第32話 黙っていても幸せだ
「酒井さん、悲しそうでしたね……」
ぽつりと朝比奈さんが呟いた。
悲しそう? 朝比奈さんにはそう見えるんだな。
嫌がらせされて酷いと怒って当然なのに。なんて優しいんだ。
俺はさっきまでのイライラが吹っ飛んで、ほっこりとしてしまった。
バカップル? 上等だ!
「朝比奈さん、ごめん。なんか同期のいざこざに巻き込んでしまって」
「いえ、私のほうこそ、出過ぎた真似をしてしまいました。柿崎さんが信じてくださっていると思ったら、なんだか謎の無敵感に包まれて、酒井さんに酷い事を申し上げてしまいました。後で柿崎さんにご迷惑がかからないと良いのですが……」
「朝比奈さん!」
「は、はい」
「ありがとう!」
俺は心から感謝した。
「いえ、その……」
「酒井さんの事は気にしなくて大丈夫だよ。むしろ君のお陰で俺は救われたんだから、感謝しているよ」
朝比奈さんが顔を上げた。
眼鏡越しの瞳に視線を合わせて、俺は心を込めて言葉を繋ぐ。
「あんな状況の中でも、俺のこと信じてくれて、ありがとう! 物凄く嬉しかった」
緊張の糸が切れたように、朝比奈さんの瞳からポロリと涙が零れ落ちた。
俺は安心させたくて必死に笑顔を作る。
釣られたように、朝比奈さんの頬が緩んだ。
「良かった……」
「うん。本当にありがとう」
抱きしめて背中をさすってあげたい衝動にかられたが、必死で抑えた。
一応会社のエントランスだからな。我慢だ……
朝比奈さんが落ち着いたところで、この後の事を考える。
「朝比奈さん、お腹空かない?」
「そう言えば……」
「良かったら、夕飯一緒にどうかな」
「は、はい!」
ぱぁっと顔を輝かせた朝比奈さん。明るくなってくれて良かったと胸をなでおろした。
「何食べたい?」
「そうですね……柿崎さんが食べたいもので大丈夫です」
「うーん、俺は基本お腹に入ればなんでもOKだから、朝比奈さん決めていいよ」
「……実は気になっているお店があるんです」
「OK! そこに行こう!」
またリサーチだけして行かれてないなんて言うのかなと思ったら、今回は違った。
「親友と一度だけ一緒に行った和洋折衷のお店なのですが、もう一度行きたいと思っていたのに、まだ行かれていなくて……」
「和洋折衷! いいね。行こう」
「はい、ありがとうございます」
嬉しそうに顔を上げた朝比奈さん、「それではご案内します」と歩き始めた。
俺は慌てて横に並ぶ。すると朝比奈さんがぴくんとして立ち止まった。
「ん? どうした?」
「すみません。急に緊張してしまいました。でも、もう私は柿崎さんの彼女なので少しでも近くで歩けるようにがんばります!」
そこ、頑張るところなのかなと吹き出しそうになるのを堪えて、もっともらしく返答する。
「そうだね。彼女だったらこのくらいの距離かな」
朝比奈さんの肩先へグイっと近づくと、「はい!」と一オクターブ高い返事が返ってきた。ふーっと息を吐いて背筋を伸ばす。
そして、隙間数ミリの距離間に意識を集中しながら歩み出した。俺も笑いをかみ殺しながら歩幅を合わせた。
「親友って、会社の人?」
「はい。同期の
「うーん、俺は知らないな。どこの部署?」
「秘書室です」
俺の中で一瞬「え?」と思ったけれど、お姉さんのことはまだ話すのは早いなと思い何も言わないでおいた。
「そっか、卯坂さんって人なんだ」
「はい、美人で優しくて明るくて、素敵な友人です」
「友人のことを褒める人、好きだな。いいよね。そう言う友人関係」
「はい」
互いに視線を合わせてにっこりした。
朝比奈さん、ちゃんと社内に親友がいたんだ。良かった。
なんとなく保護者気分になって安堵してしまった。
目的のお店は、いつもの利用駅とは違う駅の近くにあった。細い階段を地下に向かって降りて行った先。温かみのある生成り色の塗り壁と、和テイストの木製のインテリア。カウンターの壁には数々の日本酒やワインの瓶が飾られていて、まるで酒蔵に迷いこんだよう。照明は抑えられていて、黄みがかった間接照明が温かな雰囲気を作っていた。
「おしゃれなお店だね」
「はい!」
店員が案内してくれたのは、二人用のこじんまりとした壁際席。
照明の配置が絶妙で、二人だけの個室にいるような安心感を感じさせてくれる。
メニューは三つのコースのみ。でもリーズナブルで前菜とメイン、デザートまで揃っている。俺にはちょっと物足りないかもしれないけど。
「俺はこの仔牛のソテーがいいな」
「では私は鶏のみぞれ煮にします」
「飲み物はいかがなさいますか」
店員の声に、俺は洋梨のシードルを頼んだ。和洋折衷のお店とあって、お酒も種類豊富だ。ここでビールじゃつまらないからな。
朝比奈さんは小さな声で烏龍茶と答えた。
「私お酒弱いんです」
聞いてもいないのに言い訳している。
なんか可愛いな。
店員が去ってしまうと、朝比奈さんは恥ずかしそうに下を向いてしまった。緊張しているんだろうな。沈黙が急に重く感じる。
何かこっちから話しかけてあげないと……
ふとテーブルに飾られているキャンドルライトと一輪差しの花が目に入った。
「キャンドルライトなんて珍しいね。この花は何て言う花だろう?」
思ったとおり、朝比奈さんの表情が和らいだ。作戦成功かな。
思いのほか早くに前菜が届いた。小さなお盆に三種類。
白い正方形の陶器には鯛のカルパッチョ。淡いブルーの涼し気なガラスにはカボチャのムース。土色の歪な形の器には揚げ出し豆腐。
それぞれの味は主張し過ぎず、でも一つ一つ丁寧に作られていて堪能できる。不思議とバランスが取れていた。
「うまい!」
「そうおっしゃっていただけて嬉しいです」
ほっとしたようにそう言いながら、朝比奈さんも箸を口元へ運ぶ。
味わうように静かに噛み締めて、幸せそうに微笑んだ。美味しいと言う言葉が、全身からオーラのように溢れ出ている。綺麗な食べ方も好感度アップ。
俺達は自然と見つめ合った。
二人で向かい合ってもう一口、口に入れれば会話は途切れ店内のBGMだけになる。
黙ってモグモグと口を動かすだけの時間。
でもそれだけで、最高に幸せだ!
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