第3話 愛人

外での受付仕事だったため、綾子の背中には汗でブラウスがピタリと張り付いていた。受付で集めた香典の入った袋を抱えたまま後方の座席に腰掛け、首元の汗をハンカチで拭った。

「それでは、本日の喪主であります寺畑美智子様よりご参列の皆様方へ感謝の意を込めまして一言ご挨拶を・・・」

司会に呼ばれ美智子が一礼し挨拶を始めた。その姿を見つめながら綾子は心の中で呟いた。

―写真のイメージより、華やかな感じがする。

綾子が本物の美智子を見るのはこれが初めてだった。綾子は写真に写った彼女を初めて見たときのことを思い出していた。


 故郷へ帰ってきてからの綾子は仕事以外の面でも環境の違いに驚いた。三十代前半の女性と言えば東京ではまだまだヒヨッコ扱いだったし、何よりその年で独身というのは珍しくなくフリータイムに遊びに出かける友達にも事欠かなかった。しかし故郷では昔の友人は男女に関わらず皆結婚しており、逆に独身の彼女を哀れむ言葉さえ投げ掛かられる始末だった。

両親は一人娘が手元に戻ってきてくれたことを喜んでいるようだったが、元々親の考え方に反抗して故郷を出た綾子はそのことを素直に喜べなかった。

綾子は公務員の両親の元、この地方で生まれ育った。幼い頃から両親は「日の丸親方」的な発言を連呼し彼女を厳しく躾けて育てた。ほんの少しの贅沢も流行ものも遠ざけられていた記憶が脳裏にこびり突いている。幼稚園や小学校の低学年時、当時友人の間で流行っていた人形すら買ってもらうことが出来なかったし、フリルのついたような洋服は「華美に着飾る事」と両親に忌み嫌われ着せてもらうことが出来なかった。「人様に後ろ指をさされぬように」「慎ましやかに」「堅実に」そう教え諭す両親の背中の丸まった後ろ姿は何か目に見えぬ恐ろしい敵から逃げ惑っているようで、子供心に悲しく映った。

彼女は成長するに連れその両親の考え方に疑問を抱くようになり、将来はこの地方都市を出て東京の民間の会社で自分の実力を試したいと願うようになっていた。描いた夢を実現するべく東京の有名大学を卒業後、綾子は東京の本社採用で現在の会社へ勤務していた。

華やかだった東京での二十代は「ほうらね。私の考えが正しかったでしょう」という思いを胸に、地方都市で細々と地味に暮らす両親を哀れんでさえいた。仕事はやればやるほど自分への評価となって帰ってくるし、それは当然給料の面にも繁栄された。自分で稼いだ金で、幼い頃なら両親から「贅沢品」と罵られたであろうブランド品を買うことも出来た。そんな鰻登りの自分に酔いしれていた時期だったとも思う。その反動もあり初めての大きなマイナス評価に必要以上に傷つきもした。不景気になれば強いのは公務員で、帰ると両親は狭い団地を引き払い、暮らしやすそうな一軒家へ越していた。そのせいもあり一緒に暮らそうと言ってくれた両親の申し出を断った。

「私達の言うとおりにしていれば・・・」

そんな両親の心の底に流れる声が聞こえない一人の暮らしの方が気が楽だった。

和夫とつきあい始めた頃、綾子にとっては本社からの左遷が一番大きな傷手だった。しかし、環境の変化から生じる孤独感、これも一層の自己憐憫に繋がっていたのは言うまでもなかった。


 支店内での和夫は変わらずダメ上司ぶりを発揮していたがつきあい始めてからは綾子に仕事上の愚痴をこぼすことをピタリと止めた。仕事が終わり綾子のマンションでセックスを終え和夫がシャワーを浴びている間、彼女はよく和夫の持ち物をチェックした。それは只、和夫の妻の顔が知りたいと言った単純な好奇心からだった。綾子は和夫に離婚して欲しいとかそんな願いを欠けらたりとも抱いたことはなかった。むしろ和夫からそのような申し出をされる事を心配していた位だった。仕事に失恋し、故郷で浦島太郎の様な気分を味わっている今現在の自分を慰め癒してくれる和夫とのセックス。只それだけを、今現在の自分が必要としている、そう理解していた。だからこそ単純な好奇心とひとかけらの罪悪感から、和夫の妻の顔が知りたかった。知ったからと言ってどうなるものでもないという事は重々承知の上だった。


ある日、綾子は和夫の鞄の中から現像した写真の束とネガを発見した。和夫がシャワーを浴びる音をBGMに心臓の音を高鳴らせながらその写真を広げた。子供の体育祭時のものらしいそれらの最後の一枚に、待ち望んだ妻らしき人物が写っていた。多分フイルムが余ったか、試し撮りのどちらかだろう。その女性は真剣な強い眼差しでカンバスに向かっていた。はっきりとは写っていなかったが手に持っているのは絵筆ではなかろうか。二重の大きな瞳と小さい鼻、あまり大きくない唇をしっかりと閉じてカンバスに向かう真摯な瞳が印象的だった。栗色のショートカットにより白く長い首筋が目立ち、綾子は一瞬白い胡蝶蘭の花を連想した。すぐにその写真をベッド横のサイドボードの引き出しに仕舞い込み、その他の子供の写真は再び袋に入れそのまま何事もなかったかのように和夫のバックへ戻した。

会社の同僚から和夫の妻は自分より三つ年上だという事は聞いていた。その時は和夫のような男に仕える妻を弱々しい世間知らずな女だろうと想像していた。しかし想像していたよりも遙かに芯の強い眼差しに綾子は意表をつかれ、毒気に当てられたようにときめいていた。


それ以来綾子はその写真を手帳の奥深くに仕舞い込み、自分一人の時間に取り出し眺め、色々と想像し心の中で話しかけるようになった。和夫が帰った自分の部屋。一人になる一抹の寂しさよりも自由に振る舞える嬉しさで心が満たされる。シャワーを終えアロマキャンドルに火を点し、その写真を取り出すとじっくりと眺めてから語りかける。

―油絵?これは、彼女の趣味だろう。では彼女の仕事は?彼女の仕事は結婚なのだろうか。自分が仕事に失敗した女なら、彼女も家庭に失敗した女と言えるだろう。夫は別の女性とセックスをしているのだから。この眼差しは、何も知らないからこんなに強く一途に燃えられるのだろうか?何をそのキャンバスに写し取っているのだろう?

そう考えながらこの写真を見て以来、自分の中で変わってしまった和夫とのセックスを思い浮かべる。和夫は何も変わらない。いつも通り綾子の体を丁寧に探り、新たな官能の場所を探し求めてくれる。懇切丁寧に時間をかけ、ゆっくりとじらしながら綾子は自分の喜びの中へ追いつめられていく。そしてその渦の向こうに、和夫の妻・美智子が絵筆を握りその綾子の姿態を真剣な眼差しで写し取っている。美智子の眼差しはあの写真の時より更に強い輝きを増し、自分のほんの些細な反応まで逃すまいと見つめている。同じ女性という事もあり、誤魔化しが効かない彼女の視線に綾子は激しく追いつめられる。

そのせいもありこの写真を手に入れてからの方がよりセックスの高みに登りつめることが出来たし、和夫の愛撫に翻弄される自分を楽しむ余裕が生まれた。思うがままに乱れ、ありとあらゆる行為を楽しむ綾子に驚き、その頃から和夫は綾子の持っていたデジタルカメラにその媚態を写し取ることを試みるようになった。カメラのファインダー越しに綾子は和夫を通り越し美智子が自分を見つめる執拗な視線を感じとっていた。


前列のすすり泣く声に、綾子は我に返った。前方では和夫の妻・美智子が挨拶の結びに入っているようだった。香典の入った袋を、汗ばんだ手でもう一度掴み直して綾子は美智子の表情を追った。


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