第2話 発見

 葦原あしはら家は三月末に隣市から越してきた。引っ越しに伴う転校は、ごくありふれたことだが、引っ掛かったのは、引っ越した理由が見当たらないことだった。

 もちろん葦原夫婦から説明は受けている。小児喘息を患う青太郎のために、空気の良い田舎へ引っ越したかった、というのが彼らの言い分だ。

 しかし、お世辞にも隣市は都会とは言えない。それどころか、隣市とは何かにつけて県内最下位を争うような関係だった。一体引っ越したところで何が変わるのか。柴田はどうしても気になって、春休み中に葦原家が以前住んでいた村を訪れてみたが、田畑に囲まれた自然豊かな田舎だった。不便というなら分かるが、空気が良くないという理由でこの場所を捨てるなど、柴田には考えられなかった。

 夫婦が農業を営んでいることも、引っ越しとそぐわない気がする。専業農家だというから、相応の土地を持っていたはずだ。汗水流して耕した土地を捨て、真新しい土地を開墾する労苦を考えると、そう簡単に引っ越しを選択するのは不審に思える。


「……でも、問題が別にあるとすれば合点がいく」

 柴田は手製の鮭おにぎりを頬張りながら、誰にともなく呟いた。

 昼食後のこの時間が好きだった。職員室の窓際の自席に座りながら、給食では埋められなかった腹の隙間を、無骨に握った米で満たしていく。毎朝寝ぼけまなこで握る自分の姿を思い返すと切なくなるが、それでも昼休みになるたびに、苦労が報われた、と大仰な喜悦きえつに浸るのである。

 窓の外にはプールと校舎を隔てる垣が真っ直ぐ続いている。校舎と垣に挟まれた狭い通路は土が剥き出しで年中じめっとしているが、陽が中天にかかる僅かな間だけ陽光が降り注ぎ、香ばしい土の香りが立ち昇った。

「今年も咲いてくれよ」

 ドクダミの蔓延はびこる通路に、毎年どこからともなくスミレが咲いた。日陰を好む種もあるのだ、と教えてくれたのは校長だったか。そのときは曖昧に納得したが、日向でしか咲かない種が昼間の僅かな陽光で花を咲かせているとしたら面白い、と最近は思うようにしている。


 柴田はあっという間に翳ってしまった窓の外から目を離し、机に向かう。

 最初の一週間が過ぎた。

 危惧していた通り、青太郎せいたろうは周囲と馴染もうとしなかった。好奇心に駆られて声を掛けた子供は多い。しかし青太郎が無反応を貫いていると分かると、皆、彼と距離を置くようになった。

 青太郎は機械的に学校生活をこなした。そして業間や昼休みには、必ず教室から姿を消した。人目を避けるように抜け出て、どこかへ去っていく。

 どこそこで青太郎を見た、という子供は多かった。中庭、校舎裏、空き教室――神出鬼没に現れ、誰かに見つかると別の場所に素早く移動する。校舎内のどこかに用があるわけではなく、とにかく他人との接触を避けているらしかった。

 柴田も昼休みになるたびに探してはみるが、案外学校の敷地は広くて見つけられない。

(無理に引っ張り出すのもな)

 とりあえず真意を聞きたかった。原因が分かれば、解決方法も模索できるはずだ。

(こう捕まらないと、時間を取って面談するしかないか)

 職員室を出た柴田が、いつものように校舎内を歩き回っていたときだった。廊下を歩く柴田の右半身に、静電気のような痺れが走った。右方向に身体を向ける。半開きのドアの奥――本棚に囲まれた机に、待ち望んでいた姿があった。柴田は思わず「おおっ」と歓喜の声を上げた。


 青太郎は図書室に独りきりで座っていた。目の前に広げた大判の本が、小さい身体を一層小ぢんまりと見せる。青太郎は柴田の姿を認めたが、逃げる素振りはなかった。

「ここにいたんだな。嬉しくて思わず声が出たよ」

「先生も僕を探していたんですか」

「ああ。他の奴らも探し回ってたみたいだな。……見つけてほしくなかったか?」

「いえ。でも、嬉しいと言われたのは初めてです。みんな、見つけるだけで用はないみたいだから」

「そんなことはないだろう。皆、青太郎のことが気になってるよ。――今日はどうして図書室に?」

「今日は図書委員が来ませんから」

 柴田は貸出カウンターを見遣る。サボりだろうか、確かに誰もいなかった。天気の良い日だから、本を読んでいる児童も見当たらない。

「ひとりになりたかったってことか?」

 青太郎は曖昧な笑みを返す。大人の紛らし方だった。

 柴田は内心苦笑する。なかなか手強い。しかし自然に会って二人で話せる機会など、そうそうないだろう。少しでも青太郎の言葉を引き出したかった。

「ずいぶん分厚い本を読んでるな」

「植物の図鑑です」

「先生が手続きしようか? 借りてしまえば図書室まで来なくて済むだろう」

「教室で読んだら変に思われるから、ここが良いんです」

 どうせ他に借りる人はいないので、と冷淡に言い切る青太郎に、柴田は少々面食らった。案外よく喋る。教室で見ている限り、寡黙かもくだと思っていた印象が一変した。

 柴田は思い切って「見せたいものがあるんだが」と後をついてくるよう誘った。何と言って拒否されるか身構えていたが、青太郎は「はい」と本を閉じて立ち上がった。あまりに素直な調子に拍子抜けしたものの、他人と何が何でも関わらない、というわけではないのに少し安心する。


 二人は森閑とした廊下を歩く。晴天の昼休み、校内に児童はほとんど歩いていない。

「ずいぶん教室とは印象が違うな。その……皆とは喋らないのか」

 肯定とも否定ともつかない上目遣いが返ってくる。

「秘密でもいい。でも教室に居辛い理由があるなら教えてほしい。あと四年、一緒に生活していくんだからな。問題は早く解決しといたほうがいい」

 別に隠してるつもりはありません、と青太郎は手をぶらぶらさせて、拗ねたように足を速める。その子供らしい仕草に、柴田は初めて心から安堵を覚えた。要するに青太郎はちょっぴり大人なのだ。教室ではしゃぎたくない理由がある。それが柴田の想像通りかは分からないが、本人にとっては深刻な問題なのだ。その問題に対処する方法として、彼は周りと徹底的に距離を取ることを選んだ。

「どっちに行ったらいいですか」

 幼い声音が尋ねる。あどけない表情と大人びた口調はアンバランスなはずなのに、青太郎に限っては、それがごく自然に感じられた。

「ああ、そのまま真っ直ぐだ」

「外ですか?」

「そう、昇降口で靴を履き替えて、中庭で待っててくれ」

 首を傾げながらも、青太郎は言う通りに動く。柴田も職員用の玄関から外へ出た。


 中庭へ行く途中、ふと右腕に手を触れた。もう痺れてはいなかった。青太郎と話すうちに緊張が解けたのだろうか。(青太郎も八歳の少年なんだ)ごく当たり前のことを、何度も確認するように呟く。

 いて口角を上げ、笑みを作る。あの噂のことも何もかも忘れ、遊び回る子供たちの喧騒だけに意識を集中させた柴田は、中庭に着くころ、再び自分が右腕をさすっていることに、とうとう気付かぬままだった。

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