第4話 妻

「お暑い中誠にありがとうございました・・・」

挨拶が終わり、司会者の言葉が始まると美智子は再び席に着いた。次に息子の挨拶が準備されている。子供達は半年前から心の準備は出来ていたはずだ。病院へ毎日通い和夫の衰弱ぶりを日々感じ、父へ伝えたいことを最後と思い語り合って来たようだった。そのせいか息子の眼差しはしっかりして態度も地に足を付いている。美智子自身もそうだった。喪失感や寂しさは今も体を突き抜けて通り過ぎていく。しかし突然訪れた死では無い分、この半年で気構えも出来ていた。司会者に紹介され息子がマイクを受け取り立ち上がった。美智子は息子から横にうつむいて座る娘へと視線を移した。


「娘くらいの年頃の女と浮気してたのよ!」

いつだったか同窓会の席で声高に話し始めた女性がいた。名前も思い出せなかったその同級生はまるでそれが世間では当たり前の事のように恥ずかしげもなく数十年ぶりに合う同級生の前で語っていた。

―年が離れていた方が、まだ納得できたかもしれない。

後に解ったことだったが、夫の浮気相手である「田辺綾子」は美智子と三つしか年齢が離れていなかった。それは「若さだけを求めての浮気」を否定し、「何らかの精神的な繋がりを求めての浮気」を示されたようで、むしろ美智子を傷つけた。

夫の不貞を知ってから、最初の数日間は「裏切られた妻」の役を素直に演じる女優のように我が身を哀れみ、嘆き悲しんだ。妻としての自分自身を振り返り、平均点以上の役割をこなしてきていると採点できた分、どう考えても不誠実な夫の仕打ちには心が痛んだ。

―私が何をしたというの?

その思いが日々脳裏を駆けめぐり、突然涙が溢れてくる。ひた隠しにすると言う夫の態度から家庭生活はこのまま続けたいという身勝手な意志をくみ取る事が出来た。和夫が良き夫、良き父親の姿を家庭で見せてくれればくれるほど、美智子は和夫の卑劣さを感じ、胸を切り裂かれるような思いを味わった。当分の間は腑が煮えくりかえるような嫉妬心をぬぐい去ることが出来なかった。自然に頭の中には「離婚」の二文字が浮かんでいた。しかし、短大を卒業と同時に主婦の生活をしてきた美智子にとっては、当時高校生の娘と中学生の息子を抱えて働き生活するという事は容易に出来ることでは無いと思えた。新聞の求人情報やインターネットで検索してみても、三十八歳だった何の職歴もない美智子が働く道はかなり狭き門なのだと言うことを実感した。

離婚して一人で働く自分と現状のまま主婦として生活する自分を想像し、思い悩んでいる内に、だんだんと前者の自分に全くのリアリティを抱いていないことに気が付いた。夫と離れて暮らしていた単身赴任の十年間ですら美智子の中では「寺畑の妻」という意識は常に保たれていたものだった。その中には子供達を育て上げているーその自信も支えとなっていた。自分自身が築いてきた現在の居場所、それらを今回の件で反故にしてしまえるほど安易には考えられなかった。

やがて、少しずつだが美智子は自分を冷静に分析し始めた。そうでもしないと、雲間から顔を出してはまた消えていく太陽のように多様な変化を見せる自分自身をもてあまし始めていたからだった。

「寺畑の妻」―それは、もしかすると身分証の様なものなのかもしれない。と美智子は思う。その身分証に付随する、契約事項―「不貞をしない」、確かにその部分において夫から裏切られていたというショックはあった。しかし、仮にそれらの契約条項を外し、自分自身が和夫を単なる一人の「男」としてだけ見た場合、「自分以外の女性とセックスをしている」という事実はさほど我が身を苦しめるものだとは経過する時と共に思えなくなっていった。つまり、「妻」や「母」という役割の中で、美智子はこの「浮気」という事実に苦しめられたが、「女」としての美智子にとっては無かったこととして納め、結婚という現在の状態を保つことを優先させる事が出来る程度の問題だった。

―逆の立場であればどうなのだろう?

美智子は自分を納得させるためにも逆説的に考えてみたりもした。夫には内緒で、気心の知れた男性と関係を持つ。そのことは「不貞」と世間から忌み嫌われ、自分自身の中にも許さない道徳心がある。しかしそうであればあるほど手に届かないショーケースに入れられた魅惑的な輝きを放つ宝石のように一度は手に取り触れてみたいと感じるものではないだろうか。もちろん自分はその一線を踏み越えられないタイプの人間だと自覚している。しかし、その妖しく切なく輝く光から目を反らせることは出来ない気持ちは充分に理解できた。


浮気の証拠を見つけたからと言ってヒステリックに夫に食ってかかるのはドラマの中だけのことだと美智子は実感した。同時に、自信を持って夫に喧嘩を売れる妻はそれだけ夫を心から愛しているのだとも思え羨ましさすら覚えた。夫への愛情が無いわけではなかった。しかしそれは長い時間を掛け熟成されていったワインように、いつしか同胞意識の様なものへと変化していたように思えるのだった。夫婦という決められた役割を二十四年間努めてきたーその中には細かく刻めば惰性や嫌な部分を見て見ぬ振りをして過ごした時間も存在する。しかしその継続という重さが今は実感として感じられた。


―こんな事位で今の居場所と家庭を失えない。

そう心に決めた美智子は、今度は「妻」と「母」の立場から浮気相手の素性を心配しはじめた。もし、たちの悪い女で金銭を要求されることなどがあればとの危惧からだった。また一方で「女」の部分から、この見てくれの悪い和夫という中年男と付き合おうとした写真の女性に対する週刊誌的な興味も沸いていたし、嫉妬心も根底には常に流れていた。しかし厳密に言えばこの嫉妬心さえも、「和夫を他の女性に寝取られた」というよりも「自分自身をないがしろに、他の女性とセックスをしている」という、プライドを傷つけられた怒りに近いもののように、今の自分であればそう判断できると思うのだった。

美智子は興信所に女性の写真を渡し調査を依頼した。ほどなく結果は美智子に渡された。


田辺綾子、三十四歳。同じ会社で夫の部下。しかし本社採用で二十代には社内でもやり手でとおっていたらしい。戸籍と、略歴、現在の住所と両親の本籍地まで添えられたその調査報告書にはご丁寧に現在の和夫と綾子の密会現場の写真まで添えられていた。週に一回~二回は逢瀬を重ねているらしかった。美智子はその綾子という女性の写真を手に取った。会社から出てすぐなのだろうか。ビルをバックに風になびくミディアムロングの明るい色の髪を右手で押さえながら、少し不安そうな切れ長の瞳が切なく写しだされていた。全身を写した写真には、キャリア系デザインのベージュのスーツに身を包んだ彼女が映っていた。その立ち姿はまるで池の畔にひっそりと咲くアヤメの花のようだった。以前見たあの恍惚とした表情の写真とは異なり、清楚で品の良い雰囲気のする女性だった。同時に、どうしてこんな見栄えの良い女性が和夫のどこに魅力を感じ関係を持つ気になったのかが不思議に思えたのだった。


和夫は浮気相手と会ったと思われる日に限って夜、美智子を求めた。罪悪感からなのか、比較するためなのか解らなかったが、拒むこともせず妻は夫の求めに従った。あえて火の中へ飛び込むことで不要なものを焼き尽くし、あからさまな自分自身の姿をつかみ取りたい。その気持ちが美智子を駆り立てていた。そうしてその頃から夫婦のセックスは少しだけ様相を変えていった。

子供が出来るまでは、美智子にとって夫とのセックスは、「子作りの為」のものだった。子供が出来てからは、「妻の努め」としての要素が大きく働いていたように思える。それまで美智子は行為の間一度たりとも夫の上になることはしなかった。和夫も妻がいやがることは強要せずマニュアル通りの交わりを行っていたに過ぎなかった。それがこの一件が生じてからは、美智子の中で何かが変わっていった。

美智子は自ら進んで夫の上になった。大きな腹の上に馬乗りになり自分の腰を動かし和夫が果てるまで行為を続ける。美智子は和夫を見下ろしながらいつの間にかあの田辺綾子を踏み敷いているのを感じていた。写真に写し出されていたあの頬を上気させた彼女の表情を思い浮かべ、その綾子を行かせるがごとく美智子の腰は波のように行っては戻りを繰り返した。夫の反応よりも自分の行き具合―それがイメージする綾子のあの姿態に重なり美智子は初めて自分を高い極みに持って行くことが出来たのだった。それまでは閉じた瞼の裏側に線香花火がチラチラと光を放つ程度のものだった。それが線香花火の数が徐々に増え最後は光の洪水で脳裏が真っ白になる。事が終わると美智子は夫の腹の上にうつぶせに倒れ、肩で息をしながら晩年に知った自分の体の奥深さに驚きと同時に感嘆の気持ちを抱いていた。

日記帳の後半部分のページをめくるように振り返って美智子は思う。あの浮気の一件が無ければもしかすると私達夫婦のセックスはここまで続いていなかったかもしれないと。


表向きの結果として美智子は夫の浮気については何一つ語らず、表面上今までと変わりない夫婦生活を営んできた。しかし心の中に複雑に住みわけている様々な顔をした自分を感じるようになってから美智子は油絵を始めた。子供達の手も掛からなくなっていたし、昔の恋人がしていたその手法を傍で見ていた彼女には若い頃からの興味も植え付けられていた。道具を揃え基礎から教室に通い習った。それまで何の趣味も持っていなかった妻が始めたこの絵を描くということに、和夫も細い目を更に細めて喜んでくれた。夫のその様子を見て、自分の昔の恋人が画家志望であった事を知らないのだと思い、小さな仕返しをしたような気分になった。自由に描けるようになってからは、美智子は自分の内面を見つめながら絵筆を握った。

季節や周りの環境、自分の体調さえも加わり変化する自分自身のその時々の感情―一番大切に思えていたものが、次の瞬間にどうでもいいものに思えたりする。夫に対して抱いていた同胞意識ですら、時には真逆の裏切り者のような気分に襲われることもあれば、まだ、どこかで救世主のように夫を慕う小さな自分の姿を見つけ出したりした。これまで信じていた自分自身が日々壊れ、また新しい自分に再生される。その時々の変化を美智子は驚き、大切に自分の中から取りだしては眺め描き出した。絵は、自分の中で内面のバランスをとる方法になっていたように今では思えている。


息子の挨拶が終わり、司会者が関係者からの弔電を読み上げ始めた。程なく最後のお別れと言うことで、棺の蓋が開けられた。遺体の周りに花を手向ける作業へと移行し客が立ち上がり、各々の手に花を持って和夫の棺の周りに集まり始めた。美智子はそれぞれの客に挨拶を送りながら再び綾子の姿を探していた。

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