第11話 黒い果実 白い種

 廊下をまっすぐ進み、階段を上がる。踊り場に差し掛かったところで、両肩を担がれた校長と鉢合わせた。皺の刻まれた肌は土気色をしている。目は真っ赤に充血し、片手で前頭部を抑え込んでいた。

「校長先生、何が」

「ああ……柴田先生。なに、青太郎せいたろうくんと話していたら、眩暈でふらついただけですよ。持病の片頭痛も同時に出てしまって」

 早く保健室へ、と急かす堤を制し、校長は血走った目で柴田を見つめる。耳元に囁いてきた。

「学校を辞めたいと言ったんです、彼」

「え」

「僕は化け物だから迷惑が掛かる、だから校長先生の力で辞めさせてくれ、と。この歳で驚くとは思わなかった。人間関係や勉強が辛くて学校に行きたくないという子供はたくさん見てきましたが、化け物だから辞めさせてくれとは……」

 校長が強く目を瞑る。鋭い頭痛が襲ったらしい。

「……辞めることはできないけれど、教室に来ないという選択肢はある。だから一度、ご両親と相談しようと提案したんだが、嫌だと拒否されました。じゃあ柴田先生となら話せるだろうか、と訊いたときに眩暈が襲ってきたもんだから……」

 校長が再び顔を顰める。ふらついたのを、肩を貸していた教師が慌てて支えた。

「校長先生、無理なさらず。私が青太郎と話してきますから」

 柴田の言葉に校長は苦悶を浮かべたまま頷くと、ふらふらと階段を下りていった。


「二時間……」

 階段を上がりながら、柴田は呟く。

 校長は柴田を呼ぼうとして、急激な不調に苛まれた。そこには明らかに「柴田との関りを避ける」という青太郎の意思が窺える。そして、意思を持ったときには、二時間というリミットなど存在しない。

「……抑えて、二時間なのか」

 青太郎はその気になれば、いつでも周囲に影響を与えることができるのではないか。しかし、出来る限り普通に学校生活を送ろうと、何かしら自分をコントロールした結果、二時間以内であれば、あまり影響がでない程度に抑制できるのでは――。

(何を言ってるんだ、俺は)

 非現実的な空想を繰り広げる自分が怖い。怖いけれども、自らの突拍子のない仮説に納得している自分もいる。潰れたザリガニ、肉団子のウサギ、頭痛に喘ぐ人間たち。思い描いた凄惨な光景には、必ず青太郎が共に映っている。

(生き物だけじゃない)

 なぜイチゴが見違えるほど元気を取り戻したのか、なぜ乾燥しきった花瓶の中でスイートピーが一週間以上美しい花を咲かせていたのか、前の学校で花壇の花が不自然に枯れたというのは、誰のせいなのか。

 空き教室の前で柴田は足を止める。――教室側に向けた半身に痺れが走った。


 その教室は、古くなって傾いた机や椅子の墓場として使われていた。一応規則正しく並べられてはいるが、どの机も傷まみれで歪み、廃校の一室を想起させる。そんな裏寂れた空間の中央に、少年は実に溶け込んで座っていた。

「来ないでって、言ったのに」

 不貞腐れたように、机の下で片足を蹴る仕草をする。

「……担任だからな。そりゃ心配するさ」

 ことさら明るく言うと、少年は柴田と一瞬だけ視線を合わした。それを確認して、柴田は頷く。

(そうだ、目の前にいるのは青太郎だ)

 実を言うと柴田は、この部屋に入る前から、扉の向こうに待ち構えているのが誰なのか分からなくなっていた。葦原青太郎という少年であることは疑いようがない。しかし柴田の知っている青太郎は、イチゴの前で背を弾ませる青太郎だ。尋常ではない力を持つ青太郎は青太郎ではなく、何か別の存在としか思えなかった。

「校長先生は」

「……頭痛が酷そうだが、肩を貸されて歩けるようだった」

「そうですか」

 青太郎は長い息を吐く。安堵したのか、肩が僅かに下がったように見えた。

「青太郎。いつか、教室に居辛い理由を訊いたとき、別に隠してはいないと言っていただろう。今その理由を聞かせてもらってもいいか」

 小刻みに震える喉を律して、優しく諭すように問いかける。青太郎はしばらく机を見つめていたが、静かに椅子を引いて立ち上がると、唐突にこちらへ一歩踏み出した。

 柴田は思わず、一歩後ずさった。

「……本当はもう分かってますよね。そうやって後ろに下がったんだから」

「違う、これは――」

「全部、僕が悪いんです。僕は化け物だから。柴田先生を選んでしまったから」

 選んだ――それがどういう意味なのか訊き返す前に、青太郎はズボンのポケットを弄って何かを取り出した。真っ黒の果実、だった。トマト大の球状をしている。ふと柴田は葦原家の畑を思い出した。確か、あのとき育っていた中に、こういう野菜があった気がする。

「このまま僕が学校で大人しくしていれば、先生はひどい目に遭います」

「それは……清水先生や菊田先生のようにか」

 青太郎は頷かない。

「先生たちは、どうなったんだ。……その手に持っている実は何なんだ」

 柴田の問いに、青太郎は僅かに迷いを見せる。柴田の顔と黒い実を交互に見遣り、手のひらで実の表面の感触を確かめるように撫でまわしていたが、とうとう覚悟が決まったのか、突然、果実の中央に親指を突き立てた。

 柴田は思わず腕で目を覆った。汁が飛び出すと思ったから。しかしそうはならなかった。突き立てた指は、湿り気を持った黒い果肉に刺さっていく。中ほどまで突き立てると、巨大な種のような白い球体が覗いた。青太郎は躊躇なく果肉をほじくり、その球体を露わにする。半分飛び出したそれを指で摘まんで取り出した。そこで初めて、球体にはニンニクやクワイのような鋭く長細い突起がついているのが分かった。

 柴田はその形状に既視感があった。目を細めておもむろに近付いていく。それを見た青太郎は、鋭い突起を摘み、球体をこちらに向けてきた。

 白い球の表面には、黒い丸の染みが落ちていた。(白い球、黒い丸)その意味に気付いた瞬間、黒丸が左右に素早く揺れ動いた。まるで何かを探すように。――眼球が左右に揺れるように。

 無言の悲鳴を上げて後ろに仰け反る柴田を寂しげに見、青太郎は「眼球」を口に放り込む。

瑞々しい破裂音、下唇に、てらりと透明液が滴っていく。顎を大きく上下に動かして噛み砕く様は、給食を食べるどの子供よりも、元気でたくましかった。

 青太郎は口元を袖で拭う。

「……僕たちは、これしか食べられないんです。給食は、食べる振りくらいはできるけど、あとで全部吐いちゃうから本当は食べたくない。……お父さんには『残せ』って言われてたけど、そしたら先生は余計心配するでしょう。僕は柴田先生を心配させたくなかった。――僕のことを気に掛けてくれればくれるほど、先生は良い種になってしまうから」

「……タネ」

 先生、と切ない声が、がらんどうの教室に染み込む。

「僕はどうしたら先生を助けられるんでしょうか。先生はどうしたら僕を忘れてくれるんでしょうか。思いつくことをがむしゃらにやってみたけれど、結局人を傷つけてしまうだけでした。……先生、僕は話したい。知ってること」

「……話してくれ」

 動揺を抑えきれぬまま、なんとか返事をすると、青太郎は寂しげに微笑んだ。

「大丈夫、二時間は掛かりませんから」

 そう言って青太郎は座り、隣の席の椅子を引いた。

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