第三章 始めの一歩
第15話 ジュースのテイスト報告
いつもと同じ電車に乗った。
出入り口を出たところで、さり気なく朝比奈さんの姿を探す。
改めて見回すと、とても人の出入りが激しくて、なぜあの日朝比奈さんを見つけることができたのかと不思議に思う。
そうか……雨で人通りが止まっていたからだ。
次から次へと流れていく人の波に、押し流されてしまいそうな息苦しさを感じた。
立ち止まっていること自体が辛いような感覚。
もう今日はこのまま歩いて行ってしまおう。
そう思った時、ふわりと軽い空気を目の端に捉えた。
急に肩の力が抜ける。
朝比奈さんだ!
紺色のスーツ。でも今日は白襟とフレアースカートの、清楚な雰囲気のスーツだった。この間のリクルート風のスーツより断然こっちの方がいい。似合っている。
そんなことを思いながら眺めていると、ちらりと朝比奈さんが振り向いた。
一瞬重なる瞳。眼鏡の奥の瞳が見開かれたようだ。
予想通りなので、俺は構わずにずんずんと近づいて行った。
驚いて固まっている朝比奈さんに、出来る限り自然に声を掛けた。
「おはよう」
「お、おはようございます」
慌てて頭を下げながら挨拶を返してくれる。
「今日も会ったね」
「は、はい」
「今日は晴れていて良かったよ」
「は、はい」
「今日も何か飲み物買う?」
「はぁわわわ」
その声に、俺はぷっと吹き出してしまった。
この間は何の逡巡も無く飲み物を買いに歩き出したのに、今日は全然違うんだな。
「なんか可愛い声が出たね」
そう言うと朝比奈さん、真っ赤な顔で俯いた。
何か言いかけては口を閉じるを繰り返している。
「大丈夫? 深呼吸しようか」
思わず心配になって声をかけると、「ふはー」っと静かに息を吐きだして、ようやく人心地ついたような顔を上げた。
「すみません。私緊張してしまうと、頭が真っ白になってしまって」
「ごめん。急に話かけたからびっくりしてしまったんだね」
「いえ、すみません。ご心配おかけしました。もう大丈夫です」
朝比奈さん、小さく右手を丸めてガッツポーズのようなしぐさをする。
真面目くさった顔を見て、俺はまた吹き出しそうになったが、流石にそれは申しわけないので飲み込んだ。
「あの、飲み物ですよね。私はいつもお茶を持参していまして、なので今日は大丈夫です。柿崎さんはお求めになるようでしたら、私はこれで失礼……」
「じゃあ、いいや。一緒に会社まで行こうよ」
「は、はははは、はい! 柿崎さんがよろしいのでしたら、私は何の異論もございません」
「あはははは!」
遂に堪えきれなくなって笑ってしまった。
周りの人が驚いたように振り向く。まずいまずい。
またまたフリーズしている朝比奈さんに詫びを入れた。
「ごめん、笑ったりして。でも言葉遣いが仕事モードになっているから。もしかしてそのほうが話しやすいのかな?」
「あ!……そう、ですね。多分、いえ、そうですね。お仕事だと思ってお話するほうがお話しやすいですね。なんでかしら?」
「なんでだろうね」
俺は先へ促すように、彼女の顔を見つめながら歩き始めた。
つられて彼女も歩き始める。
朝比奈さんはやっぱり話すことが苦手みたいだな。そこに天然が加わっているから、本人意図せずして笑いを生んでしまうんだろうな。
俺は純粋に可愛いと思ったけれど、そんなふうに思う人ばかりじゃないだろうし。
もう少し話しやすくしてあげたいな。
ついついお節介心がうずく。
いや、俺調子に乗るなよ。直ぐに自分で自分を戒めた。
「じゃあさ、とりあえずこの間のジュースの味を報告し合おうか。朝比奈さんはライムジュースについて、俺は仙草ジュースについてね」
報告と言う言葉を聞いて、瞳に光が戻る朝比奈さん。
正確に俺に伝えようと必死に考えているようだ。
「じゃあ俺からいくよ。仙草ジュース、当然ながらコーヒーとは違ったよ。香ばしい香は無くて、草っぽい苦みが少し。でも甘みが強いからその苦みが相殺されて、いや、甘かったな。俺にとっては」
俺はちょっとおどけて顔をしかめてみせる。朝比奈さんの表情が少しだけ柔らかくなった。
「中の仙草ゼリーは物凄く柔らかくて、弾力が無いからストローで簡単に飲めたよ。咽たけどね」
「それは、大変でしたね」
心配そうな顔の朝比奈さん。
「まあ、気をつけて飲まなかった俺がいけないんだけれど。色んな薬草が使われているみたいで体に良さそうな味だったね。本当にいいのかわかんないけどさ。こんな説明で想像つくのかな?」
「はい、ありがとうございます。私そのゼリーが食べてみたくなったので、今度飲んでみます」
「そう、良かった」
「台湾とか中国って、体を冷やさないようにすることが健康法の一つらしいんですよ。だから冷たい水では無くて常温の水が好まれるらしいです。だから柿崎さんがおっしゃったように、きっと体に良いジュースなんだと思います」
「へえ、朝比奈さん博識だね」
「いえ、旅行ガイドの受け売りです」
ちょっと気恥ずかしそうだ。
「じゃ、次は朝比奈さんのライムジュース」
「そうですね……太陽の味でした」
「太陽の味?」
「はい。酸っぱいけれど爽やかで弾けるようで、口の中に夏が広がったような感じでした」
「夏の太陽の味か」
「はい。プールサイドとかで飲んだら、きっと最高だと思います」
「それ……誘ってる?」
「へ?」
まん丸の目になった朝比奈さん、でも俺が指摘した意味には気づいていないようだ。
どんだけ天然なんだよ。
俺は可愛くなって、また笑ってしまった。
「いや、もう夏だなって思ってさ」
「はい。もうすぐ夏ですね」
二人で同時に青空を見上げた。
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