第16話

 奥さんは、お昼少し前に帰ってきました。


「あなた、昨日はありがとう。

 ごめんなさいね。

 おひとりでご不自由はなかった?」


「いやあ、たまにはひとりも気楽でいいもんだよ。

 それより、おかあさんの具合はどうだった?」


「ええ、もうすっかり熱も下がったし、食欲も戻ったのよ。

 あなたによろしく言っといてくれって。

 風邪くらいで呼びつけて、済まなかったって」


「そんなことはないよ。

 おかあさんも、もう、お若くないんだ。

 それに、風邪は万病のもと、ひき始めが肝心、と言うのだからね。

 とにかく、よくなられてよかったよ」


「それでね、お礼とお詫びを兼ねて、駅前でうなぎを買ってきたの。

 あなた、お好きでしょう。

 今日はお休みだから、少し早いけれど、お昼にしましょうか」


「うなぎか…。

 たまにはいいな。

 昨日はよく働いたから」



 食卓に座ってふたを取ると、ぷうんといい匂いがしました。

 付けられた小さな袋の封を切ろうとして、床屋さんははっとしました。


「昨日、二番目に来た男女のふたり連れ、あの二人の髪を切るたびに香ったのは、確かにこの香り、山椒の香りだ…!

 …どういうことなんだろう…?」


「…あなた? どうなさったの?」


ビニールの小袋を手にしたまま固まってしまった夫に、奥さんは不思議そうに呼びかけました。


「…うん、ちょっと気になることが…。

 あ、…いや、なんでもないよ。

 多分、気のせいだろう…」


「お疲れなの?

 久しぶりにひとりにしてしまったから。

 今日はゆっくりなさってくださいね」


と、そのとき、電話が鳴りました。

 奥さんは慌てて、お茶で、噛んでいたご飯を飲み込むと、立ち上がって受話器を手にしました。


「…はい。

 あ、さようでございます。

 …え? …まあ…。…それはご愁傷さまで…。

 ええ、今日の三時からですね。

 …はい、…はい、伺います。

 ええと、持っていくものは…」


 奥さんが確認してメモを取りながら、暫く話して電話は終わりました。



「どうしたの?」


 床屋さんは奥さんの尋ねました。


「町内で、亡くなられた方があるんですって。

 植木屋のご主人。

 長く患っていらしたそうなんだけれど、今朝方、早くにね。

 …ほら、あの、少し先の角を曲がったところにある庭の広い家よ。

 たばこを買いに行くとき、あなた、いつもお通りになるでしょう。

 わたし、今日、午後からお手伝いに行ってくるから」


「…そう。お気の毒だったね。

 あの植木屋さんなら、店にも時々お見えになったよ。

 久しく来られないと思っていたが、ご病気だったのか。

 君、大変じゃないか、帰って早々。

 悪いけれど、男では役に立たんだろうから、疲れているだろうが、頼むよ」

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