第9話 消えゆく美しい命

 白昼夢にも似た浮ついた感覚で学校に戻ると、校舎から慌ただしい人影が飛び出してきた。スーツ姿で先頭を急いでいるのは校長だろうか。後ろから追いかけるのは用務員の杉田だ。肩に作業鞄を担ぎ、大きく出た腹を揺らして、えっさえっさと駆けるのが見えた。

 彼らはウサギ小屋の方へ向かう。柴田はふらりと後を追いかけた。


「これは酷いな」

「イタチにやられたんですかねえ」

 あの、と小屋の入り口から声を掛ける。中で屈んでいた二人が振り返り、気まずそうに会釈した。

 杉田が大儀そうに立ち上がり、腰に手をつく。

「柴田先生、見てくださいよ。昼間、飼育委員の子が見つけたらしいんです」

 促されるまま奥へと進む途中、鼻をついた生々しい腐臭に、柴田は思わず袖で口元を覆った。杉田の指し示す先には、ウサギの寝床らしい穴がある。その中に、黒ずんだ塊があった。

「これは……肉片、ですか」

「肉団子って言った方が正確でしょうな。皮も肉も内臓もあったもんじゃない。イタチかキツネあたりが食い散らかして、中途で逃げていったんですかなあ」

 でも、と杉田は入り口を見遣って首を捻る。

「今日の飼育当番の子は、ちゃんと鍵が掛かってたって言うんですよ。一応私も毎日、帰る前に小屋の鍵を確認してますけど、昨夜もちゃんと掛かってました。金網にも板壁にも穴なんてないはずなんだけどねえ」

 杉田は腑に落ちないようだったが、さすがに慣れているのか対処は落ち着いたものだった。軽く消毒をして覆いを被せ、あとは業者に任せると言って、再び腹を揺らして戻っていった。

「顔色が優れませんね」

 校長が心配げに柴田を覗き込む。そうですかね、と曖昧に返した。

「ついさっきね、葦原さんから電話が掛かってきたんですよ。事務の岡本先生が対応してくれていたんだけども、つい気になって代わってもらいましてね。――なんでも先ほど家庭訪問で丁寧に話を聞いてくれたとか。息子のことを今以上に気に掛けてやってほしいと懇願されてましたよ」

「はあ……そうですか」

「どうも青太郎くんのことは私も気にしていたんだけど……昨年のことも、ある程度は知っていたからね。でも柴田先生がよく頑張ってくれているお陰で大丈夫そうですね」

「とんでもない。皆さんのご助力があっての……」

 言いながら身体をふらつかせた柴田を、校長が俊敏に支える。

「相当気を張っていたんでしょう。しばらく保健室で横になってください」

 そんな、と首を振ったものの、意識は曖昧だった。校長に肩を担がれた感触を最後に、柴田は夢へと落ち込んでいった。



 夢の中で、柴田は祖母の庭にいた。美しい動植物に囲まれた、この上なく優しい、居心地の良い空間。柴田は少年だった。そして大好きな祖母は縁側に座っていた。

祖母ばあちゃん、ウサギが死んじゃった)

 祖母は微笑を湛えたまま動かない。

(イチゴも潰しちゃった。花も枯れちゃった)

 祖母は庭を指す。ここもいつか枯れるのよ、と言われた気がした。

 寂しさが胸に込み上げる。なんとなく祖母を喜ばせたくなった。

(でもね、お墓を作ったよ。ウサギさんとイチゴさんとお花さんのために)

 頭を撫でて褒めてくれるだろうと思ったが、祖母はしかし、困惑したように目を伏せた。

 なんで。これは正解ではないの。

 生き物を大切にしたでしょう? めいっぱい優しくしたでしょう?

 祖母は寂しげに縁側から庭へと降りていく。菜園に踏み入ると、どこからか取り出したシャベルで土を掘り始めた。毎年のように見た、懐かしい光景だった。

 途端、地響きがした。ぞわりと何かが這い上がってくる感覚。

(やめて、気持ち悪い)

 必死に叫んだつもりだったが、声は出ていなかった。思いの伝わらぬまま、とうとう祖母が掘った穴から、得体の知れない無数の黒い虫が這い出してきた。

 怖気おぞけで飛び上がった。黒虫は樹木や花に這い上がっていく。(庭が)柴田は無我夢中で、地を這う虫を、幹を上っていく虫を足で蹴り潰した。しかし抵抗虚しく、無数の虫は葉にとりつき、次々と植物を蝕んでいく。地面を見ると、既に花や野菜も食われ始めていた。

 背後で犬の叫びが聞こえた。断末魔の悲鳴。振り返ったときには、美しい茶色の毛並みが穴だらけになっていた。近付いて犬を持ち上げる。どうにか皮膚を噛んでいる虫だけは払いのけたが、柴田は足元に食いつく虫を踏みつぶすのに精一杯で、既に骨が剥き出しになっている犬を助けられそうになかった。

 ふと呻きが耳に入る。祖母の身体に虫が這い上がっていた。

(祖母ちゃん)

 犬を手放し、祖母の元へ駆け寄る。

 もう花も木も蝶も鳥も犬も、何もかもの美しい光景が黒に飲み込まれていた。

(祖母ちゃん)

 柴田は虫に飲み込まれていく祖母を助けようと藻掻いた。

(オレは祖母ちゃんを見捨てないよ)

 虫取りを教えてくれたじゃないか。川で裏山で走り回るあとを追いかけてくれたじゃないか。授業参観も運動会も、杖をついて来てくれたじゃないか。

(オレを大切にしてくれたんだから、必ず助けるよ)

 唐突に身体の自由が効かなくなった。無重力のように、駆けても前に進まない。それでも柴田は藻掻いた。――虫に覆われた祖母だけを視界に定めて。

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