第21話 事件

 その日の授業前、彼女はいつも通り外に出て行った。

 どこに行っているのか、いい加減聞こうかと考えた俺は、じっと彼女の帰りを待った。しかし、なかなか帰ってこない。


「おかしいな、いつもならすぐ帰ってくるのに」


彼女に何かあったのではないかという不安を無理やり誤魔化すために、そんな意味の無い一人言ひとりごとをつぶやく。


(バン!!)


 するとその時、後ろで大きな音がした。驚いて振り向くと、彼女の姿が見えた。彼女にしては珍しく、乱暴にドアを開け、帰ってきたようだ。

 俺は何事だと思い、彼女に


「どうしたの?」


と聞いたのだが、彼女は答えず、強ばった顔のまま走って2階へ駆け上がって行った。その様子から、何かに追われているのではないかと考えた俺は、外を確認するために、おそるおそる玄関のドアへ近づく。


 すると、閉じられていたドアが、再び乱暴に開かれた。心臓が飛び跳ねる。

 必死の形相をして入ってきたのは女性で、俺のことなど気にも留めず、息を切らしながらこう叫んだ。


「まなみ! お願い、話を聞いて!」


彼女のことを、「まなみ」と呼ぶその女性は、息を整えながら、彼女の言葉を待つ。


 すると彼女は、2階からこう言った。


「............何?」


その声は、すごく小さく、か細いものだったが、この静寂の中では、いやによく響いた。

 するとその女性は、泣きながらこう訴えた。


「......まなみにしてしまった事、言ってしまった言葉、全部申し訳なかったと思ってる。泣いて、泣いて、泣いて、心から反省した。

 たしかに、許してもらうのはすごく難しいことかもしれない。だけど、親としては、まなみにまだ何もしてあげられてないの!!

 ...謝って済むことだなんて、絶対に思ってないし、これからも思わないけれど、もう謝ることしかできないの、本当にごめんなさい...!!

 本当に、本当にごめんなさい...。わがままだってことは分かってるけど、お母さん、まなみとまたお話したいよ。一緒におでかけしたいよ、お家で2人でご飯が食べたいよ...。

 すぐには無理かもしれないけど、これから少しずつ、少しずつ、また家族になっていこう。だから、帰ってきてほしいの、お願い」




......その女性の言葉は、事情を全く知らない俺でさえ、心が揺れ動くほどの、悲痛な言葉だった。


 しかし、しばらくの沈黙の後の彼女の叫びは、もっと悲痛だった。


「............今更、なに...? 私がいない方が幸せって言ったのはそっちだよね? 私が許せるとでも思ってるの? 絶対、一生許さない。私、家に帰る気も、お母さんと家族になる気も、全く無い。

 ...遅すぎるんだよ!! 全部が!!!

...私を見てくれて、愛してくれて、大事にしてくれる人と出会えて、私今とっても幸せなの。もうあなたに、私の幸せは奪わせない。出てって!! 早く!!」 




 ......驚き過ぎて、硬直してしまった。彼女が、こんな言葉を使うなんて。この女性が、彼女の実の母親だなんて。情報の処理が追い付かず、頭が混乱する。

 しかし、そんな俺をお構い無しに、女性は口を開いた。


「......そうだよね。ごめんね。私がバカだった。許してもらえるはずないよね。

 でも、まなみが今幸せだって知れただけで、お母さん、すごく嬉しいよ。

 でも、諦めるって訳じゃない。私も、まなみを幸せにしたいと思ってるから。

 まなみが帰ってくるの、お家でずっと、ずっと待ってるからね」


彼女の返事は、無かった。

 そして、その女性は、呆然としていた俺に、小さな声でこう言った。


「お騒がせしてしまって、申し訳ありません」


女性は頭を下げた。


「あ、あの、だ、大丈夫ですから、顔を上げてください」


「...ありがとうございます...えっと、あの子を世話していただいてるのは、あなたですか?」


世話してもらってるのは、俺の方な気がするが。


「ええ、まぁ...一緒に住んではいます」


「そうでしたか...本当に、ご迷惑をおかけしております、申し訳ありません...そして、本当に、ありがとうございます。

 ...えっと、あの、母親がこんなことを言うのは、おかしいとは分かっているんですが、その...

 どうか、どうかまなみを、よろしくお願いいたします」


と言って、女性は深々と頭を下げ、最後に静かに頭を上げると、ゆっくりと外に出て行った。その目にはまだ、大量の涙が浮かんでいた。




 ドアが閉まる音を聞いた彼女は、階段をゆっくり下りてきて、俺の顔を見た後、


「ごめんなさい。お騒がせしてしまって」


と、先程と比べると明るい、いつもと比べると暗い声で言った。


「...ううん、全然いいよ。それより、その、大丈夫?」


「...ええ、まぁ、大丈夫じゃないけど、大丈夫よ」


その言葉の意味が、よく分かるような気がした。


「...何にせよ、いつかは話さなきゃいけないことだから、この機会に話すわね。

 私の、過去について。」


彼女は、覚悟を決めた顔でそう言った。

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