第6話 シンクロ

霊柩車とバスが火葬場に着き、人々がビルの中へバラバラと吸い込まれていく。ロビーへ入ると火葬場独特の臭いがツンと綾子の鼻孔を刺激した。

必要以上に荘厳な雰囲気を醸し出したロビーは、天井に蓮の花をイメージした巨大なシャンデリアが飾られ一見するとホテルのロビーにいるような錯覚にとらわれる。しかし、ホテルと明らかに違うのは、入った正面の壁一面に番号が付けられた棺の挿入口がズラリと並んでいることだった。

―あそこへ棺が入れられ火葬されるのだ。

当たり前の事だが、あらためて目の当たりにすると、いきなり胸を両手で突き飛ばされたようなショックを受けた綾子だった。

寺畑家の関係者はざっと見ただけでも九名しか居合わせていなかった。会社から綾子を含めて参列した人数を差し引けば和夫の身内は五名しかきていないと言うことは明らかだった。


皆が並び合唱し短い経が読まれた後、遺体に向けて最後の対面がなされる。棺の蓋が閉まり、事務的に先ほど見た壁面のナンバー5が開き、棺が差し込まれた。うなだれ肩を落とした美智子の姿を綾子は後方から見つめていた。

葬儀屋が「別室でお待ちください」と、皆を案内し更に大きな待合室に通され火葬が終わるのを待つこととなった。天井は高く、広々とした室内には他の葬儀の客もグループごとに別れて座りそれぞれが集まり集まり話をしていた。中には弁当を広げ食事を始める団体も見受けられた。


部屋の一番奥に天井までガラス張りになった壁面があり、そこには容赦のない夏の日差しに照りつけられくたびれたような緑の木々が風にあおられざわついた姿を映し出していた。連れ立って来た社の営業マン三人に軽く会釈をしてから綾子はその窓際まで歩いていった。外の景色を眺めていると、後ろから声が掛かり振り向くと美智子が頭を下げながら飲み物を差し出していた。

「お疲れでしょう。最後までありがとうございます。どうぞ」

美智子から差し出された紙コップに入ったお茶を綾子は受け取った。寺で会ったときは余裕がなかった綾子も落ち着いた今、間近に来た美智子をあらためて観察した。

綾子であれば絶対に選ばないようなワンピースの喪服を美智子は着ていた。長年家庭に入っていた女性が選ぶ無難でやさしいデザインのものだった。しかし美智子には家庭の主婦にしては珍しく、何か戦いを終えた後の戦士ような眼差があった。その瞳の中には毅然とした中に寂しさをたたえた光が宿っているように思えた。それは決まり事や大きなルールに身をゆだねたことがない人間が持つ特有の輝きの様に綾子には思えていた。女性同士でしかも四十を過ぎた女性を美しいと思う事は滅多にない。しかし綾子は彼女を美しいと素直に思っていた。


「お疲れ様です。寂しくなられますね」

綾子の言葉に美智子は口元だけで笑い、ゆっくりと体ごと外の景色を見る方へ向きなおった。美智子の外を眺めている視線は何処か遠くの一点を凝視しておりその動かない黒い瞳の中に感情の欠けらを綾子が読み取ることは出来なかった。美智子が外を見つめたまま口を開いた。

「一時間ちょっとかかるそうです」

それが和夫の体が焼け骨になるのに掛かる時間だと言うことを理解するのに綾子には数秒の時間が必要だった。美智子の声のトーンがまるで今夜のメインディッシュであるチキンが焼け上がるのに「一時間ちょっとかかるそうです」と言ったように平坦なものだったからだった。

「そうですか」

数秒後に、良く磨かれた瑪瑙石のようにつややかで白い美智子の頬を見つめながら綾子は答えていた。それからゆっくりと外へ視線を移した。さっきまで青空に浮かんでいた入道雲は早々に出番を終え、いつの間にか暗いどんよりとした灰色の雲が空一面を覆い尽くしていた。やがて雲は何かに追い立てられるように気ぜわしく走り去りまたやって来るという様相を呈し始めた。

「雨になりそうですね」

美智子が呟き綾子が頷いた途端に、目の前のガラスに一粒、二粒と水滴がつき始め、みるみるうちに大粒の雨が空から滝のように流れ始めた。目の前のガラスは防音素材らしく、外の激しい雨足とは対照的に、室内の空調にのって耳に届いてくるのは静かなBGMと人の話し声だけだった。激しい風雨に揺れる緑の木々の風景と耳に届く音がアンバランスすぎて、綾子は少しきつく瞼を閉じた。


 美智子は、外の風雨に揺さぶられる木々を見て、久しぶりの雨に歓喜し踊り狂う姿のように感じていた。同じような天候や音楽引いては臭いなどに思いがけず出会うと、ふと忘れていた同じ状況で起った事柄が思い出される。今の美智子はまさしくその状態だった。


何時だったか、まだ義父が立ち歩くことが可能で痴呆の症状が重くなり始めた頃こんな夏の夕立の中、裸足で外へ出て行こうとしたのを美智子が止めに入った事があった。庭に降りしきる土砂降りの雨の中、二人ともびしょ濡れになり裸足の足は泥だらけで、空には雷まで轟いていた。稲妻の閃光に照らし出された義父の表情―義父は眼を大きく見開き常道を逸した目つきで、美智子の両手をふりほどこうともがきながら言いはなった。

「離せ!お前など和夫の本当に好きになった女ではない!離さんか!」

その時はその義父の言葉を美智子は単なる憎まれ口と捕らえ、とうの昔に忘れ去っていた。しかし、今ふと思い出したその義父の言葉は、彼女の心をわしづかみにして揺さぶった。

―もしかすると夫は自分と結婚する前に心から愛した女性がいたのかもしれない。

 咄嗟に浮かんだその想像は彼女の脳裏にベッタリと張り付いた。しかし同時にそう考えれば病床の床で和夫が言ったあの一言も説明が付くと美智子は鋭い刃物でばっさりと胸を切り開かれた気がしていた。

「もう、許してるよな。お互いに。俺たちは夫婦だったんだから・・・」

美智子だけでなく和夫もまた愛した人と何らかの理由で結ばれることなく美智子と巡り会い家庭を持ったのだとしたら。美智子が母に反対されたように、和夫の若かりし頃の恋愛を反対したのが義父であったとしたら。そうであれば和夫と義父の態度も理解できるし、自分の母に対する和夫の素っ気ない態度すら当然だと思えてしまう。さらには、「同病相憐れむ」ように、妻をいたわり夫婦生活を続ける事の出来た和夫のあまりある優しさ、それすらも辻褄が合うと言うものだろう。

全く関係ないと思っていた事柄が繋がり一本の線になりその張りつめたピアノ線が美智子の眼前でキラキラとした輝きを放っていた。


「土砂降りですね」

綾子の言葉に、美智子は現実に引き戻された。見ると綾子はガラスに右手を当てて首をかしげ幼子のような眼差しで空の様子を伺っていた。

「ほんとうに・・・」

そう口にしながら、美智子は全く別の事を思っていた。


「諦めると言うことが悟りを開くと言うことです」

何時だったかテレビに出ているコメンテーターがそのようなことを口にしていた。美智子は夕飯の支度の手を止めてキッチンの中からその言葉を繰り返し呟き、ほんの少しの賛同できるような気がしていた。そうして長い年月を掛けて、田辺綾子と夫の浮気という事実から受ける痛手は美智子の心の中にびっしりとした苔を生やすように塗り固められてきたものだった。その苔生した感情は再びめくり返されることは無いように思えていたし、夫と綾子が別れた晩年はその苔を踏みしめないよう、注意深くよけて歩いていた節があった。しかし自分でも綾子でも無い、誰か別の女性を和夫が深く一生愛し続けていたのだとしたら。その思いは美智子が敷き詰めた一面の苔を掘り起こし、その下に沸々と流れ続けていたマグマのような熱い気持ちを一気に地表へ吹き出させるものだった。


外の雨は矢のように地面へ突き刺さり、早送りのように流れる雲間に雷鳴さえ轟き始めていた。美智子の脳裏に今焼けゆく夫・和夫の姿が浮かんでいた。姿形が無くなり純白の屍となる。それは実父の時も義父の時も経験して来たことだった。しかしそれが和夫だと思うと、その和夫を燃やす炎のように自分の中にも燃えたぎる想いが湛えられているという事を今この瞬間に切実に感じとっていた。その想いをぶつける相手、それが今白い骨に変わりつつある事実が美智子の胸を狂おしく締め付けた。

―泣き叫んで別れてくれと言えばよかったのだろうか?この目の前の女性に関わらないでくれと言えば夫はどうしたのだろうか?本音でぶつかり、もし夫から自分の気持ちを責められることがあったとしても、次に生まれる何かがあったのだろうか?和夫も心を開いて、『自分もかつて愛する人がいたのだ』と打ち明けてくれたのだろうか?

しかし、そのことを「言えなかった」「言わなかった」もう一人の自分の姿を、赤い嫉妬という炎が流れる川の対岸に佇み今現在の美智子が見つめていた。あの自分を美智子は選び、月日というカードを一枚一枚めくるように歩いてきたのだった。美智子は、選んで敷いてきた道のりの重さをずっしりと心の中で受け止めていた。

「諦めると言うことが悟りを開くと言うことです」

いつかのコメンテーターの声が美智子の脳裏に響き、いまやっとその言葉の意味を理解したような気がしていた。


傍らに立つ綾子の血管の浮き出た細く白い手首を見つめながら美智子は心の中で呟いた。

―私も和夫も背中合わせでずっと一緒に歩いてきたようなものだった。貴方は妻という私の存在を知っていた。知りながらも和夫との関係を続けていたと言うことは、よほど、和夫の事を愛してくれていたんでしょうね。だとすれば私は少しは救われる気がする。

叩きつけるような雨を振らせる元凶となる暗く重い雲が立ちこめた空を見上げながら、綾子は心の中で美智子へ問いかけていた。

―貴方は、私が和夫と五年付き合っていたことは知らない。でもマキという女性の存在を知っていますか?私は知らなくても夫婦であればきっとご存じでしょうね。貴方があの人を妻として心から愛してくれていたから、私は自分の無法さ加減も許していたような気がする。私、セックスの間ずっと貴方の視線を感じてそれすらも自分の性の営みに利用していたんです。

美智子は目の前の繊細なイメージとはかけ離れた奔放に乱れ狂う写真の綾子を脳裏にふと思い浮かべていた。

―私、貴方の行くときの表情を知ってるの。写真を見たから。貴方がいなければ和夫とあれほど交わらなかったと思う。貴方を組み敷いて貴方のあの恍惚とした表情を思い浮かべて私は初めて高みに登り詰めることが出来た。

カンバスに向かう美智子の写真が綾子の心に浮かんでは消えた。

―私は貴方へ後ろめたさと同時に愛おしさを感じていた。

美智子は思っていた。

―私、貴方を憎みながら必要としていた。


ガラス越しの雨足は徐々に弱まり、まだ灰色の雲がたれ込める天は所々が割れ、そこから幾筋もの光が地上へ差し込み始めていた。木々の緑は久しぶりに洗われ生き返ったようにそれぞれが天に向け呼吸し、諸手を挙げ日の光を呼び込んでいるようだった。

美智子は何かを思い出したように笑みを浮かべると、口を開いた。

「外は青臭い香りがしているんでしょうね。子供の頃は、夕立の後訳もなく嬉しくて飛び出して行ってよく母に叱られたものです」

そう言った美智子の視線の先にはまだ外を見つめ続けている綾子がいた。綾子は頷くと独り言のように付け加えた。

「どうして嵐や台風の時どきどきした嬉しさを感じるんでしょうね?私はそうなんですけど、そんなことありませんか?」

顔を向けた綾子へ美智子はクスリと笑ってから返答した。

「私もそうなんです。いてもたってもいられないような、ちょっと叫びだしたいような気持ちになるときがあります」

綾子も微笑み、二人は申し合わせたように外の乾き始めた地面へと視線を移した。風が吹き始めたようで、木々はこれまでのしずくを払い落とすかのように首をもたげながら大きく左右に揺れ始めていた。


「お母さん。ちょっと」

美智子の息子に背後から声をかけられ二人は振り向いた。息子は綾子へ軽く頭だけ下げると美智子を手招きして呼び寄せた。その手招きの仕草が生前の和夫にそっくりで綾子は思わず息をのんだ。美智子は一礼すると急いで息子の方へ走り去っていった。


性別さえ聞かなかった堕胎した自分の子供が、もしこの世に生まれ育っていけば先ほど見たあの子のような姿になったのではと心のどこかに隠し持っていた自分の気持ちに突然綾子は気が付いた。そう思うことで自分を慰めながら、和夫には全く似ていない息子の姿からその接点が見つけられず、逆にそう思っている自分を自分だけが許す何を考えてもいい部屋に閉じこめておけたのだった。それがふと生前の和夫そっくりの仕草を息子にかいま見て、綾子の中のその身勝手な想像が自分の部屋から飛び出して、綾子の眼前に示し出されたのだった。

―済んでしまった過去の事だ。

綾子は都合のいい自分自身を戒めるように心の中で呟いて、ガラス越しに赤く染まり始めた空を見上げた。


「田辺さん。ちょっといいすか?」

綾子は背後から声を掛けられ、振り向くと同行した社の若い営業マン三人が怪訝な表情を浮かべて立っていた。綾子は不思議に思いその三人に問いかけた。

「はい・・・何か?」

三人の中央に立っているその中では一番年長である、と言っても二十四歳の若者が口を開いた。

「この後、骨を拾うんすよね?俺ら会ったことも無い人なんで、そこまでするのもどうかなって思って。部長は『同行しろ』って言っただけだし・・・どうしたらいいんすか?」

死などまだ無縁の世界にいる二十代の若者が投げてきた直球の眼差しを受け止め、綾子は気圧されたが、同時に彼らの疑問ももっともな事だと納得した。寺畑さんは自分の元上司だから代表して自分だけが拾うから、あなた達は外で待っていて欲しいと告げると、三人の若者はまるで前線への突撃を免除された兵士のようにお互いに顔を見合わせて喜び合っていた。

「じゃあ、ヨロシクっす」

悪びれず安堵の笑みを浮かべながらそう言い残して三人は互いに何かを話しながらまた待合室の隅へと姿を消していった。

やがて室内にアナウンスが流れ、寺畑家関係者の集合を促していた。

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