ある男の葬儀

@fuji-shiro

第1話 綾子

「晴れて良かった」

そう呟いた綾子の視線の先にはマンション八階の窓から見える四角く切り取られた八月の青空があった。綾子はベッドから立ち上がるとドレッサーに自分の姿を映し、今日着ていく喪服をパンツにするかスカートにするか悩み始めた。社葬では無いが今日の葬儀は社の一員として手伝いに行くことになっている。通常の机に向かう勤務とは異なり、多少の肉体労働もあると考えてパンツの方が行動しやすいように思えた。自分のことはどちらかというと細身の方だと自覚しているが、四十一歳という年齢を考えるといくらガードルで補正したところで、ヒップラインの下がり具合はパンツの方が目立つと言うことに気が付き、諦めた面持ちでスカートの方を手に取った。

 支度を済ませてから、十畳ほどのリビンクに置かれた丸テーブルについた。テレビでは、アナウンサーがしきりにアテネオリンピックについて報道しているが綾子にはその内容が耳に入ってこなかった。入れ立てのエスプレッソコーヒーをカップに注ぎながら今日の葬儀での自分の見てくれをこうまで気にしている訳に気が付き自嘲した。

―亡くなった今更、奥さんを意識することもないのに・・・

 濃いエスプレッソの香りが鼻孔に届き、一口すすると渋い味が口の中に広がった。エスプレッソを朝から飲む習慣も和夫と付き合い始めてからのものだった。和夫の葬儀の日までそのことに気づくことなく続けていた自分のいい加減さにあきれた綾子は、ほとんど飲んでいないコーヒーをキッチンの洗い場へ流すと、急いでマンションを後にした。


―八月の葬儀か。暑いだろうな。

バスに揺られながら忘れかけていた和夫の顔を思い浮かべていた。別れてすぐはもちろんのこと、その後も自分を労るため和夫との事は努めて思い出さないよう努力していた。もし自分のこれまでの人生をドキュメンタリーにしたテープがあり、それが一年ごと第一巻から四十一巻まで心の中にそろっていたとしても、和夫と付き合っていた三十四~三十八巻の五年分は決してリプレイするために手に取ることはしなかった。不倫をしていた五年間―それは誇らしく人に語ることの出来る想い出ではなかったからと言うのが大きな理由だった。

―葬儀の日ぐらいはゆっくりと考えてもいいだろう。

そう自分を納得させ車窓越しに後方へ流れ行く夏の眩しい風景に目をこらした。


綾子は全国区のハウジングメーカーに勤務している。同じ会社で当時上司だった寺畑和夫は約十歳年上だったから、五十過ぎで他界したことになる。早い死と言えるだろう。決して見てくれのいい男ではなかった。むしろ愚鈍な風貌と太い無骨な指が印象に残っている。体も大きく当時社内では部下達から密かに「ジャイアン」とあだ名を付けられていたほどだった。

和夫はその風貌とは対照的にしゃべらせるとまさしく立て板に水と言った感じで次々と営業トークが飛び出し、その意外性が客にも受け営業時代は常にトップ成績を誇る優秀な営業マンだった。しかし知り合った当時は既に支店企画部の管理職となっており、その輝かしい勇姿を彼女が、かいま見ることは一度もなかった。むしろ新しい販売企画が練り出せず、文字通り四苦八苦という姿が印象に残っている。企画部は営業と設計と幹部を一つにとりまとめ会社全体を販売へと導く中心的部署であるにもかかわらず、和夫は社内のご機嫌取りに終始し、まったくと言っていいほど新規展開を提案できなかった。それまでの営業成績を重んじて和夫をそのポストへ抜擢した幹部も、裏切られたという様相を隠そうともせず和夫に嫌みを言っている場面を、当時、綾子は幾度も目にしたことがある。「出来ない上司」ー綾子に取ってみれば、それが和夫の印象だった。


和夫とは異なり綾子は本社採用でこの会社へ勤務していた。

彼女の二十代は東京本社の企画部で順風満帆と言える生活を送れた時期と言えた。制服を着て事務作業をする同じ年頃の女子社員とは一線を画し、私服のスーツで一般男性社員と会議の席に同席できることは彼女の自尊心を満足させた。男性優位な業界だと言うことが解ってきても、逆にそれは「女性なのに頑張るね」という高下駄を履かせてくれる評価に繋がることだと自分を納得させた。三十二歳の時だった。当時の企画課長と合議の上、提案した「エコ住宅」の企画案が採用され、全社的に大きなキャンペーンを張ることとなった。しかし結果は惨敗だった。時流は商品価値よりも価格の値下げ競争の時代へ突入していたというのが失敗の要因だった。悪い商品ではなかったが、「時流の読違え」と言う地雷を踏んだ責任を「綾子の地方左遷」と言う見せしめを差し出すことにより社内的に丸く収まった。


ひっそりと行われた送別会の席で課長が人目を憚り、ささやくように言った言葉を今でもはっきりと覚えている。

「田辺君、悪いと思ってるよ。しかし僕は男だから、食わせなければならない家庭もある・・・」

既に中堅社員であった彼女には会社がどのようにして動いているかと言うことも充分に理解できていたことだった。加えて不動産という業界の中で女性がどれほど軽んじられているかと言うことも肌身に染みて感じていた頃だった。だからこそ女性で無ければ出来ない視点からの企画案を常に提案してきたつもりだったし、ろくに恋人も作らず仕事に励んできた十年間という月日が、逆に重くのしかかってきた。


支店に配属されて以来、自分でもまともな精神状態では無いと思いつつ涙が出そうになるとトイレへ駆け込んだ。

「悪いと思っているよ・・・」

本社で言われた課長の最後の言葉。それが壊れたデッキで繰り返し演奏される音楽のように頭の中で木霊する。そのたびに、「何処を」「何を」悪いと思っているのか問いただしたくなる衝動に駆られた。「出過ぎる杭は打たれる」ことを学んだ綾子は、左遷先の上司である寺畑和夫の指示がどれ程的はずれであろうと、従うことを心がけてイエスウーマンになりきった。本社から地方支店というかなり縮小した仕事内容は大層退屈なものだったし、意見を言う場がないと言うその立場は彼女にとってかなり精神的に辛いものだった。

企画部には綾子と和夫の他、若い男の社員も二人在籍していたが、これらは言われた事を素直にこなすロボットの様な若者達だった。和夫は企画書作りの為のハウツウ本を買って読みあさっているようだったが、そんなものにいいアイデアが載っていようはずもなく、会議が近づくと決まって彼女に愚痴をこぼした。この惨めな中年上司に鳥肌が立つような嫌悪感を抱くことはあっても、尊敬や信頼といった感情を欠けらたりとも感じたこと無い綾子だった。

あふれ出た水がやがてゆっくりと引いていくように綾子が左遷のショックから落ち着き始めた三ヶ月後、企画部で飲みに行こうという誘いを和夫が切り出し部内四人で居酒屋へ出かけた。


居酒屋でも二人の若者はマシーンのように飲み、たいして話すことも上司への気遣いも無く無表情のまま過ごし、店の前でそそくさと逃げるように去っていった。居酒屋の古びた暖簾の前でさすがに綾子は和夫に同情し、

「もう一軒つきあうか・・・」

という彼の独り言のような呟きに素直に頷いていた。


和夫が連れて行ってくれたその店は、意外にもしゃれた造りの落ち着いたカウンターバーだった。適度なボリュームで流れるクラッシック系のBGMは心地よく彼女の心に響いた。焦げ茶色をしたマホガニー製のカウンターの中にいる老齢なマスターは白髪を丁寧に整え、きちんと刈り込まれた白い顎髭が印象的だった。マスターは和夫を一目見て穏和な眼差しでさらりと笑みを浮かべるとよく冷えたグラスを音も無く彼の前に差し出し、何も注文しないのにシェイカーを振り始めた。和夫はちょっと照れた笑いを浮かべて綾子に言った。

「よく一人で来るんだ。カクテルがおいしくてね・・・」

それは似合わないと言われることが解っている、見てくれの悪い男の自嘲の笑みだった。綾子はそんな和夫に哀れみを感じ小さく首を横に振った。


それからは週に何度か示し合わせてその店に行くようになった。元トップセールスマンだけあって一対一の人間関係になると和夫は人を惚れさせるのが上手かった。何でも無い話からさりげなく綾子の気持ちを聞き出し、それとなく自分の主張も付け加える。しかしそれらは決して押しつけがましくなく、その時々の綾子の気分や感情によって、巧みに流れが変化するといったものだった。大きな岩石のような風貌から繰り出されるこの細やかな神経に人は驚きを覚え、次第に彼の話術にはまっていくのだという事を綾子はその数ヶ月間で実感した。こうして話をする内に和夫の人柄の良さにほだされ綾子は彼と関係を持った。


最初の頃こそラブホテルを使いセックスをしたが、一月も経たないうちに綾子の一人暮らしをしている2DKのマンションが二人の密会の場所となった。和夫はその話術と同様、決して自ら行き急ぐ事無く、丹念にじっくりと綾子の体の反応を見極め、その喜びの箇所をじらしながら追いつめていくという手法を取った。それは自分本意な若い男とのセックスしか知らなかった彼女に取っては初めての経験だった。体を重ねるごとに深い官能を得る自分自身の体にも正直驚いたし、性の奥深さを教えてくれたのは和夫だと言っても過言ではなかった。

綾子はそれまでにも何人かの男性と付き合った経験はあったし、その中には結婚を申し込んでくれた人もいた。しかし最終的に「結婚」へ踏み切れなかったのは、相手に対して信頼し委ねるという気持ちに綾子自身がなれなかったというのが原因だと思っていた。その程度の相手に合わせ、自分の時間を削ってまで仕事と家庭を両立させる自信も持ち合わせていなかった。

綾子は和夫を懐の深い寛容な男だと思っていた。そういう面を気に入っていた。しかし和夫に対しても自分が全ての心を許してはいなかった。むしろ企画という仕事の面だけで言えば明らかに自分より能力の劣る和夫を軽視する気持ちも抱いていた。また二人の関係が公に出来ないものという理由よりも、和夫のさえない風貌から二人きりで出歩くことも避けていた綾子だった。そんな幾重にも軽んじている相手からセックスという場面で翻弄され解き放たれる自分、それが逆に当時の自虐的な気分にマッチしていた。言い換えれば「癒されるセックス」という実益は、左遷という傷手を受けていた当時の綾子にとっては即効性のある薬のように必要とする現実だった。


アナウンスが駅名を告げる。我に返った綾子は人並みに押されながら、むっとする暑い車外へ掃き出されていった。


待ち合わせの葬儀の場所となる寺の入り口には、既に社の人間が数名集まっていた。会社の人間で綾子と和夫の関係を知る者は誰一人いない。現在の同僚が綾子を見止めて遠くから手を振っている。近づくと五つ年下の森野という営業マンが紺色のハンカチで汗を拭い、わざと顔をしかめながら言った。

「もう上司じゃ無かったのに、田辺さんも大変ですね」

綾子は、周りに一礼しながら返答した。

「大丈夫です。暑いですね」

見上げると青い空に入道雲が出始めていた。葬儀は寺を借りて行われる。気の早い弔問客がボチボチ姿を見せ始めていた。

「準備しましょうか・・・」

誰かの一声で皆がざわざわと動き始めた。綾子は受付担当だった。香典返しを準備しながら寺の方へ振り向き、それとなく和夫の妻の姿を葬儀の会場の中から捜していた。夏の容赦ない日差しが照りつけ綾子は右手でその日差しを遮りながら目を細めていた。

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