第7話 昇華
収骨室の扉が開かれ関係者が重い足取りで進んでいく。綾子はロビーで受けたあのツンとするような臭いに鼻を突かれ、ハンカチで口元を押さえた。人を焼く臭いを消臭剤で消しているのだろうか。どちらもが相まって独特の臭気を発している。綾子は不謹慎だと思いながらそれが、精子の臭いとよく似ていると感じていた。
収骨室に入ると鉄製のベッドのようなものの上にそのままの姿で横たわっている人骨が視界に飛び込んできた。焼き場の係であろうと思われる痩せた男が、その場にそぐわない元気な声で関係者全員が中へ入るように指示している。
「もっと、全員中へお入りください!珍しいくらい綺麗にお顔の形が残っていますので、よく見て差し上げてください!」
はきはきと力のこもった係の説明の声が、悲しみに暮れる関係者の気持ちと反比例しその部屋の中で浮かび上がっていた。集まった人数は寺畑の関係者五名に綾子が加わり六名と寂しいものだった。収骨の手順を係のものが説明しながら、美智子と息子が骨を骨壺に収めていく。順々に巡り、綾子が隣の人と並んで骨を長い箸で拾い上げた。
綾子の目の前に横たわる人骨は何処までも白く、儚いものだった。腰の辺りの骨に一点赤黒い染みの様なものが見て取れた。それが他の箇所よりも生々しくこれが元は生命が宿っていたものだったと言うことを綾子に告げているようで胸が痛んだ。別人の様な遺体にはどうしてもそれが和夫のものだと言うことを認めきれなかった綾子も、この真っ白な骨を前にすると自然と涙が溢れてきた。人の魂の存在が微塵も許されないそんな荘厳さを伴った白さがまぶしくて、綾子は瞼を閉じて合唱した。手を合わせて祈りながら和夫とのセックスで癒されるなどと考えていた自分をなんと傲慢だったことかと振り返った。人が人を癒すなどと考えること自体が相手を自分の道具として使っていることなのだと自覚し、胸に細い錐で穴を開けられるような痛みを覚えていた。
綾子が骨を拾う番になり、その姿を正面から見つめながら美智子はこの収骨室の壁が鏡張りになっていることに気が付いた。どういう意図でそのような設計になっているのか美智子には解らなかったが、その時ふと自分たち三人の関係がそのままの形で写し出されているように感じていた。和夫と綾子と美智子の三人が背中合わせで万華鏡の筒の中に立っている。互いに本音を聞き出すことは避け、誰かを通してどこかの鏡に写った姿をかいま見る。もしかするとそれは自分自身の姿を愛おしみ、探し出すために鏡を通して相手の反応を見極めていたのかもしれない。そう思いかけた美智子に綾子が涙する姿が飛び込んできた。
―そうでは無いのかもしれない。少なくともこの女性は和夫と正面から向かい合ってくれていたのだろう。
涙を拭うことなく合唱する綾子の姿を、これまで持っているどの彼女の写真よりも深く瞼に焼き付けておこうと美智子は息を凝らし、じっと見つめていた。
最後に美智子が再び喉仏を骨壺に収めた。美智子は和夫の骨を拾いながら骨の白さと軽さにこれまでの全てが洗い流されていくような無常感を胸に刻んでいた。音もなくサラサラと流れる砂時計のように美智子の心の中でこれまで抱え込んでいた様々な感情が浄化され吹く風に飛ばされていった。
息子と並び骨壺を抱えて客に一礼すると息子が結びの挨拶をし始めた。美智子は横で語る息子に視線を移した。声を発するたびに動く息子の喉仏が和夫のそれと同じ形をしていることに気が付き、浮かび掛けた笑みを辛うじてこらえ前をむき直した。骨壺の入った箱を少し力を込めて掴むと正面の鏡貼りになっている壁に自分の姿が映っていた。
―生まれたばかりの新しい私だ。
美智子は心の中でそう呟きながら新たな自分自身の姿と向き合っていた。
全ての儀式が終了し、ロビーで美智子は綾子を含めた社の四名に礼を述べて息子と並んで去っていった。綾子もタクシーを拾い家路についた。
坂道を少し登った中腹に立つマンションに綾子は住んでいた。いつもならマンションの前までタクシーに乗るのに、夏の夕暮れに誘われてか綾子は坂の麓で車を降りた。腕時計に目をやると時刻は夕方の四時半を回っていた。普段ならまだまだ明るい時刻だが突然の雨に降られた天候のせいもあり、見上げるとなだらかな坂道のてっぺんに落ち始めた夕日が周辺を赤く燃え上がらせながら黄色く丸い姿を浮かべていた。その夕日に引っかかるようにして幾筋もの雲がゆっくりと流れていく。綾子は、まぶしい夕日を正面に、光を遮るように左手をかざしながら坂道をゆっくりと上り始めた。ふと、いつか美智子がキャンパスに描いていたものはこの夕日だったのでは無いかという想いが綾子の脳裏を駆け抜けた。急に綾子はその沈み掛けた太陽を掴めそうな気がした。かざした手を下ろし夕日を真正面に受けながら両手を振り早足で坂道を駆け上り始めた。綾子の心の中で、昔感じた懐かしくも熱い思いが膨らんできた。
―今、自分の中で暖めている住宅の企画案を形にして提案してみよう。
はっきりとした綾子自身の心の底から沸き上がった声だった。今まで漠然と考えていた案だったので、調べなければならない事は山ほどあった。しかし手順は綾子の頭の中にたたき込まれていた。その完成までの過程を考えている内に、彼女の瞳は何時か見た美智子がキャンパスに向かっていた時のような強く厳しい光を放ち始めていた。足の速度が自然に速まった。速度を早めるごとに熱い思いは強くなり、思いが膨らむに連れ、さらに登る速度は増していった。せっかく引いた汗がまた首の後ろから吹き出してくる。そんなことは構わなかった。ひたむきに、がむしゃらに坂道を上りながら、沈みゆく夕日に手を伸ばし、思わず綾子は小さく呟いていた。
「間に合いますように」
おわり
ある男の葬儀 @fuji-shiro
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