第8話 悲劇の始まり

「青太郎くんの学校生活は、正直芳しくありません」

 茶を運んできた母親が席に着くやいなや、柴田は先手を打った。六畳ほどの質素な和室に、座卓を挟んで夫婦と向かい合っている。狭い室内は息苦しいが、相手の呼吸が分かるのは好都合だった。

「誰とも必要以上の会話は交わしませんし、業間や昼休みには、必ず教室から姿を消します。ただ恒常的にいじめを受けている様子は見受けられません。それに、昨年も同じように他人との接触を拒んでいたようだとか。――何かご家庭で気付かれた点はありますか」

 母親が目に見えて狼狽しだした。比べて父親は腕を組んだまま堂々としている。

「……あのう先生」額に汗を滲ませた母親が、おそるおそる問いかける。「確かに去年も、あまり学校では積極的やなかったと聞いてます。でも家では楽しくしてるんですよ。最近なんか――」

 父親が軽く片手を上げて、母親の言葉を止めた。柴田に強烈な視線を送ってくる。

「先生、それは、うちの教育に問題がある、ということですか」

「あんた、落ち着いて」

「はい、私はそう思っています」

 勢いよく父親が膝立ちになる。

「初めて家を訪ねてきて、よくもそんなことが言えますな」

「証拠があります」

 冷静に言い放った柴田に、父親が微かに身を引く。動揺しているのが手にとるように分かった。柴田は内心ほくそ笑む。――現実に口角が上がっていることには気づかぬまま、詰問を続けた。

「お母さん、昨年、虐待の疑いがあるとして、大人が大勢乗り込んできましたね?」

「それは、そうやけど。……でも全くの出鱈目やったんです」

「私もそう思いたかった。――けれど今、青太郎くんの身体に傷がついていたら?」

「まさかそんなこと……」

 母親は父親の顔を窺う。父親は馬鹿らしいというように首を左右に振った。

「……私、青太郎を連れてきます。本当やったら大変なことですから」

 襖を開けて飛び出していった母親の足音を聞きながら、柴田は目の前にいる男の鬼畜さに唇を噛んで耐えた。これから証拠が目の前に現れるというのに、憮然と腕組みをしたまま動かない。白を切るつもりなのかもしれなかった。

 五分ほどして、青太郎は母親の後ろについてやってきた。待っている間、何かを言い交す声が聞こえていたから、青太郎が拒んだのかもしれない。父親を守ろうとしたのだと思うと、胸が痛かった。

 青太郎は部屋の空気を読み取ると、観念したように柴田の隣に来る。夫婦に背中が見えるよう後ろ向きに座らせると、痛ましい現実を隠した布を、ゆっくりとめくり上げた。

(見ろ、あんたが傷つけた息子の背中を。本当はきめ細やかで、傷ひとつない真っ白な――)

 真っ白な、肌。

(真っ白な……)

 絹のよう、と形容するにふさわしいきめ細やかな肌。

 柴田の視界には、ただ白さだけが広がっていた。今まさに、目の前に。

(なんで、なんで)

 さらりとなぞった肌は、凹凸ひとつない。

「……お母さん、濡れタオルを」

「なんで――」

「持ってくるんだ! 早く!」

 飛び跳ねるように母親が席を立つ。いくらもしないうちに戻り、おずおずと濡れた布巾を柴田に手渡した。

 青太郎の背中を拭く。

(化粧品か何かしらの塗料か)

 傷を覆い隠しているであろう物質を必死で落とそうとする。鬼の所業を暴こうと擦り続けた執念は、しかし少年の薄い表皮を削って、赤みを浮かせただけだった。

「……もちろん、私らの育て方も完璧じゃない」

 低い声に誘われて顔を上げる。父親が立ち上がって柴田を見下ろしていた。

「でも子供に手を上げたことは一度もない。虐待なんて死んでもしない。……たった一人の息子です。必死で働いて、ご飯を食べさせてるんです。世の中には酷いことをする親もいるんでしょうけど、私らほど可愛がってる親はいません」

 先生、と今度は母親が口を開く。狼狽はどこへやら、朗々と声を上げた。

「本当に傷を見たんやろか? 先生は昨年、虐待で私らが疑われたと知ってらしたんですよね。思い込んでたんと違いますか? 青太郎は人と関わるのが極度に苦手だから、その原因を求めてたんやないですか」

 違う、と咄嗟に言い返せなかった。遠めに見た傷痕、夕闇に溶けた背中。写真のひとつでも残していれば、と後悔しても遅い。

 父親が青太郎を引き寄せる。両親の間に挟まれた青太郎は、どこか柴田を憐れむような視線を寄こした。

「……先生、僕は、誰にも虐待されたりなんかしてません」

 くらり、と柴田は畳に手をつく。毒剣が胸に突き刺さったように。

(……負けた、全部仕組まれていたんだ)

 まさに悲劇の大詰めだった。金箔のあしらわれた襖を背景に立つ家族三人と、地面に蹲る男。その光景は明らかに勝者と敗者をあらわしていた。

 父親は満足そうに頷くと、座ったまま項垂れる柴田に近付き、両肩に手を乗せる。

「まだ若いんだから、失敗は当たり前ですよ。気を落とさないで。誰にも言いませんから」その代わり、と二の腕をがっしり掴まれる。「息子のことを、今以上に気に掛けてやってください。先生のこと、すごく気に入っているらしいんです。この前も、イチゴを育てさせてもらえたって、家で飛び跳ねて喜んでましたから」

 この上ない賛辞であるにも関わらず、柴田は本当だと思えなかった。傷がなかった――たったひとつの事実が、これまでの青太郎のあらゆる言動を偽物にした。


 敗者は静かに葦原家を辞去した。空には薄雲が掛かり始めている。湿気を含んだ風が、群衆の囁きのように畑の作物を鳴らしていた。

 車まで戻って来た。運転席の窓に映った自分の顔を見る。

 気付いたときにはドアに思い切り拳を叩きつけていた。側面が僅かに凹む。もう一度叩きつけると血が付いた。さらに腕を振ると、右拳の傷が痺れるように痛んだ。

 背後から自分を呼ぶ声があった。青太郎だった。靴を履かず、裸足のまま駆けてきた。

「先生、ごめんなさい」

「……なんで謝るんだ。お前は何一つ悪くない」

 家庭内虐待を誤認したのは柴田だ。両親に無礼極まりなく敵意を剥き出した。そしてなにより青太郎を信じられなくなってしまった。彼もまた、被害者に違いないのに。

「先生は、悪くないです」

「いや、先生が悪いんだ。本当に許されないことだ。……でもご両親にチャンスをもらったんだ。これからは誰よりもお前のことを守ってやるからな」

「やめてくださいっ」

 鋭く張った声に、思わず瞠若する。青太郎が息を荒げていた。

「そんなこと考えないでください。また前と同じことになるから」

「前……何を言ってるんだ」

「先生」言いながら柴田の右手を両手で包む。「これから何が起きても、僕のことを心配しないでください。話し掛けたり、近寄ったり、家に来たりしないで」

 何を、と言いかけたのを遮る。

「見ててください、僕のこと」

 青太郎は両手で包んでいる柴田の拳に、祈るように額を当てる。

「僕、先生には嘘つきません」

 青太郎、と遠くで父親の呼び声が聞こえた。そっと額を離し、拳を解放する。姿勢を低くして駆け戻っていった。

 ――何が起きても、僕のことを心配しないで。

「何が、起きても」

 ぼんやり呟きながら、運転席に乗り込む。

 ――先生には嘘つきません。

 ブレーキを踏み、エンジンをかける。ギアをドライブに入れ、サイドブレーキを解除し、ハンドルにだらりと力なく手を乗せたところで、視点が右手に止まった。

(痺れてない)

 思うと同時、息が止まる。力任せにぶつけた右拳の血が止まっていた。――いや、血も傷も痕も、なにひとつ残っていなかった。

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