僕は化け物

小山雪哉

第1話 青太郎

 少年は教壇に上がると、赦しを乞う罪人のごとく深々と首を垂れた。

 彼を視線で射貫く傍聴者は三十余名の小人こびとたち。沈黙という鈍器を片手に、幼気いたいけな同い年の罪人をじっと見上げている。教卓には白の花瓶がぽつり。無作法に整えられた薄紫のスイートピーが、匂やかに(寂し気に)彼に寄り添っていた。

 彼の身長は小学三年生の平均に満たなかった。肉付きも良くはない。しかし、その落ち着き払った態度と、毅然きぜんと背筋を伸ばした立ち姿は、どこか大人びて、威厳すら感じさせた。

 やがて、遠慮がちに手を打ち鳴らす音がひとつ。それをきっかけに、これまた不承ながら赦免しゃめんを認めるような、空虚な拍手が響き始める。

 この感覚だ――柴田は教壇の隅で身体の芯を震わせた。


 小学校の教師になって三年目、一年生から持ち上がってきたクラスで、今年初めて転校生を迎えた。四月最初の登校日は、大人も子供も落ち着かない。加えて今は、このよそよそしい、互いに相手を測るような緊張感が張り詰めている。

 転校生を迎えるのは高校――柴田が学生のとき以来だった。あの頃なら、適当な話題を引っ提げて気さくに話し掛けることも――あるいは関わらないことも――できたが、今は教師という立場である。初めての経験に、武者震いに似た痺れが身体を駆け巡っていた。

(本当に武者震いだろうか)

 心の中で首を捻る。今の自分の心境が期待に満ちているとは、正直思えなかった。もっと別の、例えば台風のような、緩慢かんまんに迫る危機を待つ感覚ではないだろうか。草木を薙ぎ倒すような、安直に恐怖と呼ぶのがはばかられる、実体を伴った災禍。

 実体――柴田は無意識に少年を見つめている自分に気付く。途端に罪悪感が押し寄せ、教卓の花瓶に視線を移した。

 今朝、わざわざ実家に寄って拵えたものだった。掲示物のない空疎くうそな部屋に明るみを添えたくて飾ったスイートピーは、むしろ、花だけが心の拠り所なのだ、と自分の弱さを露呈しているようで、今さらながら恥ずかしい。

 ――弱くてもいいの、優しければ。

 ふと懐かしい声が過る。意識が過去へと落ち込みそうになったところを、少年の強い視線が遮った。黒板を横目に、何か書くような仕草をしてくる。柴田は慌てて小物入れを探った。


 箱を開け、新品のチョークを渡す。こつこつと細かい打音が響き、少年が黒板から振り返ると、教室がざわつき始めた。一体何事かと、子供たちと黒板を見比べて小さく噴き出す。

  葦原青太郎

 熱心に読み方を囁き交わす声を聞きながら、まだまだ子供の目線に立てていない自分に苦笑する。名前を声に出すよう、少年に言った。

「あしはらせいたろう、です」

 教室の後方から、小さな歓声が沸く。クラス一の秀才が読み方を当てたらしい。

 青太郎は幼い声で淡々と名前を言ったきり、言葉を続けようとはしなかった。柴田も何も訊かず、教室中央の空席へ座らせた。

 柴田はプライベートを詮索されることが好きではない。住んでいる場所や家族構成、好きな教科や趣味など、親しくなるにつれて自然と分かっていくものだ。転入初日の導入としては、話すのもアリだと思う。しかし、たとえ自分が私事を開けっ広げに話す性格でも、今日この場で、青太郎に質問をするような無謀は冒さなかっただろう。――彼には訊かれたくないことがあるのだから。

「青太郎くんは、先週引っ越してきたばかりだ。みんなで学校のことや町のことを教えてあげるようにな」

 柴田は注意を払って、ごく簡単な紹介に留めた。


 朝の会を終えて子供たちが散らばる。その喧騒の中を紛れるように、青太郎は後ろのドアから教室を出ていった。さっそく話し掛けようとしていた男子が、空席を見つけて首を傾げている。

(どこへ行った?)

 柴田は廊下に出てみたが、なかなか足が速いようで、もう姿は見えなかった。用を足しに行ったわけではあるまい。トイレは逆方向だ。何かを探して迷っているわけでもないだろう。はっきりと意思を持って教室から飛び出したように見えた。

 子供の思考が読み取れないときは、胸が苦しい。しかし柴田は、青太郎が教室を出ていった瞬間、先ほどまでの痺れが治まったことに気付いた。同時に、そういう身体反応を示した自分に嫌悪する。

(別に青太郎を厄介者だと思ったわけじゃない)

 心の中で、誰に対してか弁明を繰り返した。


 一時間目のチャイムが鳴る寸前に、青太郎は戻ってきた。平然としている風に見えたが、ほんの一瞬、柴田と視線が合った。睨まれたとも、何か言いたいことがあるのか、とも思わなかったが、柴田は、その瞳を寂しげだと思った。直感以外の何物でもない。ただ、そう直感する材料を、柴田は抱え持っている。

(もしあの噂が正しかったら)

 いや、と首を振る。憶測で人を判断するのは愚かだ。この不安は、自分の教師としての未熟さに起因しているに違いない――柴田はそう思うことで、心のもやを消し飛ばそうとした。

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