第75話 北方最強の剣士

 アレクシア帝国の間者と思しき男を排除したあと、ソフィアはほっと熱くなった息を吐き出した。


「クリス様が予想されていた通りでしたね」


 ソフィアがクリスに、短剣への付与を願い出た時だった。


『ソフィアはそのままでいいんじゃない、かな?』


 彼は武器の強化に否定的だった。

 はじめ、ソフィアは『なんとしてでも強化してほしい』と願ってやまなかったが、こうして実際に〝刻〟を迎えてみると、『なるほど』とクリスの言動に納得した。


 彼が強化を否定したのは、今回の侵入者が、ソフィアの力でどうにでもなると分かっていたからだ。


 事実、屋根の上から侵入した男――ソフィアの調べでは名をネークスという――は、ソフィアにとって与しやすい相手だった。


 隠密同士の戦いは、情報戦から始まる。

 相手の情報を、より多く握った方にアドバンテージがあるのだ。


 今回ネークスは、フォード家やクリスについての情報はたくさん得ていたのだろう。

 だが、ソフィアについては一切調べが付いていなかった。


 ――彼は最後まで〝強いメイド〟という基準で戦っており、決して〝元宵闇の翼の隠密〟だと認識しなかった。

 それが、彼の敗因だ。


 もし彼がソフィアを隠密と認識していれば、初めから屋根の上――相手が待っていた場所だ!――での戦闘など行わなかっただろう。

 そんな場所で戦うのは、罠にかけてくれと言っているようなものだからだ。


「残念ですが、無駄になってしまいましたね」


 ソフィアは眉尻を下げながら、煙突を眺めた。

 そこには、いくつかクロスボウを仕込んでいた。

 もし相手がソフィアの想像を超えた強敵だった場合、射線上におびき寄せて発射する予定だった。


 その際、自分も射線に入る危険な作戦だ。

 しかし、今はクリスが魔術を付与してくれたメイド服を着ている。

 たとえクロスボウの矢が飛来しようと、防御魔術が跳ね返してくれただろう。


 折角の仕掛けが無駄になってしまった。

 残念ではあるが、これを使うような相手でなくて良かったとほっとしている。


「それにしても、クリス様の毒はよく効きますね……」


 追尾の付与がかかった短剣を回収しながら、ソフィアはぽつりと零した。


 相手は、幼い頃から隠密としての訓練を受けた猛者だ。

 毒を飲んで耐性を付ける訓練だって行っていただろう。

 その相手の自由を短時間で奪ったのは、短剣に込められた毒魔術のおかげである。


 もしソフィアが手持ちの毒で対処しようとしても、相手に通用したかどうか。


「取り扱いには十分注意しないといけませんね」


 ほんの僅かでも肌が傷付けば、自分の体が動かなくなる可能性が非常に高い。

 ソフィアは几帳面な手つきで、短剣を鞘へと収納するのだった。



          ○



「ねえねえシモン。厨房にプリンを取りにいってくれる?」

「えっ、今からですか?」

「うんうん。折角シェフが作ってくれたのに、食べ損なっちゃったからね」

「はあ、なるほど」


 クリスが手をひらひらと振る。

 今プリンを食べれば、夕食が入らなくなるのではないか?

 そうは思うが、主の指令だ。

 シモンは椅子から立ち上がり、厨房へと向かった。


 プリンはクリスの大好物だ。

 シモンの剣を強化してからこの屋敷に向かう間も、彼の口から出てくる言葉は、プリンの一言だった。


(どこからどう見ても子どもなんだよなあ)


 12才らしい態度である。

 しかし、それに決して惑わされてはいけない。


 クリスは、12才で悪魔を倒し、国王より二つ名を頂いた神童だ。

 彼の行動にはすべて裏があり、深遠な策が張り巡らされている――というのが、先輩ソフィアの弁である。


 一体どこからどこまでがクリスの狙いなのか、新人のシモンには推し量ることさえ出来ない。


 さておき、今はプリンだ。

 彼が食べたいと言うのであれば、きっと夕食も食べきれるのだろう。


 間食をして食事が喉を通らないと知れば、父ヴァンが激怒する。

『今まさに飢えている領民がいるかもしれないのに、その領民から頂いたお金で作った食事を残すとは何事だ!』


 領主として、至極真っ当な言葉である。

 現代、ここまでまともな領主というのも少ないはずだ。

 普通の貴族は、領民から集めた金などどうとも思っていないからだ。


 一階へ降り立ったシモンは、奇妙な気配に気がついた。

 いつもと雰囲気が違う。


 まるで、異物が入り込んだような――。


「何者!?」

「おおっ、いきなり大声を上げるとは、ビックリしたではないか」

「お、お前は……」

「ぬ?」


 暗がりの向こうから現われた顔を見て、シモンは飛び上がるほど驚いた。

 相手は、帝国剣術大会優勝者――世界最強の剣士ルイゼだった。


「ルイゼ殿!?」


 相手が既に抜剣状態にあるのを警戒し、シモンは剣の柄に手をかけた。


「やあやあ、これはシモン殿。久しぶりだな。まさかここで会えるとは思ってもみなかったぞ」

「どうしてルイゼ殿がここに?」

「ザガンに雇われたのだ」

「――ッ!!」


 その名を聞いた瞬間、シモンの体が凍り付いた。

 だがすぐに深呼吸をして、気持ちを落ち着ける。


 相手は、油断ならぬ人物だ。

 心を乱して隙を見せるわけにはいかない。


「しかし、フォード領は相変わらず何もないのだなあ」

「…………」


 冷静に彼を観察していたシモンは、相手の服に付いた赤い染みを見て目を細めた。


「ルイゼ殿。その服のシミは、なんですか?」

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