第5話 消える男たち
柴田はそこまでの詳細なメモを読み終え、その下の空白に
「信じられない」
高橋が語った
突入した彼らは、夫婦の制止を振り払い、強引に二階へ駆け上がった。保護の準備はできている。どんな酷い状態でも、と覚悟した彼らの眼に映ったのは、しかし、ベッドで半身を起こし、本を読んでいる
青太郎は部屋に飛び込んできた大人たちにキョトンとしている。清水が近寄ると「あ、先生」とごく自然な笑みを見せた。清水は青太郎の上衣を強引に脱がせた。微熱で汗ばんだシャツの下に、傷ひとつない白い肌が露わになった。
(子供たちも、いや教師だって青太郎の傷を見たんだ)
柴田自身も、確かに爪痕を見た。
「痣は一日や二日では完全に消えない。そんなの人間じゃない、まるで――」
続けようとした言葉は、青太郎の声で脳裏に再生された。
(僕は化け物なんだろう)
柴田は首を振って、自身から湧き出た妄言を振り払う――振り払おうと努めた。
職員室の壁時計に目をやる。夜八時を回っていた。
柴田は受話器を取り上げ、高橋の携帯電話に掛ける。万が一を思って聞いておいたのだ。
彼女は幸い、職員室に残っていた。
「何度も済みません。夕方の話がどうしても気になって。……清水先生はいらっしゃいますか? 直接お話を伺いたいのですが」
高橋は「ああ……」と気まずそうな声を出す。
「実は清水先生は先月退職されたんです」
「先月……これまたなんで」
「実家の都合と聞いているんですが、ご家族とは絶縁状態だったという噂もあって、詳しいことは誰にも分からないまま……。連絡も取れず、引継ぎも出来ていないし、校長先生や教頭先生もお手上げ状態で。万が一も考えてご家族は警察に届けを出してらっしゃるんですが、事件性も薄いとのことで、熱心な捜索は行われていないようです」
「年もお若いのに、心配ですね」
「はい。清水先生、あの一件以来ふさぎこんでしまっていたんですけど、青太郎くんが何事もなかったように接してくれて救われていたんです。二月頃も、来月は青太郎くんの家の畑の手伝いに誘われたんだ、と嬉しそうに言っていました。葦原さんへの罪滅ぼしの機会を待ち望んでたんでしょう」
「そうですか……」
それなら、と柴田は続ける。
「高橋先生の前――つまり青太郎くんが一年生のときの担任の先生に話を聞くことはできないでしょうか」
「ああ、菊田先生ですね。それなら連絡を取ることはできると思います」
実は彼は大学の先輩なんです、と高橋は声を弾ませる。
「サーフィンサークルで知り合ったんです。私は合わなくてすぐに辞めてしまいましたけど、彼は続けていて。教師になってからも全身真っ黒に焼けていたんです。暇さえあれば海に出ているらしくて――」
「懐かしい思い出がおありみたいですが、連絡の方を……」
「あ、済みません」
高橋は恥じいった様子で電話を切った。
それから五分もしないうちに、電話のベルが鳴った。先ほどとは一転して、沈んだ声音が響く。
「あの、前の学校には繋がったんですが……今はいないそうです」
「どこの学校に」
「いえ、青太郎くんが私のところに来る前に教師自体を辞めていて、現在は所在が分からないそうです」
本当にどこへ、と心配げな声を聞きながら、ふと浮かんだことを訊いてみる。
「失礼ですが、菊田先生のご家族の様子は分かりますか? 御両親や御兄弟のこととか」
「……それが、何か関係あるんですか」
「いやいや、単なる興味です」さらに訝しんだ高橋に、仕方なく最終手段を使う。「もしかして、菊田先生とは良い仲だったのでは?」
何も返答はない。当たりだ。
「いやあ、下世話な話で申し訳ない。なかなか同じ職場での出会いを掴めないもんで。ほら、我々は年も近いし、そうお給料も変わらないでしょう。でも男として主導権は握っておきたいというか……いやほんと時代錯誤の考えもいいとこですが、何か菊田先生のお家が御立派だったり、裏でこっそり稼いでらしたり――」
「彼はそんなことしていません」高橋はきっぱりと否定の意を示す。「彼のご両親は早くに他界されていて、兄弟もいないんです。学校に行きながら祖母の介護に明け暮れて、独りきりでどれだけ頑張ってきたか……。とっくに私には関係ありませんけど、そう邪推されるのは良くないと思います」
失礼します、とぶつりと電話が切れる。
慣れないことは疲れる。しかし、と柴田は無意識に頷く。一人の信頼を失って得た情報は、それなりの価値をもたらしたようだった。
(独り身、若い男、退職)
その断片からは何も結びつかない。萎れた花弁を渡されて、誰が花を枯らしたのかと問われるような、途方もない推測だけが渦巻く。
柴田は時計をちらりと見遣って、荷毎朝、鏡を挟んで向かい合う若い男と、柴田はしばらく見つめ合っていた。
真っ暗な運転席のガラスに映る孤独な男。
毎朝、鏡を挟んで向かい合う若い男と、柴田はしばらく見つめ合っていた。
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