第6話 机上の血溜まり

 家庭訪問を翌日に控えた朝のことだった。

 四月も終わりに近付いたこの頃、胸のすくような初夏の晴天とはうらはらに、青太郎の状態は悪化していた。――柴田自身はそう思っていた。

 引っ掻き傷、薄い青痣、噛み痕のような点状の線……。柴田が確信を抱けないのは、遠目にしか見ていないからだった。服の隙間から覗く一瞬では、虫刺されや汗疹あせもの掻き傷と変わらない些細な痕にも見える。

 直接確認しないのは、昨年の前例があるからだ。青太郎は傷を指摘されれば、両親に言うだろう。言わなければさらに暴力を振るわれるに違いない。そして夫婦は準備する。一体どういう方法で傷跡を隠すのかは柴田の想像できるところではなかったが、考えも及ばない仕掛けで大人たちを待ち構えているのだと思うと、一層、葦原夫婦の周到さに腹が立った。

(清水先生も、こんな気持ちだったんだな)

 なにか決定的な証拠があれば――思いながら教室に踏み込んだところで歩みが止まった。

 空気が固まっている。誰もが動きを止め、声をひそめ、ある一点を見つめている。

 彼らの視線を辿った先に、静止画と見紛うほど直立不動の姿があった。

(青太郎)

 脳裏に名前が浮かぶと同時、眼は異様な光景を捉えて、瞬きを繰り返す。

 青太郎の机の上に、大小の赤い染みが飛散していた。ぬら、と鈍く光った液体の上に、ところどころ扁平へんぺいな物体が転がっている。一体何がと近付いてようやく、それらが甘い香を放っていることに気付いた。

 イチゴ、だった。十余りのイチゴの果実が、力任せに潰され、引き千切られ、机の上で無残な血だまりを作っていた。

 ――僕、がんばって育てます。

 青太郎は無言でしゃがみ、椅子の脚に掛かっている雑巾を手に取った。そっと机上に乗せる。まだ白さの目立つ雑巾に、鮮やかな赤が染み込んでいった。

 刹那、青太郎と目が合った。脳天を刺されたような痺れが走る。

 柴田は慌てて小物入れに向かう。引き出しからビニール袋を取り出し、潰れた実を入れるよう指示した。周囲は静止している。――沈黙と憐憫で二人を圧し潰しながら。


 一時間目の授業を、今朝の事件を解決する時間にあてた。

 青太郎を擁護し、犯人を非難する意見でクラス全員が一致したが、ならば何故、誰一人彼に寄り添わなかったのか。他人の心をおもんぱかれない非道ひどさを、柴田は汗を垂らして語った。

 業間休み、ひとりの女子が柴田に耳打ちをしてきた。五人ほどの男子グループが、青太郎の机を取り囲んでいるのを見た、と言う。

 結局そのグループは、柴田が呼び寄せると間もなく自供した。誰とも喋らないくせに堂々としているのが癪だった、どこまでのことをすれば反応するのか興味があった、という。彼らは青太郎が毎朝熱心に中庭へ足を運んでいると気が付いていた。元気がなく萎れかけていた株が、二週間あまりで、どの鉢より鮮やかな実を鈴なりにつけていたことも。

 彼らの最も大切なものを潰し、引き千切って机に並べてやりたい、そして衆人の沈黙を浴びながら独りで片付けさせてやりたい――そう思うのは異常だろうか、教師失格だろうか。

 柴田はあらゆる感情を押し込めて、懇々と彼らを諭した。他人の心を推し量るとは、なにも善人に限らない。罪を犯した者の軽薄さ、心の未熟さも理解してやらねばならない。

 柴田の熱のこもった指導に彼らは涙し、あるいは懺悔ざんげするように沈み込んで教室へ帰っていった。しかし昼休みの日差しの中で、全ての罪が洗い流されたかのようにグラウンドを走り回る彼らを見ると、全身の力が抜けてくずおれそうになった。


 職員室に戻る。待望のおにぎりにも手がつかず項垂れる柴田の肩を叩く者があった。校長だった。物腰が柔らかく、校内の雑務も率先して行うことから、子供たちにも教員にも祖父のように慕われている。いつもと変わらぬ笑い皺を見せる校長に、束の間、安堵した。

「頑張りましたね」

 そう一言だけ労うと、窓を指さして校長室へと戻っていった。

 柴田は立ち上がって、背後の窓に寄り掛かった。

 小道には細い日差しが射しこんでいる。じめじめと這うドクダミを辿った先に、青太郎が蹲っていた。手を土まみれにして、穴を掘っている。

 ふと小脇からビニール袋を取り出した。赤い肉片で膨らんだ袋。青太郎は袋の口を開け、赤い汁と肉片を穴に注いだ。それから今しがた掘った土をたっぷりと被せる。土饅頭どまんじゅうのように盛り上げたそれを、青太郎は俯いたまま眺めていた。


 帰りがけ、夕闇の迫った空の下、駐車場へ向かっていた。手には萎れたスイートピーを握っている。適当に切って花瓶に差しただけなのに、よく保ったな、と思う。今日柴田が枯れているのを気付いたときには、花瓶に水は一滴も残っていなかった。青太郎に神経を奪われて、水やりを完全に忘れていたのだ。記憶を辿れば、最後に水をやったのは一週間も前だった。

 青太郎と同じように、どこかに埋めようかと辺りを見回していて足が止まった。グラウンドを挟んだ向こう側――ウサギ小屋の前に、小さな背中が座り込んでいた。

 距離があった。疲労に苛まれていた。しかし行くべきだと思った。もう暗いから帰りなさいと注意するためではない。――そこにいるのが青太郎だと直感したから。


 果たして背凭れのない簡素な木のベンチには、青太郎が座っていた。膝を抱え、背中を丸め、目前の金網の向こうで身じろぎひとつしないウサギを見つめている。

 青太郎、と呼びかけると、彼は肩をびくりと上下させて振り向いた。立ち上がり、逆光で黒い柴田の顔を、目を細めて凝視した。柴田が笑い声をたてると、ようやく誰か判別できたようで、「柴田先生」と息を吐いた。

 隣に座ってもいいか、と訊く。頷いたのを見て一緒に腰掛けた。座る一瞬、青太郎は目元を拭ったように見えた。微かに白目が赤らんでいる。泣いていたせいか、夕陽の残光のせいかは分からない。

「もう帰ります」

「いや、𠮟りに来たんじゃない。何をしてるのか気になってな」

「何って、ウサギを見てたんです」

 それ以外に何が、と問いかけるような表情に、軽く噴き出す。

(イチゴのときもそうだったな)

 どうしても、青太郎を同年代の子供とは違うように見てしまう。教室に座っているだけでも、イチゴやウサギを眺めているだけでも、何か深い思考を働かせているのではないか、と。

「もう駄目です」

 唐突な呟きに、え、と聞き返すと、真っ直ぐ金網の奥を示される。

「あのウサギ、もう死にます」

 柴田は立ち上がって、金網に手を掛けた。顔をつけて、先刻から同じ場所に蹲るウサギを凝視する。微かに痙攣しているのが見てとれた。

「昼休みにいっぱい食べさせられてました。雑草、パン、チューリップ……校長室の前のシクラメンもです。そこら中に欠片が落ちてました」

「大変だ、早く病院に連れて行かないと」

「もう手遅れです。ウサギは吐かせられないし」

「だとしても、とにかく助けないと」

「……助けたら、また小屋の中に入れられます」

 ふと寂し気な声を吐き出した青太郎を、まじまじと見つめる。――彼の言わんとすることが知りたい。そっと隣に座り直して、言葉を待った。

「……こんな狭い小屋に入れられて、与えられたものだけを食べて、見られて、悪戯されて、最後には死んじゃうんです。そりゃ病院に連れて行って、治ったら苦しみは取れるかもしれないけど、またここに戻ってこなくちゃいけません。……先生はそれがいいと思いますか」

 ――試されている。

 柴田の脳内に轟音が渦巻いた。同時に、全身に微かな痺れが走る。

「……いいとは思わない」でも、と低く唸る。「それは必要なのだと思う。……僕らは学校でウサギを飼ったり、イチゴを育てたりして、命の尊さを勉強するんだ。愛情を注いで、成長を見守って、儚い最期を見届ける。観賞される生き物だけじゃない。食べ物にされる生き物だってそうだ。人は生きるために、他の命を犠牲にしなきゃならない」

 青太郎は微かに頷く。共感されていることに、柴田は胸を撫で下ろした。

「だから感謝するんだ。動物を大切に育てる、植物をむやみに千切ったりしない、食事の前には『いただきます』と言い、終われば『ごちそうさまでした』と感謝する。子供のときからそうしていれば、大人になったときに、他の生き物の気持ちを考えられる。優しい人間になれる。青太郎だって――」

 言いかけた口が閉じる。青太郎が目を逸らしていた。

(どうして、俺はどこで間違ったことを言った)

「……先生はやさしいですね、やさしくて――」

 青太郎はその先を言わなかった。沈黙に耐えられず、柴田はむやみに明るい声を出す。

「何言ってる、青太郎の方がうんと優しいじゃないか。……先生知ってるぞ、イチゴのお墓を作ってたこと。植物を大切に育てられて、ウサギの気持ちを考えられるヤツは、本当に優しいよ」

「違う、違います。優しくなんてありません。僕は……僕は化け物ですから」

 そう言い切って青太郎は黙した。顔を手で覆う。

(何がお前をそこまで卑下ひげさせるんだ、どれほど歪んだ教育を受けてきたんだ)

 他人との接触を極端に嫌う、まるで自分が汚らわしい生物のように。

「……先生な、青太郎が前の学校でも、独りでいたって聞いたんだ。色んな大人が心配して、家にまで乗り込んできただろう? そのときは何もなかったそうだが。……でも先生は、やっぱりお家で何か問題があるんじゃないかと思ってるんだ」

 だから、と青太郎の方に身体を向ける。

「身体に傷がないか見せてくれないか」

 青太郎の肩がぴくりと強張る。

「絶対に怒ったりしないから」

 青太郎の上衣の裾を持ち上げる。身体は防御するように固まっていたが、抵抗はしなかった。そっと背中を露わにする。

 顔を顰めた。茨に寝転んだような無数の傷痕。真っ赤な夕陽に染まった肌は、拷問に耐えた大罪人のように痛々しく憐れだった。

「これは、畑を手伝ってて――」

「もういい、大丈夫だ」

柴田は涙を滲ませながら、青太郎の背中を擦ってやる。

「お前は、優しいよ……」

 両親を守るために、頑なに嘘をついていた。

 子供は純粋だ。あまりにも純粋で、時として巨悪にも素直に従ってしまう。

 宥めるように頭を撫でる。

(大丈夫、もう大丈夫だ)


 青太郎はじっとされるがままだったから、柴田の方が落ち着くまで時間がかかった。手を離し、取り乱した自分に苦笑する。あたりには濃い闇が押し寄せていた。

「……明日、午後一番に家庭訪問に行く。それまで、先生が傷を見たことを黙っていてほしいんだ。今夜一晩だけだ。お前を救いたい。できるか?」

 そのとき唐突に、かさり、と小屋の中が揺れた。金網の向こうに目を凝らす。どうやら先刻まで苦しそうに蹲っていたウサギが身体を動かしたようだった。ウサギは後ろ足できょとんと立ち上がり、耳をそばだて、こちらを一瞥すると奥の寝床へ身軽に跳ねていった。

「……驚いた。青太郎が近くで見守ってくれたからだな」

 青太郎の反応はない。口元は微かに笑っているように見えたが、じっと前を見据える瞳からは、何の感情も窺えなかった。

「もう帰ろう、な?」

 肩を叩いてみるが動かない。

 柴田はなぜか立ち上がって、一歩距離をとった。身じろがぬ少年を俯瞰する。

 ――僕は化け物です。

(青太郎、葦原青太郎だ、ここに座っているのは)

 夕闇が赤みを失った。夜が始まる。

 足が痺れるほど長い沈黙の末、父が迎えに来るので待ってます、と回答があった。

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