第3話 傷跡

 中庭に出ると、青太郎せいたろうは早くも柴田の意図を察したようだった。校舎の壁に沿ってずらりと並べられたミニプランターの前に座り、植わっているものを興味深げに眺めている。

「――去年から育ててるんだ。ひとり一株。何か分かるか?」

「イチゴですね」

「よく分かったな。やっぱり植物に詳しいんだな」

「だって実がついてます」

 言われて覗き込むと、確かに緑色の小さな実がぶら下がっていた。青太郎は、何を見て分かることを訊いてるんだ、という風に見返してくる。柴田は声を上げて笑った。そう、青太郎は小学三年生なのだ。自分は、どうも他人をこうだと思い込むと、色眼鏡で見る癖があるらしい。

 困惑したような視線に気付き、コホンと咳をして真顔に戻る。

「そう、これはイチゴで、うちの学年は去年から皆ひとつずつ育ててるんだ」それでな、と柴田はプランターを見て回り、ひとつだけ名前シールの張られていない鉢を指し示す。「これは先生が予備に育てておいたものなんだが、どうだ、青太郎も育ててみないか」

 そのとき僅かに青太郎の目が光った。頬を微かに紅潮させながら、近寄ってくる。プランターの前に座り込むと、「これを、僕が」と声を弾ませる。

「ああ。でもちょっと発育が悪いから、たくさん実はつかないかもしれないけど。毎日様子を見に来られればいいんだが、忙しくて気が回らないことがあって――」

「僕、がんばって育てます」

 柴田の弁明などそっちのけで、青太郎は鉢の前に座り込んで背を弾ませていた。その姿に、思わず口元が緩む。教師という職を選んで良かったと思うのは、まさにこういう瞬間だ。植物を(命を)大切にできるのは優しい子だ――そう思うと同時に、例の噂が頭をよぎった。

(今なら自然に訊けるだろうか)

「……お父さんお母さんに、上手く育てるコツを聞けたらいいな」

 弾んでいた背が、はた、と止まる。

「ご両親は農家らしいじゃないか。もしかすると、イチゴも育てていたりするのかな。今年から理科が始まるから、良ければ授業に来てもらったり……」

 柴田は語尾が萎んでいくのを止められなかった。青太郎がじっと、こちらを見つめている。初日と同じ、寂しげな眼差し。溢れそうな何かを力ずくで抑え込んでいるような、口元の強張り。

 青太郎は立ち上がって、大人の笑みを顔に映し出した。

「イチゴは作ってません」

 昼休み終了のチャイムが響く。青太郎は背を向けて昇降口へと歩いていった。


 職員室に戻った。力なく五時間目に必要な教材をかき集めていると、隣の席で慌ただしい物音がする。柴田とふたりで三年を受け持つ、幸崎こうさきという女性教師だった。栄養不足が心配になるほどの瘦身を見て、ふと青太郎の姿が過る。同時に、彼女が図書委員会の担当であったことを思い出した。

「幸崎先生、ちょっといいですか」

「はい、はい、なんでしょう」

 彼女は律儀に手を止めて柴田を見る。

「昼休みに図書室へ行ったんですが、委員の子がいなかったんですよ。確か今年の委員会が決まるまでは、去年の五年生の中で担当を決めていましたよね。天気が良かったのは分かりますが、サボらないように伝えてもらって――」

「ああ、ごめんなさい。違うんです、違うんです」

 柴田は首を傾げる。

「私が悪いんです。そう、別の子に代わってもらうのをすっかり忘れてました」

「というと……」

「今日当番の子は、体調を崩して休んでいるんです。ひとり二日ずつの担当なんですけど、昨日の午後から頭痛が酷かったらしくて、やっぱり今日は欠席したみたいです。ごめんなさい、うっかりしていて。別の子に代わってもらわなくちゃいけないとメモまでしたのに、そのメモの存在がすっかり頭の中から飛んでて……」

 五時間目開始のチャイムが鳴る。二人は慌てて職員室を飛び出した。


 廊下を早歩きで急ぐ。小学校の校舎は大人の身体には小さいから、走ると危ないということは、一年目に身に染みた。

 教室の前で立ち止まる。上がった息を整えていると、ふと青太郎の声がよみがえった。

 ――今日は図書委員が来ませんから。

(なぜ来ないと分かった)

 姿を現さない理由はいくらでもあるはずだ。遅刻、ど忘れ、欠席、柴田が間違えたようにサボったと思うのも自然だろう。しかしどの場合でも、今日は来ない、と断言できるだろうか。そもそも「今日は」と言えるのは、別の日に図書委員が来ていることを知っていたからだ。

 青太郎は昨日も図書室を訪れていたのだろうか。そして頭痛にさいなまれる子供を見て、次の日は欠席するだろう、と読んだのだろうか。

 柴田はドアに手を掛けたまま開けられないでいた。擦りガラスの奥からは、先生はまだかという奇妙な昂揚をともなった喧騒が聞こえてくる。

(怖いのか、八歳の少年が)

 周囲を拒絶する振る舞いと、無邪気に背を弾ませる姿。どちらが本当の彼だろうか。その判断がつかないのは、教師としての未熟さゆえなのか。


 さらに一週間が経った。

 教師三年目にして、最も神経の張り詰めた日々だった。

 教室での青太郎の態度は、依然変わらなかった。もう誰も、転校生へ好奇を見せる者はいなかった。ただ柴田だけは、以前より青太郎を注意して観察するようになった。噂の真偽も知りたかったが、それより、あの昼休みの失敗を取り返したかった。

 その日の四時間目は体育だった。腹を空かせているのと、思い切り身体を動かしたいのとで、三時間目が終わるやいなや、男子たちは女子の退室を待たずに着替え始める。

 柴田は、青太郎が一緒になって着替え始めていることを意外に思った。誰に合わせることもない性格だと思い込んでいたからだ。(体育が好きなのだろうか)ふと過った淡い期待は、雷鳴のような衝撃に掻き消される。

(あれは……傷か?)

 青太郎がインナーシャツを脱いだ一瞬、横腹に引っ掻き傷のようなものが見えた。線状に鋭く三列、赤茶けたミミズ腫れが膨らんでいる。

 青太郎は体操服を着ると、他の集団に紛れて、そそくさと教室を出ていった。

(……わざと慌ただしいときに着替えたのか)

 人がいなくなってから着替えるより、紛れた方が注意を逸らせる。柴田は青太郎の消えた方を横目で見ながら、やはりあの噂は本当だったのか、と机に突っ伏す。

(これは、俺の手に余る)

 先生居眠りしちゃダメだよ、と背中を叩かれた。

「……居眠りじゃない、考え事だよ」

「じゃあオレも算数のとき『考え事』しようっと」

「こら、授業中にやったら、おうちの人に報告するからな。もうすぐ家庭訪問だ」

 やだこないでぇ、と叫びながら、教室に残っていた男子が一斉に廊下へ飛び出していく。

(そうだ、来週から家庭訪問が始まる)

 新米だからと弱音を吐いてはいけない。子供たちを育てるため、そして命の尊さを教えるために、覚悟を持って教師になったのだ。

 静寂の教室に並んだ三十余りの机を見渡しながら、柴田は拳を握り締めてひとり頷いた。

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