第28話 砂時計をぎゅっとする ~過去と未来の狭間で~
いくら朝早い時間でも、道行く人はそれなりにいる。
公園の一角ではあるが、朝から何やってんだと言う冷たい視線を向けられて、俺は我に返った。慌てて抱きとめた手を緩める。
今の外野の視線、俺の胸に顔を埋めている朝比奈さんは気づいていないよな。良かった。
「ごめん。急に抱きしめたりして」
「……いえ」
緊張が解けたように、ふにゃりとした朝比奈さんの腕をあわてて掴む。
「すみません。なんか腰がぬけちゃって」
「わかる。俺も緊張が解けたら力抜けちゃった」
二人で顔を見合わせて笑った。
その瞬間、彼女の頬をポロリと一筋の涙が伝い落ちた。
「あ、ごめんなさい。私ったら、嬉しいのに涙なんて……」
慌てて頬を拭う手が、やっぱり美しかった。
女性の涙を見て、こんな幸せな気持ちになれる時がくるなんて……
俺は自分の穏やかな気持ちに驚く。
今までの涙は、どうにかしないといけない焦燥感に駆られた。
その焦燥感が、俺の判断を狂わせた。
でも、彼女の涙は幸せな気持ちにしてくれる。
嬉し涙っていうのは、いい涙だな。
俺は感慨に耽りながら朝比奈さんを見下ろしていたが、彼女の表情が急にピッと引き締まった。
うん? 何事だ?
「柿崎さん! 大変です! 早く行かないと遅刻してしまいます!」
涙を拭いた手には、華奢な腕時計が巻かれていた。
おっと、今まで気づいていなかったぜ。
腕時計派なのか。
いや、そこじゃない。時間だ!
「まずいね。速足だ」
「はい!」
さっきまでの呆けた様子は微塵も感じさせないキビキビとした動きに、心の中で呆気にとられてしまった。
もしかして、朝比奈さん、仕事の鬼?
俺、仕事に嫉妬する日がきたりして。
心の中で突っ込みながら、これからこんな知らない朝比奈さんを、どんどん発見していくことになるのだろうなと、ワクワクした気持ちになった。
「近道があるから案内するよ」
「はい!」
二人で少し息を切らせながら早歩きする。
俺は、少しだけ歩幅を小さく。朝比奈さんは、いつもより歩幅を大きく。
そうやって二人で息を合わせて歩いているだけなのに、嬉しくなる。
この道がずっと続いていてもかまわないとさえ思えてくるんだから、恋って奴は不思議だ。普段だったら、面倒くさくてしかたないはずなのにな。
あーでも、これだけは言っておこうかな。朝比奈さん、『付き合う』の意味、本当に分かっているかな。なんかちょっと不安になる。
「俺達、これから付き合い始めるってことでいいよね? 彼女と彼氏って関係」
速足で弾んだ息のまま確認する。普通だったら、こんなこと恥ずかしくていちいち言わないんだけれどさ。朝比奈さんだからな。
案の定、きょとんとした顔の朝比奈さん。でも次の瞬間プシュって音がした。
真っ赤な顔になってコクコク頷くので精いっぱい。可愛すぎるぜ。
「嬉しいな」
本音を言えば必死の面持ちで応えてくれた。
「わ、わたしも嬉しいです! でも……」
「で、でも?」
一気に不安になって慌てて聞き返す。
「私初めてで、わからないことばかりで……色々教えてください!」
真剣な面持ちでそう返された。バカ正直な言葉に思わずこっちが赤くなる。
煽ってるって自覚……ないんだろうな。やっぱり危なっかしいな。
必死に顔を繕って、まずは無難な答えを返す。
「そうだね。一緒に出掛けたいな。色々なところへ行きたいし、色んな事やりたい」
「一緒におでかけ!」
不安そうだった朝比奈さんの瞳が、一気にキラキラと輝いた。
「楽しみです!」
「まだまだお互いのこと、知らないことばかりだからさ。少しずつ、朝比奈さんのこと教えて欲しい。好きな物や好きなこともだけど、今までのこと、これからどうしたいかとかね」
「現在、過去、未来……」
「うん?」
朝比奈さんが真剣な顔で呟いた。また何か面白い言葉が発せられるなと、期待しながら待つ。
「
「砂時計?」
「はわぁ! すみません。私ったらまた変なことを!」
慌てて口を閉じて俯く。
「ううん、大丈夫だよ。でも砂時計ってどんな意味があるの?」
恐る恐る顔を上げた彼女は、俺の笑顔を見てほっと溜息をつくと話始めた。
「先ほど柿崎さんが、今までのことやこれからどうしたいか教えて欲しいとおっしゃってくださって、私も柿崎さんのこと、過去の柿崎さん、今の柿崎さん、これからの柿崎さん、全部知りたいって思ったんです。柿崎さんの全部、知りたいって……あ、すみません!」
またアワアワと焦って顔を赤らめた。
「そんな風に言ってくれて物凄く嬉しいよ」
「本当に?」
「ああ」
瞳を見つめて頷くと、心から嬉しそうに笑ってくれた。
「ああ、だから砂時計! 過去と今と未来。砂時計にはそれが全部詰まっているってことか!」
「砂時計って、綺麗ですよね。さらさらと流れ落ちる砂を見ていると時が目に見える気がして面白いんです。私の部屋にもあるんですけど、その砂の一粒一粒に、柿崎さんの思い出が詰まっているんだなって思ったら、なんか手の中でぎゅってしたくなって……」
ぎゅって言葉に、心臓が跳ね上がる。
「……ああ、でもダメダメで恥ずかしい過去も一杯あるな。それはちょっと……どうなのかな」
「はわわわぁ! す、すみません! そ、それはいいです! そっとしておきましょう!」
自分でも抑えきれない笑顔が爆発しているのを感じる。周囲の人、なんだこのニヤケ男って思っているかな。別にかまわないぜ。なんと言われても、俺は今幸せなんだからな。
申し訳なさそうにぺこぺこ謝っていた朝比奈さんだったが、俺のニヤケ顔に釣られたように緊張を解いた。
「ありがとうございます! 柿崎さんが笑ってくださると、私も嬉しくて笑顔になれます」
とびっきり温かい笑顔と共に投げ込まれた直球が、俺の自制心をこっぱみじんに打ち砕こうとする。
くそっ! もう一度抱きしめてぇ!
かなりぎりぎりの時間にエントランスに滑り込んだ。
「今夜も十時にLineする」
エレベーターの中で耳元に囁けば恥ずかし気に頷いて、朝比奈さんは二十五階に消えて行った。
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