第5話 クロス

ざわつき始めた会場の中、綾子の横に座っていた同僚の森野が声を掛けた。

「田辺さん。今のうちにお香典を親族の方へ渡しておいた方がいいんじゃないですか?僕、持って行きましょうか?」

綾子は我に返り自分で持って行くと森野へ返事をしてから立ち上がった。会場内の客は花を手向けようと棺を中心に会場の前方へ集まり始めていた。綾子は棺の横に立つ寺畑の妻を見留め、歩を早めて近付いた。


「寺畑さんの奥様でいらっしゃいますか?」

相手が自分のことを知るよしも無いのだと自分自身に言い聞かせ、逸る胸の鼓動を押さえながら、綾子は寺畑の妻・美智子に声を掛けた。呼び止められた美智子は振り返り、綾子の左右の瞳を交互に見つめながら問いかけた。

「ええ、はい。ああ、会社関係の御香典でしょうか?お世話になりました。失礼ですが?」

そう問いかけながら、初めて間近でみた綾子に美智子は儚げな色香のようなものを感じていた。喪服と言ってもどちらかというとキャリア系のデザインのものを身にまとっているのに、どこかしら危うい印象を受けるのは彼女自信が持つ雰囲気なのだと言うことを美智子は肌で感じ取った。興信所の報告によると本社時代はかなりの仕事をこなしてきた女性だと言うことだった。その書面から受けるイメージとはかけ離れ、まるで池に浮かぶ浮き草のように頼りなく、立ち位置を間違えた役者のように自信のない印象を目の前の女性からは感じる。美智子はふと、和夫も彼女のこんな所に惹かれたのかもしれないと想像した。


まっすぐに射抜かれた美智子の視線を受け、一瞬綾子は躊躇した。しかし、(この人は自分のことを知る由もないのだ)と、あらためて自分自身を諫め直してから名を名乗った。美智子は蕩々と礼を述べ、次に思いも掛けない事を綾子に頼み始めた。

「こんな事をお願いするのは非常に心苦しいのですが、何分寺畑は血縁の薄い男でして・・・これから焼き場へ向かいますが、同行してくれる者が大変少ないと思うのです。娘も父親が骨になる姿はショックが大きすぎて見たく無いと申しますし・・・あまりに人数が少ないのも、不憫に思いまして、もし、会社の方で焼き場へも同行してくださる方がいらっしゃいましたら是非お願いしたいと思うのですが・・・」

 咄嗟に出た自分自身の言葉に美智子自身が驚いていた。美智子は語りながら自分で自分の気持ちを測りかねていた。寸部の愛人への同情の念からなのか?いや、そうではない。と美智子は自覚した。この人が焼き場へ同行すれば、本当に和夫は愛されていたと自分が思える。欠片でもいい、どちらなのかという答えを私が欲しているのだと美智子は自分自身へ言い聞かせていた。

すがるような妻の瞳には刹那な気持ちが込められていた。綾子は社の人間を数名同行させることを上司に聞いてみると言い残し、あわててその場を後にした。そのまま和夫の棺へ花を手向ける列に加わり、側に来た森野と上司へ、今美智子から頼まれた件を告げた。上司は頷くと数名の若い営業部員の名を小声で呼び寄せ、焼き場まで同行するよう命じた。綾子も行ってくれるかと尋ねられ、綾子は思わず頷き「はい」と返事をしていた。やがて順が巡り、綾子は棺の前に立っていた。和夫の顔をちらりと見て棺の中へ花を手向けた。


人工的なものに囲まれて普段の生活を送っているせいだろうか。自然の摂理である「死体」というのものを目の当たりにすると、それがどれ程親しい間柄であった人のものだったとしても、相容れない違和感と欠片の恐怖心を胸に抱く。一方でそれ自体は世情や今の季節、風の流れや引いては今ここに立ちこめる線香の香りですら全く受け付けようとしない。遺体とはそうした頑なな孤高の気を凛として張りつめ、しかし実存としてそこに存在している。そう言った空気を綾子は感じ取っていた。

「もう何もしなくていい。この者の時は止ったのだ」

運命からの無言の宣告は、当たり前のように明日の朝日が拝めると思っていた良識を覆し、自分が立っていると確信していた場所が実はいつでも流される砂の高台であったと気づかされるせいなのかもしれないと綾子は思った。

しかし同時に別人の蝋人形だとも思った。正直この遺体が和夫のものだとは信じられなかった。それほど最後の和夫は見る影もなくやせ細り人相も変わり果てていた。そのためか悲しみは浮かばず涙もまったく出てこなかった。どこかに自分が知っている昔の和夫の面影を探そうとするのだが、胸の上で組まれた両手にすら見つけることは出来なかった。綾子を翻弄し、高みにまで登らせてくれたあの太く節くれ立った指は、皺の寄った皮が骨にこびりついたものと化していた。辛うじて、左手の親指の付け根にあるほくろが昔のままだった。かえってその事が綾子の違和感を強く逆撫でた。

遺体へ合唱し振り返ると遠くで美智子が葬儀屋と打ち合わせをしつつ、ハンカチで目頭を押さえていた。

―あの大きな和夫がここまで病魔に食い尽くされやせ細る姿を、時間を掛けて見取った妻は棺に横たわる今の和夫の姿も違和感なく見る事が出来るのだろう。

そう考えながら綾子は流れに押されて会場を後にした。歩きながら、今見た和夫ではなく綾子が覚えている当時の姿を思い返していた。


和夫は綾子のマンションへは数えるほどしか泊まったことがなかった。しかし情事の後、ウトウトとまどろむ姿を綾子は何度かかいま見ていた。何時だったか和夫は深く熟睡し聞き取れるほどの寝言を言ったことがある。

「マキ・・・まって・・・俺も」

その言葉に針で胸を突かれたような痛みを感じ、思わず寝返り和夫の横顔を見入っていた。妻でも自分でも無い女性の名前。それを和夫は眉間に皺を寄せ夢に思い口にしているのだ。

―マキ?ミキ?

定かでは無いが、見つめた和夫の表情は綾子が問いかければ答えそうなほど真剣そのものだった。ベッドに両手をつき上半身を支えて和夫の顔を見下ろした。その気配を感じたのか、和夫はゆっくりと目を覚まして綾子に問いかけた。

「何か言ってたかな・・・?」

彼女の瞳はうろうろと定まらず小刻みに震え驚愕と不安の色を同時に写し出していたが、意識が完全には戻っていない和夫にそれは解らない事だったろうと綾子は憶測する。

「別に・・・」

と綾子が小さく呟くと和夫はまるで目前のまぶしい光を遮るかのように太い腕を瞼の上に置き念仏のように呟いた。

「昔の、遠い昔の夢を見ていた・・・いつも見るんだ」

綾子は和夫から視線を外し無言のまま立ち上がりユニットバスへ姿を消した。

和夫が呼んだその女性が、どんな存在で彼にとってどういう位置を占めるのかは知るよしも無かったが、多分に妻ですら知り得ないであろうその女性の名を自分が知り得たという快感は、一滴落としたインクが水の中で広がるように、じわじわと綾子の中で広がった。しかし全体がその淡色で染まり切った頃、何時しか忘れ去っているそんな些細な出来事だった。


「葬儀場へ同行してくださるお客さまはー・・・」

葬儀屋の案内の声を背後に、焼き場へは行かない同僚の森野は綾子に同情して言った。

「とんでもないことになっちゃいましたね。まあ、休日出勤つきますから」

綾子はわざと苦笑いを浮かべながら森野へ一礼しバスに乗り込んだ。

バスが走り出し、後方へ飛び去る夏の見慣れた地元の風景を見つめながら、綾子はハンカチを取り出し額の汗を拭き取った。美智子と息子は前方を走る霊柩車の方へ棺と共に乗り込み火葬場へ向かっている。綾子はチラリと見た和夫の息子の顔に全く父親の面影が無かったことに、少し救われたような気持ちになっていた。

―あの子にはもう会えたのかしら・・・

ふと、そう思った綾子は、当時のことに思いをはせた。


和夫が支店からかなり辺鄙な地にある営業所へ左遷の辞令を受け取り、二日後には赴任する予定になっていた当時のことだった。あわただしく催された和夫の送別会には当の辞令を決定した幹部連中は欠席し、むしろ和夫を余りよく知らない部署の人間などが出席し執り行われた感が強かった。誰もが「おめでとう」とは言えないその席で、事情をよく理解していない新入社員だけがしきりに「がんばって来てください」と他意なく和夫に繰り返していたのを今でも綾子は心苦しく思い出す。そそくさと会が閉められ、和夫はその一時間後綾子の部屋へやって来た。


とりたてて何も言わなかったが、これでこの関係は「終わり」なのだと言うことは互いに理解していた。

最後のその夜、和夫はいつもと異なり性急に事を急いだ。綾子の反応などどうでもいいと言わんばかりに、まるで始めてセックスを経験する少年のように無理矢理自分を奮い立たせ、綾子を娼婦のように乱暴に扱い早くに果てていった。それが綾子へ足跡を残さないための和夫の優しさからなのか、本当にそうなってしまったのか彼女には聞く勇気も、聞く気力も残っていなかった。犯されるに近いその行為の間、彼女は逆らうこともせず和夫のやりたいようにさせていた。それは和夫の妻・美智子への贖罪の気持ちがあったように当時の自分自信を振り返ってみてそう思う。

その夜和夫はシャワーを使うこともせず、身支度を調えるとテーブルに封筒を置き、別れの言葉もなく出て行った。マンションのドアが閉まる金属音が妙に生々しく綾子の耳に響いていた。


和夫がいなくなった暗い部屋の中、丸テーブルの上に置かれた茶封筒が月明かりに照らされて浮かび上がっていた。綾子は少し痛む股間をそっとティッシュで押さえた後、ローブを羽織りながら、テーブルへ近づき封筒を手に取った。中からは通帳と印鑑が転がり落ちてきた。通帳の名義は「田辺綾子」になっていた。中を開くとつきあい始めたであろう日付から毎月二万円づつ給料日の次の日に振り込まれていた。綾子とは約五年間つきあった和夫だった。総額は百十六万になっていた。

綾子は和夫との関係の中で手当やプレゼントをもらうことを拒んでいた。それは和夫の身を案じての事からではなく、自分のプライドと、引いては何時別れてもいいそんな気軽さを残しておきたいと言った気持ちからだった。支店社員の給料をほぼ把握していた彼女には、この月二万円という金額が寺畑家にとってどれほどのものか容易に想像することができた。決して楽な生活では無かったであろう和夫の月々の小遣いから、これを捻出し毎月振り込んでいた彼の大きな後ろ姿を綾子は思い描いた。しばらくすると頬を伝う熱いしずくを感じた。和夫の優しさにほだされて出た涙では無かった。むしろ、そんな律儀な優しさには目もくれず只自分の快楽におぼれていた我が身を哀れむ涙だった。窓から差し込む月明かりに照らされた自分の細い指が見慣れた部屋の中でマネキン人形の手のように白く浮かび上がっていた。


それから、二週間後の事だった。生理が不順な方だった綾子は通常なら取り立てて気にも止めないいつもの遅れも無性に気にかかり妊娠検査役をドラッグストアで買い求め帰宅した。検査結果は陽生だった。祭りの日に浮かれながら明日の試験の心配をしている、そんな気分だった。「生めない」「生まない」事は頭では理解していたが、「子供が今自分のお腹にいる」という事実は綾子の心を切なくときめかせた。これまでのどんな恋愛感情よりも儚く愛しく感じられるものだった。綾子は二日間その事実を自分の中で暖め宿題を先延ばしにした。三日目、産婦人科へ訪れ正式に検査してもらった。結果は「妊娠」という事実に認定の印を押しただけだった。理性で考えれば解るであろう「正しい結果」として「中絶」という方法を綾子はとった。和夫の残してくれた通帳の金をこんな形で使おうとは思っても見なかった綾子だが、事実それは役に立ってくれた。凍てつく冬もあれば優しい風が頬を撫でる季節も巡ってくるように、その後の気持ちは時々刻々と綾子の中で変化していった。時間という中和剤に助けられ、やがて今現在では正しい方法であったと自分を慰める事が出来るまでには落ち着いている。顔を見ることもなかったその子は今天国にいるであろうと青い空を見上げながら綾子は目をそばめた。和夫が天に召されたのであれば、もうあの子に会えたのだろうかと思い、和夫も寂しがらないような気がしていた。


信号が赤になり綾子の乗っているバスが交差点で止った。フロントガラスの方へ視線を移すと、前方に見える道路は夏の日差しを受け焼け付き、立上るような陽炎が揺らめいていた。美智子達の乗った霊柩車は信号に引っかからなかったようでその揺らめきを割り裂くようにしてそのまま小さく姿を消していった。


霊柩車の中、美智子は和夫の写真を抱えて後部座席に座りボンヤリ窓の外を眺めていた。

「お母さん、写真横に置いたら?」

助手席に座っていた息子が気づかい声を掛けてくれる。美智子は片頬に薄く笑いを浮かべてから頷いて和夫の写真を傍らへ置くと再び窓の外へ視線を移した。


和夫が人事異動で田舎の営業所へ左遷させられたのは、娘が短大へ入学した年だったから、和夫が四十七歳、自分が四十一歳の時だったと美智子は思い返していた。子供達も手が離れたし、自分も付いて行くと言った彼女へ夫は単身赴任でいいと言い張った。新任の地は車で四時間程度の距離なので週末には帰ってくるし、この家を守り子供達の面倒も見ていて欲しいという理由からだった。

―あの人とはどうするの?

喉まででかかった言葉を飲み込み、美智子は夫の勧めに従った。


次の日、送別会と聞いていたが思いの外夫は早く帰ってきた。疲れたからと風呂を済ませ明日赴くことになっている営業所の所在置を地図で確認してから夫は床についた。

美智子が驚いたのはその後だった。床の中で夫は幼子のように体を丸め美智子の懐に入り込み、蚊の泣くような声で「抱いてくれ・・・」と呟いた。美智子はそっと腕を回して和夫を抱きしめた。その大きな体に美智子の両手は回し切れなかったが、丸く肉厚の背中を美智子の小さな手でさすってやると夫は大きくため息をつき体の力を抜いた。泣いているようには見えなかったが、結婚生活の中で只一度だけ見せた気弱な姿だった。

翌朝いつもの人のいい笑顔を浮かべ和夫は新たな営業所へ旅立っていった。それから丸二年は休みごとに和夫が任地と家を往復し、美智子にとっては平穏な日常が流れていった。田辺綾子とは縁が切れたようで、美智子が時たま尋ねる和夫の二DKの住まいにも綾子の気配がこぼれ落ちていることは無かった。


和夫の任地は営業所と言っても、部下が三名いるだけの申し訳程度のものだった。尋ねてみて始めてそれを知った美智子は顔にすら出さなかったが夫を不憫に思い、その夜はその三名を呼び寄せ和夫の狭い仮住まいで鍋をふるまった。地元で育ち地元でその営業所採用になっていた夫とたいして年の変わらない川本と名乗った男は、その席で美智子へ誇らしげに言った。

「毎回ここへ送られてくる営業所長さんは定年前の老人ばかりでしたが、今回はお若い寺畑所長さんで、私らは本当に安心しました。本社も少しはこの営業所を認めて、なんとかしようと思ってくれてるんだという事が解り、我々一同は頑張ろうと決意しています」

その川本の素直で実直な心持ちが逆に和夫を傷つけていることを美智子は感じていた。皆が帰り片付けを終わらせ、狭いバスユニットで別々に風呂を済ませて床についても、夫は彼女に手を触れようとはしなかった。布団からはみ出している夫の肉厚な背中は、川の上流に座している大きな岩のように堅固で頑として踏みいることを許さない何かを美智子に示しているようだった。美智子もあえて和夫に話しかけることなく一夜を明かし、家路についた。


それから、半年もたたないうちに和夫は会社の健康診断にひっかかり、胃ガンだと告知された。三ヶ月と医者からは告げられたが、和夫は半年持ちこたえた。半年の抗ガン剤の治療の間さすがに痛みに耐えかね、夫は物を投げたり苦汁に満ちた表情で美智子に悪態を付いたりしたが、そのことは彼女にとっては何らの苦労には思えなかった。末期にさしかかり、目が落ちくぼみ別人のようにやせ細った和夫が、ある日ふと漏らした一言が美智子の胸を駆け抜ける。

「もう、許してるよな。お互いに。俺たちは夫婦だったんだから・・・」

美智子はその和夫の言葉に首をかしげながら少し解らない振りをし、只頷いてやり過ごした。その時は、その言葉を「田辺綾子との浮気」の事だと心の底で理解していた。が今ふと思い返して見て気が付くことがあった。和夫は美智子が「田辺綾子」の存在を認識していたことを知らないはずだった。では、あの時の夫の言葉は何を意味していたのだろう。

美智子は霊柩車に揺られながら、横に置いた夫の写真を手に取り見つめた。写真の和夫はまだふっくらとした輪郭を保ち人のいい笑顔で彼女にほほえみかけていた。

―何を許すと言ったの?

美智子はあらためて心の中で問いかけたが、和夫から返事があろうはずもなく、美智子の心の声は車内のクーラーの風にあおられ後ろの棺の中へゆっくりと吸い込まれていった。

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