第12話 きまりごと

 自分が変わっているのではないかと疑い出したのは、小学一年生の春だった。「しゃべり方がヘンだね」とクラスの男の子に指摘された。確かに、周りの話す言葉は非常に砕けた調子だったし、友達との会話はもちろん、先生に対しても敬語を使う者は僅かだった。

 しかしヘンだと言われても、口調を直すことはしなかった。学校では常に丁寧な言葉で喋りなさい、と両親から徹底して訓練を受けていたから。

 言葉遣いだけではない。両親はさまざまな「きまり」を課してきた。休み時間には必ず教室から離れること、給食は八割程度食べて残し、昼休みに隠れて吐き出すこと、動植物にはむやみに近付かないこと――きまりはたいてい、こういった学校生活に関する注意だったが、ひとつだけ妙なきまりがあった。それは「気に入った男の先生を選ぶ」というものだ。

 なんとも奇怪なきまりだが、当時は一切の疑いを持たなかった。小学校に行けばそうするのだと教えられていたし、言われた通りに行動すると両親が喜んでくれたから。

 入学して一週間で、自分が変わっていることを受け入れていた。

 二週目には教師を選んだ。


 担任の菊田きくたという男性教師だった。若い割に子供に目が行き届いており、青太郎せいたろうが休み時間に姿を消すことや、昼食を残すことにも早々に気づいていた。

 菊田は青太郎をひどく心配した。それを両親に伝えると、二人は頷き合って、なぜか青太郎に畑の手伝いをするよう言いつけた。

「手伝い」は青太郎にとって罰だった。は恨みがましい眼で睨んでくるし、大勢で低い唸りを合唱してくる。なにより噛まれたり引っ掻かれるのが嫌だった。青太郎が畝の間を通り抜けるだけで、あれらは実を弾いて中から顎や爪を必死で伸ばし、身体を傷つけてくる。傷は母親が治してくれるから気にならなかったが、やはり一瞬の痛みは苦痛だった。

 結局「手伝い」をしたのだが、なぜか母親は、いつものように傷を治してはくれなかった。身体を見られたら先生がもっと心配してしまう――そう予感した通り、菊田は前にも増して青太郎を心配した。そして母親は青太郎に耳打ちした。

(相談があるから家に来てほしい、と先生に言って)


 はたして菊田は葦原家に来た。今思えば、父親の虐待を疑っていたに違いない。応対に出た父親に敵意を剥き出し、今にも襲いかからん剣幕だったのだ。

 なにがどうなって険悪な雰囲気を生み出しているのか、青太郎には理解できなかった。そわそわしているところを、母親は今頃になって青太郎の傷を治し始めたから、もうわけが分からない。

 そして菊田の前で服を脱がされた。

 茫然自失して帰っていく菊田の虚ろな表情だけが記憶に焼き付いた。


 それから何度も、菊田は家に来た。学校でも青太郎を特別に気遣い、どこかの国の皇子のように接し続けた。菊田と過ごした時間は、とても充実していたと思う。これまで両親以外の大人と触れ合う機会がなかったのだ。保育園も行っていない青太郎にとって、家族以外との接触を親に許されたのは、菊田が初めてだった。

 あっという間に一年が過ぎた。そして三月のある日、菊田は忽然と消えた。修了式にはいたはずなのに、離任式には姿を見せなかったのだ。転任でも退職でもない。青太郎のクラスを整列させていた代理の先生も、曖昧にはぐらかすだけだった。

 疑念と切なさの残る一年が終わった。

 そして二年に上がった直後、図らずも青太郎は大きな失敗から、思いがけぬ学びを得る。


 昼休み、教室に誰も残っていないのをいいことに水槽を眺めていた。

 毎日独りで本と向き合うだけの日々が退屈だった。活字は動かない。頭の中でイメージを膨らませることはできても、やはり実際の動植物に触れたかった。

(ちょっとの時間なら)

 教室には誰もいない。それにきまりは、動植物には「むやみに近付かない」ことだ。川で苦労して捕まえたザリガニを見ることくらい許されるはずだった。

 何度も廊下を覗いて人のいないことを確認すると、椅子に乗って水槽を覗き込んだ。アメリカザリガニが十匹ほど、どれも小指くらいの長さの、色の薄い幼体だった。

 初めてまじまじと見つめた生物に心が躍った。石の裏や浮草の陰に隠れているザリガニたちが面白かった。自然と微笑んでいた。身体が喜びに満ちていた。そして青太郎の脳に、突如、異様な考えが去来した。

(お腹空いたなあ)

 それは学校生活で普段から感じていたことだった。昼食は抜いているも同然である。我慢できたのは、家に帰れば朝夕の食事が待っているからだ。今日も家に帰れば、山盛りの夕食が待っているはずなのに、どうしてか視界に映るザリガニが美味しそうに見える。

 目が離せない。じっと見ながら、腹を押さえる。

 そうやって耐えているうちに、ザリガニが変色してきていることに気付いた。まさかとは思ったものの、最初は透明に近い個体だったはずが、今やかなり赤が濃くなっている。それに心なしか大きくなってはいないか。

 一層まじまじと凝視していると、突然ザリガニが、節のある細い脚を変則的に動かし始めた。それからまるで感電するように、極端にエビ反りになったり、身体を丸めたりを繰り返す。

 廊下で騒がしい声がした。しかし目が離せない。真っ赤に成熟した殻が割れた。丸まった。身と殻が捏ねくり合い、凝集して、見る間に赤黒い団子が十できあがった。

 教室のドアが勢いよく開いた。

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