第9話 暗殺者だったソフィア

「毒はいらないんだけど」

「――ッ!?」


 その瞬間、サァーッと血液が落下する音が聞こえた。

 失敗、でも、しかし、何故……。

 頭の中を、様々な考えが一斉に駆け巡る。

 ソフィアは完全にパニックに陥った。


 誤魔化すべきか。でもなんと誤魔化したら良い?

 次に取るべき行動を考えている間に、クリスが口を開いた。


「これ、全然効かないから」


 そう言って、彼は杯を飲み干した。

 それは、一滴でもオークを殺す毒を、すべて注いだ水である。


 飲んだら即座に症状が現われる。

 しかし先ほど彼が宣言したように、ソフィアが盛った毒は、彼には通用しなかった。


(うそっ!? 本当に猛毒が効かない!!)


 ハンマーで殴られたような衝撃を感じた。


 彼は現在、魔導具の類いを身につけていない。

 つまり、彼には本当に毒が一切通じないのだ。


 まさか毒が効かない人間がいるとは想像もしなかった。


『毒はいらないんだけど』


 つまり彼は、毒が盛られていると知りつつ、杯を呷ったのだ。

 まるで『そんなことをしても自分は殺せない』と見せつけるように。


(これが、神の子……ッ!!)


 ふとクリスの瞳が、じっとソフィアを捉えていることに気がついた。

 いつもと変わらない、なにも考えていなさそうな瞳だ。


 だが今は、それが恐ろしい。

 その瞳が、まるで自分の企みの全てを見通しているかのように感じられた。


「――ッ!?」


 あまりの恐怖から、体がガクガク震え、体の温度が下がっていく。


 その時だった。

 ソフィアはふと、体に温もりを感じた。

 それは足下から全身に広がった。


 体の隅々から、疲労という疲労が抜けていく。

 長年悩まされ続けた肩こりでさえ、一瞬にして消えてしまった。


(癒やしの……魔術!)


 驚きだ。

 火水土風だけでなく、非常に珍しい光魔術さえも使えるとは、思いもしなかった。


(これが神の子の魔術ッ!!)


 クリスは、間違いない。百年に一度の才能を持っている。

 そのような人物を相手にして、凡人の自分が敵うはずがなかったのだ。


 逃げよう。

 今すぐ逃げだそう。


 逃亡が暗部に露見すれば、ソフィアは即座に命が絶たれる。

 とはいえクリス殺害を実行してしまった自分は、この屋敷にはいられない。


 ソフィアが逃亡を決意した、その時だった。

 ぽろり、首元からなにかが落ちた。


「えっ?」


 下を見ると、首にはまっていたはずのチョーカーが落ちていた。

 それは付けた者にしか外せないはずの、呪いの魔導具――奴隷の首輪だ。


 このチョーカーに、ソフィアは六年間も命を握られ続けていた。


 填めたのは、アレクシア帝国の暗部だ。

 彼らはこれで命を握り、ソフィアをフォード家に送り込んだのだ。


 定期的に下される命令を守らなければ、ソフィアは今頃この首輪に締め付けられて、命を失っていただろう。

 それが、何故か突然外れてしまったではないか!


(私は……夢を、見ているの……?)


 ソフィアは目を瞬かせた。

 首元を触っても、目をこすっても、チョーカーが外れた事実は変わらなかった。


(私はもう、やりたくないことを、やらなくていいんだ……!)


 本当はやりたくないのに、やらなければ死んでしまう。

 そんな、壮絶なプレッシャーから解放された。


 ソフィアの目に涙がみるみる溜まっていく。


(これで、暗部の制裁に怯えず逃げられる!)


 そう考えていた矢先だった。

 クリスが毅然として言い放った。


「このまま消えようなんて思わないでね」

「――ッ!!」

「君はこれからもずっと、僕のメイドだ」


 この発言に、ソフィアは自分の耳を疑った。


 自分を殺そうとした者を側に置くなど、普通ならば言語道断だ。

 しかしクリスは、ソフィアを自分のメイドだと言った。逃げきえるな、とも。

 もはや、毒を盛られたばかりの人間の言葉とは思えない。


(まさか、最初からこうなることを初めから予想してッ!?)


 彼は自らが魔術士として始動するこの日までは、自分の能力をひた隠しにしていたのだ。

 大陸で最大の武力を持つ。そんな帝国を相手に出来るだけの力が蓄えられる、その時まで……。


 そしてすべてを実行する力が身についた刻、彼は呪縛からソフィアを解き放ち、北方アレクシア帝国の陰謀を打ち砕いた。


 ――帝国の挑発を、受けて立つ刻が満ちたのだ!


「これが、神の子の器……!!」


 ソフィアの背筋がぶるりと震えた。


 もしこれまでの彼の行動が、すべてブラフであるならば。

 いま目の前に居た彼こそが、本当のクリスの姿であるならば。


 ――彼は、とんでもない英雄になるのではないか?


 彼はソフィアの命を救ってくれた。

 おまけに、自分の愚行を不問にしてくれた。


 それほどの器を持つ人物に仕えるチャンスは、この先二度と訪れないだろう。


「……決めた」


 ソフィアは決意を固めた。

 これからも、クリスの側で働こう。


 そして彼が成すだろう数々の偉業を、最も近くで目にするのだ!


 少し前まではでくの坊と呼んでいた彼の未来を、ソフィアは期待せずにはいられなくなっていたのだった。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る