第76話 ピンチ・シモン
「ああ、失敬。服を汚してしまっていたな」
「そのシミは、何だと聞いている!」
「あー……これは、この家のメイドの……な」
「見損なったぞッ!!」
ルイゼは憧れであると同時に、いつか正々堂々と倒すべき目標だとシモンは考えていた。
しかしまさかその剣士が、『力の弱いメイドを殺める』ような人物だとは想像もしていなかった。
(まさか――)
そこでふと、シモンはあることに気がついた。
(クリス様は、〝侵入者を感知した〟からこそ、俺に厨房に行くよう指示を出したんじゃ……)
命令したのがただの子どもであれば、馬鹿馬鹿しすぎて一考もしない妄想だ。
しかし相手はクリスである。
そのような思惑があったと、考えずにはいられない。
(そういえば――)
円卓会議の席でソフィアが『北方に怪しげな動きがある』と口にしていた。
また、クリスはソフィアより先に、シモンの武器を強化した。
はじめは特に意味などないと思っていたのだが、
(クリス様は、俺が侵入者を退けるために、力を貸してくれたんだッ!!)
クリスは今日、屋敷に不審者が忍び込むことを予測していたのだ。
その証拠に、今日のクリスはかなり早い時間帯に、屋敷へと戻ってきた。
普段ならば日が沈むまで、外で〝魔術訓練〟をしているというのに、だ!
(相手はクリス様の掌で踊っている!)
感動を覚えると同時に、シモンは責任感が湧き上がった。
ここで敗北すれば、クリスの狙いが狂ってしまう。
無論、クリスの策略など幾重にも張り巡らされているだろう。シモンが敗北したところで、その計画に狂いは生じないはずだ。
それでも『自分は計画の歯車の一つ』だと意識すると、シモンの体がぶるりと震えた。
――武者震いだ。
(すべては、クリス様の計画のためにッ!)
シモンは勢いよく抜剣。
即座にルイゼに斬り掛かった。
「おっと。シモン殿、感情で剣を振るっても、良い太刀筋にはならないぞ」
「抜かせ!」
二度、三度とルイゼに斬り掛かる。
しかし相手は然る者、シモンの攻撃は簡単にいなされた。
「……ぬ? シモン殿、ずいぶんと良い剣を使っているのだな」
自らの剣を眺めて、ルイゼがそう呟いた。
剣には僅かに刃溢れした後がある。
クリスが付与した斬れ味アップの魔術が、相手の刃を僅かに砕いたのだ。
ルイゼは一流の剣士だ。
一流の剣士は、一流の剣を持っている。
クリスの付与は、そんな剣を刃溢れさせる程の威力なのだ。
(これなら勝てる!)
正義感に燃えるシモンが、大きく剣を振り抜いた。
瞬間、僅かに手元にマナを込める。
「ぬッ!?」
――ィィィイイン!
甲高い音が鳴り響いた。
僅かに伸びたシモンの剣を、ルイゼが剣を構えて防御したのだ。
タイミングは完璧だと思った。
だが、相手の反応速度の方が一枚上手だった。
(い、今のを防ぐのか……)
手元で伸びる刃を防ぐなど、人間業とは思えない。
世界最強は伊達じゃない。
こんな相手に勝てとは、クリスも人が悪い。
(いや、だからこそクリス様はこんなにも剣を強化してくださったんだ)
もし剣に付与が施されていなければ、シモンはルイゼと対等に戦うことさえ出来なかったに違いない。
クリスは相手の実力を熟知した上で、ぎりぎりで勝てるレベルまで武器を強化してくれたのだ。
(きっとこれは、俺がクリス様に課せられた、命がけの訓練なんだ!)
――もっと強くなれ。
――剣術大会八位(そのていど)の腕前で満足するな。
(きっとクリス様は、そう思われたに違いない!)
そう思うと、シモンの体に益々力がみなぎってきた。
全力前進、一刀両断。
フェイント、斬り上げ、斬り下ろし。
様々なテクニックを駆使して、シモンはルイゼに斬り掛かる。
しかし、クリスに強化してもらった剣をもってしても、ルイゼの体勢を崩すことさえできない。
(遠い……)
ルイゼとの差がありすぎる。
世界最強は、かくも遠いものなのか。
つばぜり合いになると不利になることがわかるのだろう。
ルイゼはシモンが知らないテクニックを駆使して、すべての攻撃をひらりひらりと躱していく。
すぐそこにいるのに、まったく捕らえられない。
ルイゼはまるで、蝶か柳のようだった。
「はぁ……はぁ……」
「ぬぬ、もう終わりか?」
「まだ、まだ……ッ!」
再び攻撃しようとした時だった。
シモンははたと気がついた。
(そういえば、ルイゼは一度もこちらに攻撃を仕掛けていない)
戦場ではまずあり得ない状況だ。
シモンの苛烈な攻撃により、ルイゼが反撃出来ないというわけではない。
――単に、ルイゼは攻撃する気がないのだ。
シモンは悔しさに唇を噛んだ。
(クソッ。俺を、敵と見なしてないのか!)
まるで大人に稽古を付けてもらう子ども。
シモンとルイゼには、それだけ地力の差があった。
その時だった。
――ドッ!!
上階から、空気が破裂したような音が聞こえた。
音の方向は、クリスの部屋だ。
「まさか、クリス様に刺客が!?」
慌てたシモンに、ルイゼが落ち着き払って言い放った。
「さて、手合いもこの辺りにしておこう」
「何を言う!? 俺はまだ戦える!」
「主を助けなくて良いのか?」
「あ――ッ!?」
一瞬、クリスに意識が向いた。
その僅かな間隙に、ルイゼがシモンの間合いに入り込んでいた。
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