第4話 ご契約ありがとうございます
見事初契約を獲得したことに高揚を隠せない顔のリリアネットからタブレットを受け取り、右下の空欄にサインをする。
署名と同時にタブレットは光り出し、一面にびっしりと象形文字のような記号が浮かび上がり輝く。契約が成立したということだろう。
……この文字、多分特約条項ですよね?
全く読めないんですけど大丈夫ですか?
うん、まあもう契約しちゃったしね。大丈夫でしょう、多分。
「――そういえば」
「どうされました?」
タブレットを覗き込み、恐らく事務処理的な操作をしていただろうリリアネットが顔を上げこちらを見る。
「経験豊富なスタッフが同行、ってどういう人が来――」
リリアネットは左手の親指を立て自信に溢れた様子でクイっと自分の胸を指している。
なるほどね、早速騙されました。
チェンジとかあるのかな、でもチェンジして経験豊富な中年ハゲと大冒険とかになっても嫌だしな。
それよりは保険もあるし未経験でも可愛い女の子がいいよね。
可愛い子と旅をさせよって言うしね。
「……どうかしましたか?」
「アッ……いえ、よろしくお願いします」
リリアネットはまた事務処理に戻ると、鞄からあれやこれやと奇妙なガジェットを取り出し叩いたり押したりしている。
――俗なことを考えている場合ではない。
俺は気合いを入れ直し、壁に向き合って腰を降ろした。
間もなく眼下に広がるマルクトアを再生する旅が始まるのだ。
生半可な覚悟ではどれだけ痛い目を見るか分からない。
あれ? あそこの泉、湯気が出ている……。
あっちにも温泉ってあるのかな? 混浴?
あー、綺麗な砂浜もありますねえ。
どんな水着が流行ってるんでしょうねえ。
もしかしたら水着っていう文化も無か――
「お待たせしました!」
「ハイ!!」
今日イチで良い返事が出てしまった。
リリアネットの事務処理が終わったようだ。
所狭しと広げられていたガジェットの類が鞄に仕舞い込まれている。
「それでは、行きましょうか」
「え? もう?」
ちょっとコンビニに出かけるくらいのノリで言われたので驚いてしまった。
「あれ? やり残したことでもありましたか?
ここには何にもないですけど……」
「いや、リリアネットさんの方が色々準備とか……。
長い旅になるんですよね?」
「会社には申請を出したのでもう大丈夫です。
それにここには時間とか無いですから」
理の外、とはそういうものなのだろう。常識では考えない方が良いらしい。
「はぁ~」と間抜けな相槌を打ってしまったが、そうであればこれ以上ここに残る理由も無い。
俺たちはマルクトアへと向かうため壁の前に2人で並んだ。
「いよいよですね」
いざ、となると期待と不安が入り混じるものだ。
恐怖か武者震いかは分からないが俺の脚は震えていた。
これでは恰好もつかないので覚悟を決めようと深呼吸をする。
……あと2回やったら飛び込みます。本当です。
今ちょっと浅かったのでやっぱりあと3回やります。
いや今度はマジで絶対――
左手に柔らかな感触。
咄嗟に左を向くとリリアネットが右手で俺の手を握っていた。
彼女は強張る俺の顔を見つめ優しく微笑む。
「3つ、数えたら行きましょうか。
それと、これから私のことはリリアって呼んでください」
左手から確かな体温が伝わり、俺はその手を握り返す。
根拠などは微塵も無いが、この先がどんな世界に繋がっていたとしてもやっていけそうな気がした。
「3」
「2」
「「1!」」
――宙に浮く感覚。
風を切る音に小鳥の囀りが混じる。
青く茂った草木の薫りが鼻を通り抜ける。
広がる大海が反射した光の粒子が眼孔を刺激する。
俺は今日からこの世界で生きるのだと思った。
「――ちなみにどこに出るのか分からないので受け身を取った方がいいですよ?」
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