第10話 突風
青太郎が学校に来た。そして柴田を含めた全員が驚きを隠せなかった。
(座っている)
朝の会が終わっても、青太郎は教室を出ることなく、席に大人しく座っていた。当たり前のことがひどく奇妙で、誰もが彼の姿を凝視せずにはおれなかった。
柴田は身体に痺れが走るのを感じていた。――それが何か不吉な先触れだとは思わないように努めながら。
(これは良いことだ。教室を抜け出す方がおかしかったんだから)
そうやって無理に納得しようとしたのが良い結果を生んだためしはないのに、自分の心を騙してなだめざるを得ないのは、危機が目前に迫っているからではないだろうか。台風の進路が我を目掛けて直進してくるように、本能が身を守ろうとしているのではないのか。
柴田は教室の中央に座る少年を横目に見る。
――何が起きても、僕のことを心配しないでください。
(何かが、起きるんだ)
これは直感ではなかった。――なぜなら青太郎は、柴田に嘘をついたことがないから。
二時間目終了間近に、それは来た。
青太郎の隣に座る女子が頭痛を訴えた。
柴田は保健係に保健室まで付き添うよう指示した。彼女が頭を抑えながら立ち上がったとき、二人の男子が同時に手を上げた。青太郎の前後に座っている男子だった。二時間目の途中から気分が悪かったのを我慢していた、と言う。休み時間まで保つと思っていたのが、急激に頭痛が悪化したので、手を上げた女子と一緒に保健室に行ってしまおうと思ったらしい。
彼らをまとめて保健室へ送り出すと、柴田は窓を開けた。
「風邪は流行ってないけどな。……一応換気しておこうか」
窓の外を眺めて生温い春風を浴びる。視線を教室に戻すと、何人かが口元を覆うような仕草をするのが目に入った。心なしか青太郎から机を遠ざけた者もいる。
休み時間も、青太郎は席から動かなかった。子供たちの方が、青太郎を避けて廊下に出たようだった。中にはそうして青太郎をバイキン扱いする者を睨んで、じっと席に座ったままでいる者もいた。しかし正義感に満ちた彼らは、三時間目が始まって青太郎の斜め後ろの女子が不調を訴えるのと同時に手を挙げ、保健室へと苦悶の表情で去っていった。
四時間目、青太郎に隣接する席が、全て空席になった。火の粉が飛び散ったように、教室全体も歯抜けになっている。彼自身が台風――というよりもはや竜巻のごとく、教室の中央を吹き飛ばしたようだった。
昼食時、緊急の職員会議が開かれた。
この日、体調不良を訴えた児童は十一人、全て柴田が担当するクラスから出ていた。彼らは皆一様に頭痛や吐き気、倦怠感を訴えた。中には意識が混濁して、まともに会話が出来ない状態の者もおり、半数近くが早急に病院へ運ばれた。
「症状からして伝染病ということは考え辛いです。市民病院の先生とも連絡を取りましたが、やはり細菌やウイルスが原因ではなさそうだということです」
養護教諭の
「十一人というのも気になるが」教頭が薄い頭を掻き毟り、柴田を責めるように
それは、と
「青太郎くんは今、別の場所に?」
「……空き教室で待機させています」
「彼の机や荷物から、何か不審なものは」
「……一応本人に断って探してみましたが、特に見つかりませんでした。校長先生、青太郎は何も――」
分かってます、と柴田の背中を軽く叩く。やはり経験が違うのだろう、その落ち着き払った態度を見るだけで、多少なりとも柴田の呼吸が整った。
「原因が何であれ、症状を訴える子供が十一人も出ています。三年一組は一週間学級閉鎖としましょう。とりあえず理由は風邪等の蔓延で。柴田先生は緊急のお知らせの作成を。配布次第、下校の準備に掛かってください。他の先生方は教室の換気と、マスクの着用を徹底してください。階段裏の倉庫に備蓄があったはずです」
冷静な指示のもと、これまた沈着に散会する教師陣に見とれながら、柴田は自席に座って、お知らせを作成し始めた。その後ろを校長が通る。
「では私は青太郎くんを見に行ってきましょう」
柴田は咄嗟に「お願いします」という一言を呑み込んだ。脳裏に言葉の破片が渦巻いて、ようやく絞り出したのが「早めに戻ってきてください」という忠告にも似た台詞だった。
校長はその意味を考えて、「大丈夫、マスクをつけますから」と頷いて職員室を出た。
(違う、違うんだ。そんなことをしても意味はない)
眼を閉じる。記憶から青太郎の姿を拾い集めた。転校初日の朝に教室を去った後ろ姿、図書室で独りきりで座っていた姿、ザリガニの水槽の、イチゴの鉢の、ウサギ小屋の前の姿――。
――なんというか、話したいのに抑え込んでいる感じで。
――強制されているという印象を受けました。
(親から、言われていたんだ)
教室にいてはいけない、いや、長居してはいけないと。
徹底的に休み時間に姿を消した。他人との関りを避けていたのではない。他人との接触を避けていたのだ。文字通り物理的な接触を。
業間ごとに教室を抜ければ、少なくとも四十五分に一度は周囲の人間との接触を避けれる。
柴田は時計に目をやる。朝の会が八時二十分から、一時間目が四十五分に始まり、二時間目が終わるのが十時四十五分――。
(約二時間だ)
今日は移動教室がなかった。教室内で散らばりはしたものの、体調不良を訴えた彼らは、青太郎の周囲の空間に、およそ二時間一緒にいた。
(校長先生)
二時間という猶予は長く感じるが、青太郎のそばで長居するのは危ない。
早く文書を作って警告しなければ、と急いで書面を作成していたとき、にわかに廊下が騒がしくなった。走って来た教師が「堤先生!」と大声で呼ぶ。職員室に残っていた堤が少々動揺しながら廊下へ出るのを、柴田は血の気を失った顔で追いかけた。
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