第40話 白魚の棲家に潜る

「狭いけれど、どうぞ」


 そう言われて案内された里桜の部屋は、想像通りとても綺麗でシンプルだった。

 無駄なものは何も置かれていないし、ナチュラルで落ち着いた雰囲気。


 こんな心境でなかったら、どんなにドキドキワクワクした瞬間だったろうなと思うと、数分前に戻ってやり直したい気分になる。


 そうは言っても、こんなに簡単に部屋へ案内してくれるなんて思いもしなかった。むしろそこは驚いている。もしかして、思ったよりも軽い女性なのか……嫌、その反対で、たぶん男ってものはいざとなるとオオカミになって危ないということにすら気づいていないような気がする。

 どうにもこうにも危なっかしいなと思ってしまう。

 否、物事は良い方に解釈しよう。俺はそれだけ信用されているってことだ。あるいは彼氏だから何があっても覚悟済みとか。

 はぁ。これで少しは気持ちが奮い立ったぞ。


 里桜は白いローテーブルの周りにクッションを置いて俺を誘う。


「じんさん、ここに座って待っていてください。コーヒーか紅茶かお茶、何になさいますか?」

 俺は緊張して正座で座りそうになって慌てて胡坐に切り替えた。

「あ、別にいらないよ」

「でも……じゃあ、とりあえずコーヒーにしますね」


 里桜は電気ポットで湯を沸かすと、ドリップコーヒーを入れて持ってきてくれた。


「遅い時間なのにすみません。あの、こんなところで申し訳ないのですが、お外で話すのもあまりよろしくない内容かなと思いまして……」

「あのさ」

「じんさん」

 同時に声をあげて、黙る。俺はお先にという仕草をした。


「じんさん、もう一度確認させてください。重原さんは私の姉のことが好きなんですか?」

「……佑の口から直接、里桜のお姉さんが好きだと聞いたわけでは……実はないんだ。ただ、コンプライアンス担当の佐々木さんとお付き合いしている女性と聞いていて、どうもそれは秘書室の朝比奈さんらしくて」

「え? 姉はコンプライアンス担当の佐々木係長とお付き合いしているんですか!」

「え? いや、それが事実かは俺はわからない、っていうか、それは里桜の方が詳しいんじゃないのか?」

「……実は、一人暮らしをしてから、あまり姉とは話していなくて……」


 姉妹の間にどんなわだかまりがあるのか、俺はわからない。何を言っていいのか思いつかずに黙りこむしかなかった。


「あ! だから……この間重原さんがおっしゃっていたのは、姉のことだったんだわ……それはそうよね。重原さんが私とさーやが親友だなんて知るわけがないもの。でも私とすずねえちゃんの関係なら、知っていて当然なんだわ。私ったら、なんてひどい勘違いをしていたのかしら」

 里桜はそう独りごちると、がっくりと肩を落としてしまった。


「里桜?」

「すみません。じんさん」

 言い終わらないうちに、里桜の目から涙がポロポロ零れ始めた。

「え? 里桜、どうした!」

「どうしよう、じんさん。私さーやに希望を持たせるようなこと言ってしまったわ。でも重原さんが好きなのはすずねえちゃんで、さーやの恋は実らないかもしれないんだわ」

「さーやって、この間のお店に一緒に行った親友のことだよね」

「うん」 

「そのさーやさんが佑のことを好きってことなのかな?」

 里桜はコクリと頷いた。


 そう言うことだったんだ。里桜がダブルデートで佑に紹介したかったのはさーやさんだったんだ。俺の余計な一言で、混乱させてしまった。


「里桜、ごめん。俺が余分なことを言ったから」

「いえ、じんさんは何にも悪くないです。だって重原さんのことを応援したいからおっしゃったことだったんですから」

「それを言ったら、里桜がさーやさんに言った言葉だって、応援したかったからだろ」

「そうなんですけれど……」


 女性の涙は何度も見ているけれど、ちっとも慣れない。

 自分に絶望した涙、自暴自棄になっている涙、自分の存在を確かめたくて必死な涙……

 その度、俺は何故か自分も辛くなって居ても立っても居られない気持ちになってしまった。だからどうにかしないといけない気になって、空回りした言葉をかけた。


 でも、里桜の涙は……なぜか冷たくない。苦しくない。

 この涙は自分のためじゃ無いからだ。さーやの気持ちを惑わしてしまったかもしれない後悔の気持ちも含まれていたけれど、でもその大半の涙は、恋が成就できないかもしれないさーやさんのことを心から思っている涙。

 こんな風に他の人のために泣いている姿は、こちらの心まで温かくしてくれるなと思った。


 冷静な気持ちになって、俺も俺のできることをすべきだと思い直せた。


「里桜、佑は君のお姉さんが好きで、君の友人のさーやさんが佑を好きなのはわかったけれど、君のお姉さんが誰を好きかはまだ分かっていないよね。まずはそこがはっきりしないと俺たちもどうすればよいのかわからないね。お姉さんが佐々木さんのことが好きで二人がお付き合いをしているのなら、佑の恋はうまくいかない可能性が高い。そうなったらさーやさんの恋が実る可能性も出てくる。反対に、里桜のお姉さんが佐々木さんを好きでなくて、お付き合いをしていなかったら、佑の恋がうまくいく可能性が出てくる。反対にさーやさんの恋の可能性は消えてしまう。こういうことだよね」

 状況を把握するために、事態を整理して言えば、里桜は涙を拭いて俺を見た。

「じんさん、そうでした。まだ何もわからないのですよね。だから勝手に私たちが決めつけてしまってはいけないということですね!」

 急にやる気を取り戻した里桜、意思のこもった目で俺を見つめてきた。


「やっぱりじんさんに相談に乗っていただけて良かったです! お仕事の時もそうですけれど、いっつも的確で簡潔な言葉で伝えてくださって、感謝しております。私、姉に聞いてみます。まずは、そこからですね」

 里桜が立ち直ってくれたようで、ほっとしたものの、俺は心配に思っていることを聞く。

「里桜、お姉さんに聞けそうなの?」

「……大丈夫です。姉ならきっと、真剣に答えてくれるはずですから」


 うーん。この姉妹、確執があるわけでは……無いらしい。

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