第2話 美智子

「お母さん、おばちゃんがお見えになったよ」

大学生になる息子の言葉に、美智子は我に返った。

「まあー。みっちゃん!大変だったねえ・・・」

やや大げさに繰り広げられる遠い親戚の悔やみの言葉に返答しながら、その親戚達を席に案内する。親戚と言っても寺畑は血縁の薄い男だった。母親は早くに亡くしていたし父親も自分が看病の末見取った。今日訪れてくれる親戚は美智子の旧姓である「山口」の方の関係者ばかりだろう。逆にそれは彼女にとって気遣いの入らない間柄だった。

その他は会社関係で、そちらは外にいる社の人たちが仕切ってくれることになっていた。夫が亡くなってから昨日までの二日間、能面のような表情を張付けて、訪れてくれる関係者を事務的に捌き続けていると美智子はだんだんと自分の心がペラペラの紙切れになっていくような気がしていた。しかし今朝の打ち合わせの時、葬儀を手伝ってくれる社のメンバー表の中から「田辺綾子」という四文字が真っ先に視界に飛び込んで来た。その瞬間、忘れもしないその名前に息を詰まらせ、鼓動は音が聞こえるほど高鳴っていた。

ひとしきり親戚縁者を席に座らせると、美智子は外の様子を伺うため会場を離れた。


青い空にCGではめ込まれたような入道雲がぽっかりと浮かんでいる。たっっぷりと落とされる夏の日差しに目を細めながら美智子は寺の廊下に立ち、はやる胸を押さえながら石畳の彼方にポツリと浮かぶ受付へと視線を送った。受付の白いテントの下に長テーブルが置かれ、そのテーブルが白と黒の縦縞の布で覆われている。自分の立っているところからでは遠すぎて受付に立つ人の顔までは見て取れない。右手でパワーのある日差しを遮りながら少し踵を上げてその場所を見やっていた。

「来ているはずよね・・・」

心で呟いたはずがいつの間にか声を発していた自分に気が付き失笑した。気を取りなすように一つ咳払いをして視線を足下に落とすと、その視線の先にはからからに乾ききった石畳の上を必死で列を成し数珠のように連なって歩く黒い蟻の列が蠢いていた。

―連鎖がまるで私たちのよう・・・

今受付にいるであろう田辺綾子と棺に横たわる夫そして自分のこれまでの費やしてきた時間と出来事をそう思った。きびすを返し会場へ戻ると、再び気持ちを切り替えて、次から次へと訪れる葬儀の客を決まり文句で席に案内しながら美智子は夫とのこれまでの生活を思い返していた。


地方の旧家に生まれ育った美智子は苦労という苦労を知らずに短大まで通った。大学時代に知り合った美大へ通う画家志望の男と当時恋愛をし、その人が卒業と同時にヨーロッパへ一緒に行って欲しいと言う申し出を受け、心ときめかせながら、素直に両親へ申し出た。そのことが両親の逆鱗に触れ、半強制的に恋人と別れることとなった。娘の無謀な恋愛に恐怖した両親は彼女の卒業を待たずに見合いを推し進めた。何度目かの見合いの末、美智子は七つ年上の寺畑と知り合い結婚した。二人の子宝にも恵まれ端から見れば何不自由ない幸せな夫婦生活を送ってきたと言えるだろう。彼女の両親は一人娘を身近に置いておきたがり自分達の家の近くに土地を購入し、和夫の会社で家を建てローンも半分肩代わりするという甘やかせぶりだった。和夫はそのことについても取り立てていやな顔をすることもなく従ってくれたし、美智子の父が亡くなるまでは良き飲み仲間として晩酌にも付き合ってくれていた。ただ一つ不思議な事と言えば、美智子の母が和夫を気に入って見合いの話を推し進めたにもかかわらず、和夫はどうしても美智子の母とはあまり仲良くならなかった。あの人当たりのいい和夫が、彼女の母にだけは口数が少なく愛想の一つも言うことが無かったのである。娘の恋愛を鬼の形相で反対したのは主に母であった。もしかすると和夫はそのことを、何らかの形で知り自分へ同情の念を抱いてくれていたのかもしれないと美智子は憶測する。


下の子が生まれてすぐ和夫は東京本社へ転勤となった。優秀な営業成績を認められての本社への栄転だった。支店から本社への移動は珍しいということもあり、本人も鼻高々で意気揚々としていた姿を今も美智子は華やいだ想い出の一つとして心にしまっている。美智子も子供を連れすぐに東京へ行く予定になっていたがその頃から和夫の実父の様態が悪くなり彼女は介護生活を強いられることとなった。まだ五歳の娘と二歳の息子を連れながら目に見えて悪化し痴呆の症状を表わす義父を彼女はかいがいしく面倒を見た。和夫も自分の父親の世話をしてくれる妻に感謝の念を抱いているようで、たまにしか会えない夫婦生活も円満に流れていった。

―あの頃が互いに一番思い合っていた頃かもしれない。

当時を顧みて美智子はそう思う。

やがて、義父が亡くなり十年の本社勤務の後、夫は錦を飾り地元へ戻ってきた。子供達も高校と中学へ入学した年で、美智子はやっとほっと出来ると胸をなで下ろしていたところだった。しかし事態は思わぬ方向へ進んでいった。


 真面目で律儀な夫だと思っていた。単身赴任の間遊びの一つや二つもあったのかもしれなかった。しかし当時は介護と子育てに追われ、美智子の方がそれどころでは無かった。あったとしても、そんなことに気を揉むような時間は彼女には許されていなかった。しかし夫が地元に戻り、美智子も子供達から手が離れ始めやっと夫婦の時間が持て始めるかと思った矢先に女の影が見えてきた。解ったのはひょんな事からだった。

当時では既に家庭に姿を見せ始めていたパソコンだったが、夫が十年単身赴任をしている間に彼女はかなりそれに使い慣れていた。介護の間あまり外出できないという理由もあり、ネットやメールを使い済ませられることは極力短縮化するようにしていたし、子供達の簡単な写真もSDカードなどから取り混みカラープリントすることなど朝飯前にやってのけていたのだった。しかし帰ってきたばかりの夫はそのことを知らず、パソコンは子供達が使用しているものと思っていたらしい。背広の内ポケットに安易にしまわれていたSDメモリカード。それを見つけた時、胸騒ぎがした。クリーニングに出すはずの背広を放り投げ、SDカードを握りしめパソコンへ向かった。カードを差し込み、画面上のマイコンピューターのアイコンをクリックし、そのデータが写真用のものだと解る。震える手でマウスを動かしその中身を確かめる。画面には信じられない場面が広がった。

全裸の男女が絡み合う写真。男は紛れもなく和夫本人であった。夫の陰部に顔を埋めている女の後頭部が写った写真。女の上気した横顔。ベッドの上で、横になり恥ずかしそうに横を向く裸の女のバストアップの写真。最悪だったのは、女の陰部に夫のものが差し込まれているその部分をアップで写し取ったものだった。美智子は、震える指でマウスをクリックし次から次へと展開されるそのアダルトビデオ顔負けのおどろおどろしい場面に息を止めて見入っていた。全身の毛穴という毛穴が総毛立ち、頭蓋骨の内側で脳細胞が一つ一つ崩れ落ちていくようだった。一通り見終わるとマウスから手を放し右手を自分の口元に当てたが、その手の震えを唇が感じ取った。一つ息を吐くと何も考えられない頭でもう一度最初からその写真を見始めた。何度見てもその七枚の写真は同じように目の前に現れ、現実を彼女に突きつけた。

―夫が自分以外の女性とセックスを楽しんでいる。そう、楽しんでいるのだ。

そう頭の中で言葉にするまでにどれくらいの時間を要したことだろう。美智子はその時初めて般若の面が意味する表情を理解した。自分自身がまさに今、その表情をしていることを自覚したからだった。

まず最初に驚き、眉が上がり目が見開く。そのままで悲しむ。上がった眉の中心だけが下がり口がへの字になる。同時に沸き上がってくる嫉妬心。その瞳の中心にともる炎と食いしばる歯、裂け上がる口の両端。これらの流れが瞬時にして同時に現わされた表情。それが般若の面、そして今の自分の顔。

気が付くとそのSDカードの内容をCD-ROMへとコピーしていた。そのままSDカードは、夫の背広の内ポケットへ仕舞い込みクリーニングへ出すことをやめた。和夫はその日も出張で家を空ける予定だった。足下が宙に浮いたような状態のまま子供達の手前夕飯を作り、いつも通りの夕餉を過ごした。皆が寝静まった夜中、美智子は暗い部屋の中パソコンに向かいコピーしたROMを開いた。モニター画面の青白い明りに照らされた般若の形相で一晩中その場面を繰り返し見続けた。


「南無阿弥陀仏・・・南無阿弥陀仏・・・」

浄土真宗の流儀に則り教が読まれ木魚の音が会場に鳴り響く。葬式は既に始まり、皆神妙な面持ちで頭を垂れている。すすり泣く声も所々に聞こえてくる。線香の香りが立ちこめる中、白い菊や百合の花に囲まれて微笑む生前の和夫の写真が正面の壁中心高くに飾られていた。参列者は祭壇に対して向かい合うように座るが、美智子達親族は祭壇を右手参列者達が左手に見える位置に座っていた。焼香の為、卓が会場内を一巡して回っている。美智子は参列者席の後方へチラリと視線を送った。

―まだ受付にいるのかしら?

そう思いながら席を一巡見渡したが、その中に綾子らしき姿は見受けられなかった。

「南無阿弥陀仏・・・南無阿弥陀仏・・・一同、礼拝・・・」

皆が一斉に頭を深く下げる。美智子も頭を下げ和夫の顔を思い浮かべた。


 優しい夫だった。声を荒げて怒られたことなど一度たりともなかった。ただそれは逆に言えば本音でぶつかり合ったことのない夫婦と言えるのかもしれなかった。美智子は夫に対して罪悪感のようなものを常に自分の心の中に常に隠し持っていった。若い頃の激しく幼い恋愛に破れ、呆けのようになっていた自分と見合いで出会い、七つという年の差もあったが何処となしに美智子の寂しさ悲しさを受け止め癒し心を溶かしてくれたのは他ならない和夫の人柄だった。本当の事情は知らなくとも、若い娘が短大卒業と同時に見合い結婚するという背後に隠された事情も、三十を前にした当時の彼には察知できたことだったのだろう。ヒーリングの音楽でいつの間にか気持ちと同時に体ごとリラックスしているような出会いの印象と数回のデートの延長で始まった新婚生活は無難で安泰だった。夫が出社した後洗濯機を回しながら、美智子は遠くヨーロッパで生活をしていたかもしれないもう一人の自分を思い描きため息をついた。それは叶わなかった乙女の夢を懐かしむセンチメンタルな気持ちであることも充分解っていたことだが、子供が出来子育てに追われ初めても、時間が許す限り自分への慰めとして常に暖めていた感情だった。あの時のような熱望する気持ちで夫を愛してはいない。それが和夫に対して常に抱いていた罪悪感だった。しかしその引け目の分、家事や子育て引いてはあの地獄のような義父の介護生活にも耐えることが出来たのでは無いかと、美智子は自分自身を振り返って憶測する。義父の介護―それは、唯一美智子の甘い想像を許してくれない厳しい期間だった。


義父は痴呆になったが最初の頃は元気だった。それが逆に美智子を苦しめた。自由に動き回れる分大声で近所を暴れ回ったり、所構わず排尿排便をしたり、ひどいときにはその自分の便を壁や床に塗りたくった。その後始末に追われフローリングの溝に詰まった便を爪楊枝でこすり取りながら、美智子は涙も枯れ果てていた。赤ん坊とは異なり大人のしかも体のどこかに支障をきたしている人間の排泄物の臭いは、こうも人を萎えさせるものかと言う事を実感として覚えた美智子だった。こういった時は、実家の母親が子供達を預かってくれるので助かるが、この現実を単身赴任の夫に話すべきかどうかも憚られた。


和夫とその父親の関係は彼女には深く理解できなかった。男親と息子は総じてそのような関係なのだろうか。夫は父親と会っても「ああ」とか「うん」とかしか返事をすることが無かったし、二人はまるで昔の生活は封印してしまったかのように彼女に語ることがなかった。その語りたくない過去を美智子も取り立てて聞き出すこともしなかった。その分、夫が父親にどういった感情を抱いているのか解らず、このような状況を正直に話して夫がどう受け止めるのかと言った配慮が出来なかったのである。皮肉なことに和夫が帰省した時に限って義父は容態がよくなり痴呆の症状が軽くなる。二、三日だけその様子を見て夫は安心して東京へ帰っていく。和夫が居なくなると義父はその反動からか前にも増して病状が悪化した。そう言った三年間が過ぎ義父はやがて体の方も弱り寝たきりになった。正直寝たきりになってくれてからの方が美智子にとっては楽な介護生活となった。最後の半年は病院へ入り七十を前にして義父は苦しまずに息を引き取った。


―あの最後の義父の顔と、今の和夫の顔がそっくりだわ・・・

美智子は、似ても似つかないと思っていた和夫が、この半年の抗ガン剤治療を施される間やせ細り義父そっくりの顔つきになってくる姿を哀れみをもって見つめていた。

気が付くと葬儀はあらかたを終え、喪主の挨拶に移っていた。美智子の名が呼ばれ、マイクを渡される。娘と息子に促され立ち上がり、参列者席へ一礼してから美智子は語り始めた。

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