第4話 肉団子

「情報が必要なんだ、情報が……」

 柴田は半分電気の消えた薄暗い職員室で、淹れたばかりのコーヒーを片手に、机に広げたノートに向かって溜息を吹きかけた。ノートには、クラスの児童一人ひとりの趣味や好きな食べ物、交友関係などが書き込まれている。すべて彼ら自身が話してくれたことだ。

 新しく後ろに追加した青太郎せいたろうのページには、先日まで「植物図鑑を読む」としか書かれていなかった。それが今は、長々しい箇条書きで隣のページを侵食しつつある。

「情報が、必要なんだ……」

 そう繰り返す柴田は、既に情報を手に入れていた。しかし溜息は止まらない。知りたかった情報が無意味だったのではない。むしろ柴田の聞いていた噂と合致するものだった。それでも――。

「これが本当なら、俺は青太郎の傷をどう証明すればいい……」

 カップを握ったまま、だらりと腕を机に伸ばす。ノートに額を乗せた。

(駄目だ、こんな弱気では)

 命の尊さを教えるために教師になった。人だけでなく鳥や草花にも大切な命が宿っている――敬愛していた祖母の教えを頼りに、必死で勉強してこの職業を選び取ったのだ。

 ――弱くてもいいの、優しければ。

 祖母は晩年、口癖のようにそう呟いた。縁側に座って、美しい菜園を眺める無表情を、柴田は明確に覚えている。微かに聞こえてくる祖母の呟きを耳にするたびに、首を傾げていたことも。

 丈夫な苗を選んで見事に育った野菜、色彩豊かで匂やかな花、樹齢百年を超える庭木には頬の赤い可愛らしい鳥がさえずり、道端に捨てられていたという雑種の犬は、毛並みを立派に整えられて、柴田少年の周りを元気に跳ねまわっていた。

(なぜ弱くてもいいんだ、祖母ちゃんは強いのに)

 命を大切に、自然と一体に生きる祖母を誰もが褒めたたえた。それでも祖母は頑として無表情を貫いた。弱くてもいい、と庭に向かって呟きながら。

「……でも誰かを助けるには、強くなきゃ」

 きっと祖母は強さを求めていたのだ、と思う。どういう意味での強さかは、今となっては推し量るしかないが、確かに祖母は、何かに満足できないまま暮らしていたのだ。

(俺が、強いところを見せてあげるから。祖母ちゃん、見ててくれ)

 ふう、と熱ばった息を吐いて起き上がる。何度目か、手帳の文字を読み直し始めた。


 柴田が縋ったのは、昨年青太郎の担任をしていた高橋という若い女性教師だった。彼女とは先月に一度、電話で話している。四月から青太郎くんをよろしくお願いします、という事務的な挨拶だったが、よくよく思い出してみると、彼女の声に名残惜しさは微塵もなく、どこか憑き物でも落ちたかのように晴れていた。

 下校が済み、職員会議が終わると、すぐに空き教室にこもって電話を掛けた。事務の女性に取り次いでもらうと、少々間を置いて電話口から声がした。

「青太郎くんのことなんですが」

 単刀直入に切り出すと、高橋は明らかに緊張した。息が浅くなり、言葉も濁り始める。

(当たりだな)

 柴田は思い切って核心に触れてみることにした。

「実はそちらの学校に知り合いがいまして、先月、青太郎くんが転校すると決まったときに、ある噂を聞いたんです」

「……噂、ですか」

「はい。なんでも、青太郎くんが家庭内で虐待を受けているとして調べたところ、全くの事実無根だったとか。御両親もご立腹だったようで、たいそう謝罪なさったと聞きました」

 高橋はひとしきり無言で考え込むと、観念したように口を開いた。

「……はい、確かにそれは事実ですが」

「そのときの状況を詳しく教えていただきたいんです」

「それは出来ません。あれは全て私たちの落ち度ですから。御両親の名誉を傷つけてしまったんです。あの件については今後互いに話さないという条件で納得していただいたので、いくら現在の担任の先生でも――」

「青太郎くんの身体に傷があっても、ですか」

 え、と高橋は言葉を詰まらせる。

「これは相当根深い問題かもしれませんよ」

 どうか話してほしいと柴田は懇願する。高橋は電話を置いて逃げ去ったのではないかと思うほど長い沈黙の末、私から聞いたとは言わないでくださいね、と前置きして話し始めた。


 高橋が青太郎に違和感を覚えたのは、一年前の春――青太郎が転校してきた直後からだった。やはり周囲に馴染まず、休み時間のたびに姿を消したという。

「待ってください、去年もそちらの学校へ転校してきたんですか」

「はい、葦原さん一家はよく引っ越しなさるそうです。私も最初は、お父さんが転勤族なのかと思っていたんですが、農家と聞いて驚きました。どうも腑に落ちなかったんですけど、必要以上に家庭の事情を詮索することもはばかられて、深くは訊かなかったんです」

 問題は青太郎の学校生活だけ。もちろん友達を作って楽しく生活できるに越したことはないが、これだけ短いスパンで引っ越しを繰り返していれば、どうせまた引っ越すのだから、と不貞腐れる気持ちも分かるような気がした。

「それにしても、周りと距離を取るのが不思議でした。クラス内に苦手な相手がいるわけでもなく、教室が息苦しいということでもなさそうで。――なんなら教室以外の場所では、子供たちや私とも喋っていたんですよ。時々ですが、笑顔を見せることもありました」

「他の子と……こちらではまだ子供たち同士では会話してませんよ」

「本当ですか? ただ昨年も、青太郎くんから進んで話し掛けることはありませんでした。こう、なんというか、話したいのに抑え込んでいる感じで。誰かと話すときも物陰に隠れていましたし、何を話していたか訊いても、内緒話だから先生には教えられない、と言うんです」

「なんだか盗聴でもされているような感じですね」

 柴田は冗談っぽく笑い含みに言ったが、高橋は「ええ」と真面目に相槌を打った。

「盗聴はないにしても、強制されているという印象は受けました。思えばそのあたりから、親御さんを不審に思うようになったのかもしれません」

 ともかく小学二年生のこと、幸いクラスメイトを排斥するような風潮もなく、むしろ子供たちは、青太郎の気を引こうと躍起やっきになっていた。教室がこういう雰囲気ならば、青太郎も態度を変えるかもしれない――微笑まし気に見守っていた矢先、事件が起きた。

「教室でザリガニを飼育していたんです。授業も兼ねて近所の川へ捕りに行って。……それがある日の昼休み終わり、水槽の中で全て死んでいたんです」

「急に? 水質とか、餌やりの問題ではなく――」

「違います。こう……潰れていたんですから。殻も中身も一緒くたの、赤黒い団子状に」

 柴田は絶句する。許容を超えた恐怖を放散するように、片足が勝手に貧乏ゆすりを始める。

「その日の昼休みは、珍しく教室に青太郎くんが残っていて……」

「まさか、青太郎くんのせいになったと」

 高橋は無言で肯定を示す。

 命を奪うという行為は、幼い子供たちにとって大悪に他ならない。それも大切に育ててきたザリガニを肉団子にしたのだ。寡黙な転校生は、直ちに罪人の烙印らくいんを押されることになった。

 高橋は子供たちをなだめようとした。根拠なく人を疑ってはいけない、失われた命は元に戻らないから、今は犯人探しではなく、ザリガニを丁重に葬ってあげよう、と。

 しかし無念にも、高橋は子供たちから十分な信頼を得ていなかった。「若くて優しい女の先生」の言葉は瞬く間に掻き消され、青太郎の疑わしい行為が列挙された。ときどき水槽をあやしい眼で覗き込んでいた、今日は昼休みに一人で教室に残っていた、そういえば花壇の前に座り込んでいるのを見たぞ、花が急に枯れたとも聞いた、あいつは休み時間になるとどっかへ行く、全て青太郎がやったんだ――。

 止まらない蜚語ひごの中で、多くの子供たちが「青太郎の身体にアザがあった」と証言した。上級生と喧嘩した痕だとか、普段から暴力をしている傷だ、などと抽象的な憶測が飛び交ったが、実際に現場を見た者は皆無だった。

 高橋は、虐待だ、と直感した。家庭内で虐待を受けており、そのストレスからか、歪んだ教育からか、異常な行動を起こしたのだと。

「……根拠なく疑うなと子供たちに言っておいて、私も心の中では青太郎くんがやったのだと決めつけていました。教師として……大人として未熟ですよね。でもあのときは、そうとしか考えられなかったんです」

 さてどうすればいいのかと混乱し始めた高橋のもとに、救世主が現れた。二年生のもう一クラスを受け持つ、清水という、これまた若い男性教師だった。

 清水は、青太郎が泣きついてきたことを告白した。僕はやっていない、でも周りが自分のせいだというなら、やっぱり僕は化け物なのだろう――そう言ったらしい。

 青太郎がそこまで追い詰められていたことに胸が張り裂けそうになると同時に、担任として信用に足らなかった自分が悔しくてたまらなかった。

 清水は青太郎の身体の痣を目視で確認したという。それを青太郎本人に告げた翌日、葦原家から、息子が体調不良で欠席する、と連絡があった。もう間違いなかった。児童相談所と連携を取り、ちょうど家庭訪問の時期だったことから、まずは高橋が葦原家を訪問して、夫婦の様子を直接確認することになった。

「こんな恥ずかしい話はありませんけど、怖かったんです。もし虐待が本当で、図星を突かれた親御さんが逆上したらと思うと……。それで清水先生に代わってもらうことにしたんです」

 青太郎から頼られなくて自尊心が傷ついたからでは――とは口が裂けても言えるはずはなく、柴田は「分かります、怖かったでしょう」と機械的に声帯を動かした。

 さて、葦原夫婦は清水を丁重に迎え入れた。学校での様子を説明し、あまり協調的ではない部分に懸念があると伝えると、二人は子を案じる親の顔になって、清水に家庭での接し方についてアドバイスを求めたりした。

 清水は葦原夫婦をクロと見ていたので、彼らの振る舞いは、むしろ周到な演技として余計癪に障った。どこかでボロが出ないものか――根気よく粘った甲斐は、帰りがけに突如舞い降りてきた。

「青太郎くんの顔だけでも見て帰ろうかな」

 途端、夫婦の顔色が変わった。「今は眠ってます」「酷い風邪だからうつしちゃまずいんで」「先生がいらしたことを伝えておきますから」そう言って玄関から追い出そうとする。

 清水は咄嗟に青太郎の名を大声で呼んだ。何を急に、と怒りを露わにする夫婦をよそに、二階の方から何かを叩く乾いた音がした。だん、だんと続く音の合間に、ぎり、ぎりと引っ掻くような音が混ざる。

 助けを求めていると確信した。しかし大人二人の腕力には敵わず、清水は一旦、玄関から締め出された。

 清水は庭の影に隠れて家の様子を窺っていた。階段を大急ぎで駆け上がる音、ぴしゃりと打つ音、獣が嚙み砕くような破壊音。痛ましい異音がひとしきり続いて、清水は二階の窓に映った影に目を瞠った。手、だった。擦りガラスに手のひらがびったりくっついている。苦しみを訴えるようにへばりついたそれは、ずる、ずると落ちて下に消えた。

 警察、児童相談所、高橋ら学校職員を呼び寄せ、一同は葦原家に突入した。

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