第33話 呼び方を変えるには慣れるが一番

 前菜を食べ終えたところで、素早くメインが提供される。まるでタイミングを見計らっていたかのように。

 こんな細かい気配りが、お店の質を高めるのだろうなと思いながら、目の前の仔牛のソテーの上に、小さいながらもフォアグラを見つけた時には、と内心がっかりしたことも帳消しにしようと思った。

 付け合わせのご飯には、仄かにガーリックバターの香が付いている。さっぱりとしたコンソメスープも付いていて、これであの値段は確かにリーズナブルだなと思った。

 朝比奈さんが頼んだ鶏のみぞれ煮は和テイスト。胸肉の唐揚げに絡まった大根おろしはカツオ出汁の良い香を纏い、さっぱりとした一品に仕上がっていた。

 五穀ご飯と共に蟹出汁の味噌汁付き。どちらも美味しそうだ。

 

 二人で味わいながら、時に互いの料理の感想を言い合ったりして時間をかけて食べ切った。

 りんごよりも甘みの少ない洋梨のシードルも、程よい爽やかさをもたらしてくれて、味覚が喜ぶ感覚を、改めて大切にしなければと気づく。


「いいお店を教えて貰って良かったよ」

「はい、私もさーやに……あ、卯坂さんに教えてもらっていいなと思ったんです。でも男性では量が足りないでしょうか」

「そうだね。最初はそう思ったけど、食べ終わってみたら満腹感があるね。なんだろう。不思議だな」

「ゆっくり食べる魔法ですね」

「ゆっくり食べる魔法?」

「はい。味わってゆっくり食べると、満足感が高くなるから食べすぎずに済むんですよ」

「なるほど。今度からそうしよう」

 ふふふっと朝比奈さんが笑った。

 天使の微笑み! きっとここは天国に違いない。


 最後のデザートは抹茶ティラミスとコーヒー。甘みを抑えたティラミスは、甘いのが苦手な俺でもさっぱりと食べられた。最後にビターなコーヒーで締める。

 最高の晩餐だった。


 キャンドルの揺らめきの中、コーヒーを飲みながら語り合う。


「ところでさ、彼氏と彼女になったら、敬語っておかしくないかな」

「そ、そうなのですか!」

「うん。まあ、会社ではそのままの方がいいけれど、二人きりの時は、敬語抜きで話すほうが自然だよね」

「実は……本当の事を申し上げますと、憧れておりました。でも……全然自信がありません」


 真っ赤になって俯く朝比奈さん。憧れていたって、めちゃくちゃ嬉しいんだけどな。

 正直にそう伝えたら、安心したように顔をあげた。


「少しずつでいいからさ」

「はい、頑張ります」

「後さ、呼び方」

「あ……」

「俺は朝比奈さんのこと、下の名前で呼びたいんだけど、いいかな」

「は、はい! もちろんです」

「じゃあ、言ってみるよ。里桜」

 かああああぁーと音が聞こえそうな勢いで、朝比奈さん、もとい! 里桜の顔がまたまた赤くなった。オレンジがかった光が加わってみたいだけど、可愛いからもっと赤くさせたくてしかたがない。

 本当は俺の心臓もバクバクだけど、それは微塵も感じさせたくないからな。余裕のあるフリをする。

「ねえ、里桜」

「……はい」

「里桜」

「……」

「里桜ちゃん、そんな下向かないでくれよ」

 なんとも情けない表情で顔を上げた里桜に、追い打ちをかけたくなってしまった。

 俺って実は酷い奴だな。


「あのさ、どっかにぶつけて痛い時、ジンジンするって言わない?」


 突然方向転換した俺の話題に、朝比奈さん、もとい! 里桜もポカンとした顔になった。いつもは俺が驚かされているからな。たまにはこういうのもいいんじゃないかな。俺は調子に乗って続ける。


「……言いますね」

「じゃあ言って見て!」

「?」

「ジンジンするって」

「ジンジンします」

「じゃあジンジン」

「……ジンジン」

「ジン」

「ジン」

「俺の名前は?」

「······じんさん」

「よくできました!」


 途中から、流石の里桜も俺の意図を理解していたらしい。小さな小さな声で答えてくれた。


「俺の名前、練習しておいて」

「……はい」


 恥ずかしがりながらも、嬉しそうな瞳の色。

 眼鏡の隙間から素の視線を捉えて、良かった! と胸を撫でおろした。

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