お前、いつもは全然平坦な声音のキャラじゃないだろ。

 動揺を隠そうとし過ぎていて、逆に違和感があるわ。


 ……もしかして、上梨って俺の事好きなのかな?


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