第1話 細工は流々仕上げをご覧じろ

 人類には当然の宿敵がいる――セツリだ。

 その超常的な力で災害や厄害を成す、多種多様な危険生命体。

 数千年ものあいだ、人類はセツリに屈する弱者として甘んじていたが、ここ数年でセツリへの対抗技術は飛躍的に進歩し、いまやその権力ピラミッドは覆りつつある。元より進んでいた科学、工学の分野は飛ぶ鳥を――セツリを落とす勢いで発展。人類は日々の研鑚により、セツリを駆逐できるだけの武器を手に入れたのだ。

 神秘とのマッチングが可能な甲殻ハードウェアと呼ばれる防具型精密機器。それに精霊ソフトをインストールし、ケーブルで接続されたつるぎを以て戦う。精霊が完全にインストールされると、甲殻の形状は変化し、適応した装飾および装備が展開される。籠手や鎧のように人体を覆い、また、特別な力を剣に付与するのだ。

 目には目を、歯には歯を、神秘には神秘を。単なる武装ではセツリに敵わないと察した人類は、神秘の手を借りて戦闘能力の強化を図ったというわけである。

 まさしく、人間の叡智と技術の結晶。

 自然界を彷徨う神秘と最先端技術の融合体である、戦闘用コンピュータシステムだ。

 この画期的なシステムの導入からたった数年で、人類の奪われた地位や築き上げた財は回復。人は誇りを取り戻した……のだとか。知識としては認めている。だが、確証が持てないのには理由があった。現在進行形で、俺は人類が持っているはずの誇りが溶けて消えたような人間のそばにいる。


「またハラエがセツリの巣を見つけて、倒したみたいだよ」


 薄いテレビでニュースを見る彼女は、誰ともなしに呟いた。

 祓とは俗語だ。セツリと戦う兵士たちのことを人々はそう呼んでいるらしい。けれど彼女の称揚の眼差しから、それが敬称でもあることは容易に伺える。


「すごいよね」


 彼女は独り言が癖だった。返事をする相手もいないのに、家では言葉が突いて出る。空想の友達がいて、そいつと話でもしているのかってくらい。〝こんな状態〟でさえなければ、さっきの彼女の言葉は俺に投げかけられたものだっただろう。けれど、彼女の言葉は矢印を持たず、空気中に放たれただけ。

 聞くことしかできない俺は、ただ外の世界を眺めている。

 彼女が俺を甲殻に降ろしてから一ヶ月ほどが経った。短いようでとてつもなく長い、それでいて退屈な時間だった。本来ならばすぐに自律できるはずが、随分と時間がかかってしまっている。これでもまだよくなったほうだ。降りた直後など意識が朦朧としていたし、聞きとれる言葉も途切れ途切れだった。そこから徐々に視界がクリアになり、拾える音も増え、自分がいまどういう状況なのか、冷静に分析できるようになった。

 独り言の癖を持つ彼女こそが俺の主――菜野なのまふゆ。

 今年の春から祓になるための養成学校に通っているらしく、俺はそこで彼女に降ろされた。思い返せば甲殻に入った際、たしかに彼女の声が聞こえた気がする。おぼろげだったので聞きとれなかったことに歯痒さを覚えたが、もしかするとただの独り言だったのかもしれない。ここ一ヶ月共に過ごしているとそんな確信が湧いてくる。

 年頃だというのに見映えもしない少女だ。言葉を選ばなければ、根暗という印象がまずピンとくる。おそらく視線の遣りかたのせいだろう。空を諦めた俯き加減。その愛嬌のある顔で目を伏せられては、周囲に与えるのは後ろ向きの推進力ばかりだ。いったい誰が気づくというのか。頼りなさげな睫毛の下の、燻るような橙黄色の目の心地好さに。少なくとも俺は、その目でまっすぐに見つめられるのは嫌いじゃなかった。


「おはよう。今日もよろしくお願いします」

――ああ、よろしく頼むぜ。


 今日も彼女は返事もろくに聞こえない相手に朝の挨拶をする。茶番だからといって返事を怠ったことはないが、届かないことにはいい加減うんざりしてくる。経験してみて初めてわかったが、外界に干渉できないというのはかなりのストレスになるらしい。そんな俺に気づきもしないで、彼女は慣れた手つきで甲殻を装備するだけ。

 彼女の通う学校の制服は、甲殻を装備することを考え、体のラインに沿うようなタイトな造りになっている。伸縮性に富んではいるが生地も薄く、防寒着もなしに着られるのは夏場くらいのものだろう。代わりといってはなんだが防寒具はルーズで温かい素材のものが多く、俺の主である彼女の防寒具もゆったりとしたもの。大振りの襟は申し訳なさそうな髪ごとすっぽりと収めている。どうせ上に着る服で嵩が増すのだから最初から温かいものを用意すればいいのに。人間の考えることはどうも俺にはわからない。

 毎朝八時十分。学校へと向かうスクールバスの中で、彼女は大抵一番前の窓側の席を取る。学校に着くまでひたすら無言で、窓の外を眺めるのだ。窓ガラスに時折映る生徒のシルエットに俯いてしまうのもいつものこと。各々個性が出る装備と己の凡庸ないでたちを比較して、彼らに比較される前に息を潜める。それほど己が居た堪れないなら早くすればいいのにと、俺はいつも思う。

 バスが到着すると生徒は校舎に入り、各々の教室へと続く道を辿る。この対セツリの養成学校〝コード第六期関東04ゼロヨン〟の校舎は重厚で近代的な構造をしている。各地に点在する訓練学校の中でもここは指折りの名門で、設備投資にも力を注いでいた。セツリの急襲に備えたセキュリティーに、精霊をより円滑にインストールするためのマザーコンピュータの導入、また、部外者の侵入を阻むための厳重なシステムロックなど、平凡な学校では考えられないほどの充実ぶり。


「さすがに、学校に監視カメラをつけるのはどうかと思うけど」

――そうかい。ま、こりゃあたしかに窮屈だな。


 その恩恵に預かっている身の上ではあったが、その大半を彼女も俺も息苦しく感じていた。無造作に取りつけらているこれらが活躍する日なんて本当に来るのだろうか。

 彼女は廊下を歩き続け、自分の教室の前でぴたりと止まる。ドアの窓から教室の中を伺い、壁にかかっている時計に目を遣った。あと五分でホームルームが始まる。

 彼女は真面目で遅刻をしたことなど一度もないが、かといって朝早くから学校に行くようなタイプでもなかった。むしろ、教室に留まらなければならない状況を意識的に避けている。なるべく多くの目に晒されたくない彼女は、予鈴が鳴ってからの数秒、クラスメイトたちが己の席に戻るため教室中が騒がしくなるタイミングを見計らい、なんでもないようにスッと教室に潜りこむ。講師が教室に入ってくるころには、ずっとそこにいましたというような顔で、彼女は席についているのだ。


「全員揃っているな……では、出欠を取る」


 しかし、そのように小癪な策を講じる彼女にも、逃げられないシチュエーションというものはあった。それは、こうも近代化された学校において、錯誤的なほどアナログのまま継承された、出欠確認により起こるものだった。

 講師が順繰りに生徒の名前を呼んでいく。

 彼女はそれをドミノ倒しになるような顔で聞いていた。

 徐々に徐々に、自分の番が近づいてくる。目の前の生徒が確認の返事をすると、講師は彼女の意思に反し、なんの躊躇いもなく口を開くのだ。


「菜野まふゆ」


 名前を呼ばれた瞬間――のろりとした視線が彼女に集まるのを感じる。

 この一瞬が、彼女はなによりも嫌だった。

 単なる一瞥ではない。確認のための目。そしてその全てが、ああ、今日も相変わらずかと、侮蔑にも近い表情で視線を切るのだ。十億分の一、と誰かが言った。不躾極まりない。そういう目で彼女を見ては勝手に引き千切る、この人間たちが心底不愉快だった。


「……遅いな。まだ完了しないのか」


 彼女が出欠の返事をするよりも先に、講師は確認を取る。目視だけもわかるだろうに、極めて義務的に、甲殻の様子を尋ねた。


「……はい」


 彼女の返事に、どこからか薄い嘲笑がこぼれる。あるかなきかの空気の揺らめきにも過剰に反応した彼女は、ただでさえ臆病な目線をさらに下方修正する。

 講師は「そうか」とだけ言い、次の生徒の名前を呼ぶ。何事もなかったかのように出欠の確認は続いていくが、彼女にとっては有事なのだ。穏やかなドミノ倒しは一度彼女のところで堰き止められる。そして、その十億分の一片に誰もが、やはりな、という目を遣るのだ。

 彼女は顔を上げられない。俯いたままでしかいられない。自分の目の前に座る生徒の甲殻が、嫌でも目に入るからだ。腰と背を支点とし、体を這う漆黒の装甲。休止状態のため大きく展開してはいないが、宿る精霊独特の構造をしている。目の前の生徒だけではない。前も後ろも右も左も、この学校にいる生徒は全員が自分だけのシルエットを持っているのだ――彼女一人を除いて。

 彼女が俺を降霊してから一ヶ月が経った。

 けれど、甲殻は初期形態から何一つ変わらない。

 本来ならば、俺が甲殻に降りた時点で、他の生徒と同じように、特性に沿った形状に自動カスタマイズされるはずだった。入学から二週間、生徒の成績レベルが10になるころに降霊式は開かれる。祓にとって、己の甲殻に精霊を降ろすのは避けては通れぬ道なのだ。と言ってもそう難しいことではく、降霊式を始めてから精霊が完全にインストールするまで、どんなに長くとも精々五分。入学試験の審査基準に降霊術があるように、この学校に合格しているのなら誰もが行える――はずだったのに。

 彼女はそれに失敗した。

 俺はその日、正常にインストールされなかった。



▲ ▽




 力不足。器量薄弱。低アビリティ。言ってしまえば、彼女は降霊能力が弱かった。

 俺を降ろせるだけの力はあったようだが、最後まで押しきる力が足りず、甲殻に完全に馴染ませることができていない――とどのつまり、インストールに時間がかかっているのだ。

 初めは講師も精霊降ろしを担う樹械きかいの故障かと疑ったのだが、彼女の前後に降霊を行った生徒は恙なくインストールを成功させている。開校から初めてのこと、稀代未聞、後にも先にも、これほどまでにインストールの長引いている生徒は菜野まふゆただ一人。

 その並外れた異常性と名前をかけて、十億分の一の劣等生と皮肉られるほどだった。

 おかげで俺は半分眠らされたような状態のまま。インストールが完了するまで展開することも、他の生徒に降りた精霊たちのように話すこともできない。ただただ彼女に背負われながら、じっとして、話すこともなく、面白くもないものを眺めさせられている。


「では、教科書〝戦闘技術開発についての今昔〟の第一章を開けてください」


 講師の声を追うように、そこらじゅうから教科書を開く音が鳴る。

 午前は座学の授業。甲殻を使用しない知識面の学習時間だ。

 登校中と授業中、生徒は甲殻を休止状態にしなければならないため、彼女の視覚的ストレスは薄い。実技を必要としなければ彼女は普通の生徒でいられる。劣等生の烙印を押されてはいるものの、授業態度に粗相はなく、むしろ熱心な部類に入ると思う。彼女の名誉にかけて言うが、彼女は真面目な生徒なのだ。その精勤な心根に反し、実力が怠慢極まりないだけで。


「人類は元々ある程度の技術を持っていました。戦車、ミサイル、爆撃機などがそうですね。しかし、セツリはそれを上回る脅威だったのです。いつだって私たちはセツリに敗北するしかありませんでした。文明は容易く破壊され、あるときには命さえ奪われます。海へ出れば船は沈められ、ひとたび歩けば地上の震えに全てが崩れるのです。セツリの持つ力は超越的な神秘でした。人類の技術だけでは敵わないのなら、我々も神秘に縋るしかない。そこで生まれたのが、今日の戦闘用コンピュータシステムです」


 彼女は講師の話す内容のそのまた先にまで目を遣り、重要そうな箇所に蛍光マーカーでラインを引く。講師が自分の速度に追いついたときに、復習するようにもう一度その範囲を黙読しているらしい。


「システムを構成する重要なパーツは計四つ。もちろんみなさんわかってますよね。わかってなかったら先生とのこの一ヶ月は全て無駄だったということです」生徒の笑い声がやんだあと、講師は答えを述べた。「甲殻、剣、サポーター、精霊。特に甲殻はシステムの脳とも言えますね。主に腰や人体の背面を支点とした形状で、初期状態だとコルセットにも似ています。降霊し契約した精霊の棲家でもあり、蓄積されたデータの保存域でもありますので、この中枢が破壊されると終わりです。周辺機器はヘッドセット、スピーカー、そして剣」


 スピーカーが甲殻に付属しているのは精霊との交信のためだ。精霊には人の体がないため本来なら言葉を交わすこともできない。しかし、精霊の思考を音声にし、スピーカーを通すことで、それを可能にしている。この学校では立体音響を推奨しているため、発せられる声は人間の声帯から出るものと遜色ないほどのハイクオリティーだった。


「次に剣ですね。皆さんが腰に佩いてある分厚い刀の形状をした実質の武器です。基本的に鍔はありません。柄の先端のケーブルが利き腕のほうを伝って甲殻に接続されています。鞘から出していないときは腰の前にちらつくケーブルが邪魔だと思うかもしれませんが、これは戦闘時により障りなく剣を振るえるよう配慮した結果ですね……詳細の理由を述べられるひとは手を上げてください」


 講師はしんと静まり返る教室を見渡す。

 誰も答えないのを察し、とある優秀な女子生徒が「はい」と手を伸ばした。

 答えがなんなのかわかっているだろうに、彼女は手を上げない。この静寂なる空間で名乗りを上げ、自分が答えることで視線が集まるのに怯えているのだ。代わりに特定のページを素早く開き、立ち上がった生徒の声に合わせて、答えの文字列に指を滑らせる。


「剣を振るう利き腕と逆に接続されていると、可動域が狭まり、支障が出るからです」

「完璧な答えですね」


 影で一人、答え合わせをしていた彼女は、講師の言葉に柔くはにかみ、伸ばしていた指をぎゅっと縮こめる。にやける表情を誰にも読みとられないよう、いつもより目いっぱい深く俯いた。自分に向けられたものだったらなお一層嬉しいだろうに。俺の代わりに、誰かそう言ってやってほしい。


「ちなみに甲殻および剣の素材の大部分はウルツァイト窒化ホウ素。世界で最も硬い物質です。セツリ相手でもそう簡単に壊されることなく、また折れることもありません。しかし、その二つを繋ぐケーブルはそこまで強くはないので、扱いには気をつけてください。次に、サポーター。これには皆さんも大変お世話になっているでしょう」


 そろそろと、彼女は耳とこめかみを覆うヘッドセットに触れる。


「これも祓に必要な装備の一つですね。どこの養成学校でも、甲殻一機につき一つずつ、初期データとして学校から支給しています。祓の任務をより円滑に遂行するための情報サポーターです。セツリの位置情報やその特徴を細かに分析し、また、あらゆる物事を瞬時に演算、記録、検索してくれます。精霊のようにスピーカーからではなく、ヘッドセットから音声が流れます」講師は一拍置いて続ける。「そして最後に、精霊です」


 講師は教壇を降りて、生徒の見やすいように前に立つ。腰のあたりに手を当てると、背面の甲殻が起動した。契約した精霊の光が見開かれるように発せられた。

 甲殻が展開されていく。

 独りでに動いて、形を見せる。鱗のような頸鎧、連なる肩甲、棘のような指先をした籠手。背甲はぐぐっと伸びて腰のあたりでぴたりと止まる。腰に佩いた刀や鞘の形状も少し変化していた。漆黒の甲殻に、精霊の色が差される。

 展開完了。講師の上半身は硬い部分鎧に覆われていた。

 精霊の力を借りて戦闘モードに入った祓の姿だ。

 生徒が一斉に拍手を送る。彼女も熱心に手を打っていた。自分が未経験のことだから余計にすごいものに見えてしまうのだろう。他の生徒よりもずっと熱い目で講師の甲殻を眺めていた。

 すると、講師のスピーカーから、はちゃめちゃな女声が漏れだす。


「きゃー! 拍手喝采じゃないですかあ! すごいですよ!」拍手がやんだのと言葉が続けられたのは同時のことだった。「はじめましてみなさん! ワタクシ、みなさんの講師をされているこの主氏の精霊、名を《あと大祭だいまつり》と申します! まつりちゃん、って呼んでくださいね! 以後お見知りおきを!」


 この講師のところに降りた精霊はずいぶんと人懐っこい性格をしているらしい。己の主というものがありながらわざわざ呼び名まで指定してくるなんて、どれだけ馴れ合う気なんだよ。

 そんな精霊を、講師はスピーカーをこつんと叩いて静まるように窘める。


「たいへん失礼しました……このように、甲殻に宿り、鎧や刀を再形成し、祓に特別な能力を授けてくれるのが精霊です。降霊式でみなさんもインストールしたことでしょう。精霊のインストールは一種の契約であり、緩い主従関係のようなものです。精霊には他の生き物同様に個体差があり、その性格、纏う色、特徴――つまり、能力は、それぞれ違います。この子、まつりは、セツリの猛威が身にかかる速度を遅らせる力を持っており、攻撃を掻い潜る手伝いをしてくれます」

「ワタクシの愛の力ですよ!」


 講師はまた一つ、こつんとスピーカーを叩く。しかし精霊には実体がなく、甲殻に入っているだけで、そこに痛覚があるわけでもない。あまり意味のない行為であるにもかかわらず、《後の大祭り》は「ひどいですよ主氏~」と声を漏らしていた。じゃれあっているだけだ。

 その様子を見て、彼女は痛そうに苦笑する。

 他の人間が己の精霊と話しているのを見るたび、彼女は目を逸らしていた。居心地の悪さに俯いて、羨ましさに笑みを浮かべる。そうやって、たった一人の精霊すら満足にインストールできない自分を嘆くのだ。この一か月間ずっと見続けていた、いつもの光景に呆れてしまう。だったら早くしろ。

 講師は甲殻を休止状態に戻す。展開された装備が消えて、ついさっきまでのなんの変哲もない格好へと移り変わった。精霊の声も途端に聞こえなくなる。


「私やあなたたちは、セツリと戦うために、甲殻や剣を持ち、サポーターを受け取り、そして精霊を降ろしました。セツリと戦うため、人類の尊厳や誇りを取り戻すため。ですから、ここからは教科書内容を逸脱した……あくまで私の希望になるのですが」


 講師は慈しむように教室中を見渡した。

 彼女はその声につられるようにほんの少し顔を上げる。


「大事に扱いなさい」講師は続ける。「人生で、あなたたちが自分だけのものだと誇れることはそうないです。この力は、おそらくあなたたちが自分だけのものだと誇れる、最初の力です。自分の武器だと思って、仲良くしなさい」


 その言葉に、生徒の大半が誇らしそうな顔をする。

 結局、彼女は午前中、俯いたまま授業を受けた。



▲ ▽




 昼休みになると、この学校の食堂は賑わう。

 食堂は吹き抜け構造の高い天井を持ち、一階から三階までフロアがあった。清潔感のあるテーブルに、座るときに甲殻を傷つけないよう考慮された柔らかい素材のソファ。学生の懐に合わせて値段も低価格だ。健康面にも気を遣った美味しいメニュー、しかも品揃えが豊富ときている。大概の生徒は食堂で昼食を摂る。

 しかし、彼女は過去に一度食堂に行ったきりで、二度目はなかった。

 大抵誰もいない空き教室の日当たりのいい席を確保して、縮こまりながら自前の弁当を一人でつついている。彼女は一人暮らしをしているから、朝早くから弁当の準備をしなくちゃいけない。十五歳の少女にはけっこうな手間だろうに、彼女は頑なに、食堂へ行くことを拒んでいた。

 その食堂へ行った一度目に、相当嫌な目にあったらしい。俺の意識がおぼろげな時期だったので詳しくは覚えていないのだが、十中八九、インストールの遅さを他の生徒にからかわれたのだろう。この学校の生徒は全員、祓見習いとして入学できたことを誇りに思っている。有数の名門校なので入学試験も厳しく、そのため合格した新入生には相当なプライドがあった。精霊も碌に降ろせない生徒などもってのほか。誇り高き純粋な彼らだ、生半可な者が紛れこんでいることにいい気はしない。彼女には裏口入学の噂まであったのだ。どういう扱いをされるかは目に見えている。彼女も彼女で、こんな中途半端な未熟者が優秀な人間と同じ空間にいるのは失礼だと考えているふしがあった。だから彼女は一人ぼっちだ。

 一人で食べること自体はこの学校では珍しくもない光景ではある。特に降霊式後は、自分の甲殻に宿った精霊と一刻も早く互いを信頼するために、食堂へ行っても話す相手はもっぱら己の精霊ということが多々あるらしい。休止状態でなくスリープ状態にすれば、甲殻を展開せずに精霊と会話することができる。中庭でも弁当を膝に広げながら精霊との会話を楽しんでいる生徒の姿はいくつも見られた。

 しかし、彼女にはそれをする相手がいないのだ。残念ながら、俺のインストールはまだ完了していない。一人ぼっちで、けれどおしゃべりな彼女が選んだ話し相手は、こともあろうに無機物である自分のサポーターだった。


「ポーちゃん、今日の午後の天気はどうですか?」

《最高気温は22℃、降水確率は0%です。日本列島は全体的に高気圧に覆われています。北の風やや強く、夕方からは南東の風が吹き、過ごしやすい晴れとなるでしょう》

「えへへ、じゃあ午後の実技は野外授業でも問題はなさそうだね」


 これはひどい。

 精霊の俺から見ても、この光景は心にクる。

 サポーターはあくまで甲殻の初期データだ。聞かれたことに答え、指示に則って動くだけのシステム。だから〝ねえねえ、昨日のドラマ超面白くなかった?〟なんて問いかけても情報処理できずに硬直するだけだろうし、〝好きな色はなに?〟と聞いたところでうんともすんとも言わないだろう。彼女もそれをわかっているから、サポーターが答えられるような事務的な質問しかしない。けれどサポーターは言葉を返す。一応のコミュニケーションは成立している、いや、させているのだ。あんまりだ。しかも彼女は、サポーターに妙な渾名までつける始末。見ていてつらいから、早くしろよ。


「この教室の椅子の個数を教えてください」

『スキャンします』一秒と待たずに結果は出た。『合計四十脚です』

「やっぱりポーちゃんは数えるのが早いね」


 くそ。なにがポーちゃんだよ。くそ。

 毎日毎日飽きもせず、友達を相手にするように、平和な会話を楽しんでいる。

 見られていないからいいものを、他の生徒からしたらたいそう痛々しい光景であることだろう。自分に気を遣って、他人に気を遣って、傷つかないようにすればするほどこいつはみじめになる。そんなこいつをひとは笑う。悪循環だ。


――頼む、頼むから、もうやめてくれ、主……。


 俺の声など聞こえない彼女は、卵焼きを半分啄んでから、歌うように問いかける。


「今日の私の運勢を教えてください」

『朝のテレビ番組の星座占いから抜粋、諸々を省略します――ごめんなさい! 最下位は山羊座のあなた! 今日はなにをやってもうまくいかないかも!』

「ひええええ」


 彼女は椅子の背凭れにしなだれるように反り上げた。ぽろんと卵焼きを落としたが、落下地点は弁当の中だった。ショックを受ける彼女にかまうことなくサポーターは占いの文句を続ける。


『ヒントも助けもなく、俯いてしまうことでしょう。だけどそれを乗り越えた先にはなにかあるようなないような……?』


 もっとはっきり言え。


『諦めないで! ラッキーアイテムはアニマル柄の絆創膏です』


 諦めるわ。そんなもんあるか。

 しかし、彼女は持ってきた鞄や上着のポケットをがさごそと漁る。数秒後に「あっ、あった」と安心したような呟きが漏れた。あるのかよ。

 彼女は確認すると、その絆創膏を上着のポケットに入れる。数回ぽんぽんと上から叩いて椅子に座りなおした。そして昼食を食べながら、また同じようにサポーターに問いかける。


「今日お誕生日のひとはいますか?」

『阿部田現総理大臣やMAPSの本村拓郎氏らがそれにあたります』

「わあ、おめでとうございますって言いたいね」

『SNSおよび公式サイトのメールボックスからお祝いの文面を作成しました。送信する場合は〝はい〟を、送信しない場合は〝いいえ〟をお願いします』

「いいえ!!」


 食いつくように彼女は叫んだ。

 サポートに則っているのだから当然の返答とも言えるだろうが、予想外の変化球に相当焦ったらしい。サポーターの『メールを消去しました』という言葉に安堵のため息をつく。俺にも口があったなら、呆れたため息をついていただろう。

 彼女はふと壁の時計を確認する。あと二十分もしないうちに午後の授業が始まってしまうことに気づいた。慌てた声で「やばい、やばいよ」と呟く。せっせと残りの弁当を口に入れ、咀嚼しながら片づけをした。片手の指で口を抑えながら、授業の準備をするために早歩きで廊下を渡る。

 午後からは座学ではなく、実際に甲殻を使う戦闘訓練だ。訓練用のジャージに着替える時間や移動時間を計算して動かなければならない。

 彼女が更衣室で着替えを終え、訓練場に入ったのは、午後の授業開始の五分前だった。

 訓練場は、座学で使う教室の収納された校舎と並立している、白と灰色の建物だ。男女別の更衣室とも近接し、シャワー室も完備。中は体育館に近い構造になっていて、二階のギャラリーは強化ガラス張りにされてある。そこから主訓練ゾーンを完全に見下ろすことができ、見学者や指導官などはそのスペースで生徒を見る。また、主訓練ゾーンには訓練用の仕掛けが多種施されていて、ギャラリーへ続く階段横の制御室でコントロールできる。これも、この訓練学校ならではの設備だった。

 指導官が来るまでは主訓練ゾーンで待機。

 他の生徒は、既に己のチームメイトと合流し、固まっているところだ。各々ストレッチをしながら甲殻の調子を整えている。精霊の声のおかげで単純計算でも教室の二倍は賑やかだ。


「菜野さん」


 突然名前を呼ばれたこと、またその声の主の存在に、彼女はびくりと肩を震わせる。

 彼女を呼んだのは、チームメイトでもある一人の女子生徒――籠中かごなか仔揺こゆり。クラスどころか学年でもトップクラスの成績を持ち、午前の授業でも講師に完璧な答えだと言わしめた、生粋の優等生だ。

 まっすぐに落ちる長い髪に、くっきりとした二重の目。その瞬きは蝶の羽ばたきを思わせる優雅さを持っており、ため息の似合う極上の美人である。

 だが、彼女は、籠中仔揺にため息をつかせることを怖がる。また落胆されたことに、否が応でも気づいてしまうからだろう。


「……今日も連携実践は無理そうね」籠中仔揺は愁いの吐息を漏らす。「二人が来たら、上に行きましょう。もう指導官も察してくれるだろうし」

「ご、ごめんなさい……」

「謝らなくていいからしっかりしてよ。いつまでも不参加のままじゃ成績は下がる一方なんだからね。チームの評価にも関わってくるの。ちゃんと理解してる?」

「……う、ん。わかってる」


 覇気のない彼女の声に、籠中仔揺はまた一つ嘆息した。

 この訓練学校の実技の授業を受けるにあたって覚えておかなければならないのが、チームという単位だ。実技訓練には連携実践と個人技の二つが存在するのだが、前者の訓練の際にチームが必要になる。成績などを考慮し、指導官が括った四人一組をそう呼んでいる。

 個人技を磨くことも重要だが、このチーム・アクション――連携実践は授業の花形でもある。ダミーでもバーチャルでもない、本物のセツリと戦えるシミュレーション訓練なのだ。誇りを持って入学した生徒は皆、この実践授業に参加して初めて、真の訓練生と言えるのだと考えている。それほどまでに、この授業の価値や存在感は重い。

 しかし、それだけに制限もかかる。入学すれば誰でも連携実践に参加できるわけではなく、成績レベル30を超えていなければならないという制約があった。そのレベルに達していなければ指導官も参加する許可を出せない。あくまで本物のセツリと戦うのだから、それなりの危険が伴う。生半可な気持ちではだめだということだ。

 なんて、脅かすような言いかたをしたが、一般的に見ればレベル30というのはそれほど高い成績でもない。成績レベル30というのは、普通に生活していれば、入学してから一ヶ月――暦の上で五月に差しかかれば全員が達しているはずの基準値だ。個人技や座学の授業態度、小テストなどで点数を稼げば、それほど難しい数値ではないのだ。概ねの生徒はその数値に達している。

 例に漏れず、彼女一人を除いて。

 俺をインストールするのに丸一月もかかっている、十億分の一の劣等生と名高い落ちこぼれだ。座学で稼いだ点数でこつこつとレベルを上げていったが、さすがに指導官も精霊を使えない生徒に実践のゴーサインは出せない。彼女のレベルは制約の一つ下、29という数値でずっと停止している。

 俺を完全にインストールしないかぎり、彼女が連携実践に参加することはない。

 そしてそれは、彼女のチームメイトも参加できないことを意味している。


「んあーあ……つまんないのー」


 二階のギャラリーで固まった、彼女を含む四人は、強化ガラス越しの主訓練ゾーンを見下ろしていた。長いベンチに腰かけているがその一つ一つの間隔は広い。特に彼女は隣といっとう間隔を開けて、なるべく三人の視界に入らないように心がけていた。

 さきほど文句を垂れたのはチームメイトの一人、実花みかじま英繰えぐるという男子生徒だ。

 倦怠的な口調からわかりにくいが、こいつの実力は相当なものである。本来ならばここで見学することもなく、連携実践などいの一番に参加し、その頭角を現していたことだろう。その証拠にこいつの成績レベルは基準値を優に超える。


「チッ、なんで俺様がこんな低レベルな連中の訓練なんか見てなきゃなんねえんだよ」


 そんな男の隣で不機嫌丸出しの顔をしているのが、同じく彼女のチームメイトの一人である男子生徒、翼切つばきり飛馬ひめ

 かわいいのは名前の響きだけだ。こいつは存在そのものが牙に似ている。常に苛立ちを含んでいるような粗野な言動に伴い、目つきも悪い。足癖も悪い。俺はこいつのこういうところが嫌いだ。今日も目の前のベンチを蹴り飛ばし、強い音を立てた。

 肩を震わせた彼女と翼切を隔てる位置に座っているのが籠中。指導官に渡されたボードホルダーを持ち、挟まった紙の記入欄にペンを滑らせていく。


「しかたないでしょ。物に当たってないでレポートでも書いたら? 私たち見学組は実際の参加者と違って正規の点数はもらえないんだし、ここでちゃんと稼がなきゃ」

「いまさら点数もらったってなぁーんも変わんねえだろうが」

「そーそー、飛馬くんの言う通り」実花島がベンチの背凭れに腕を回した。「俺たちもう打ち止め食らってるんだから」


 その通り。彼女を除くこの三人の成績レベルは上限の99。学年でいち早く上限に達したレベルカンスト組である。座学においても実技においてもこの三人の右に出る者はなく、名実ともに優等生だ。

 そんな三人となぜ彼女がチームメイトなのかというと、指導官の奥深い計らいが原因だった。落ちこぼれの彼女に優等生三人をつけて、その他のチームとバランスをとろうとしたのだ。彼女の才能の開花にも一役買うと判断したのかもしれない。実際は、三人の足を彼女が一人で引っぱるという、予想外すぎる羽目になっているのだが。

 彼女は体を縮こまらせて、籠中と同じように、レポートに従事している。連携実践に参加できない者の点数稼ぎのために渡されたもので、他の生徒が訓練しているのを見て、気づいたことを書いていくのだ。この二週間ほどで彼女はすっかりレポート用紙を埋めるのが上手くなっていた。真面目な籠中ですらまだ半分しか書けていないというのに、彼女のレポートは既に二枚目にまで及んでいる。


「おいポンコツ」翼切が毒のある声を上げた。「俺様のレポート、お前が書いとけよ」


 ポンコツ、という呼びかけが彼女を指すものだというのは明白だ。これには俺もムッとなる。けれど当の彼女は物申しの一つもなく、そろそろと顔を上げて一番奥にいるそいつの顔を見る。そして、目に映った、甘さを裏切り続けるような眼差しに、簡単に屈してしまう。反抗すればいいのに、それ以外の返答などないというような顔で彼女は頷いた。

 途端にレポート用紙を投げだしたのを諌めるように、籠中は「翼切くん」と吐いた。けれど、それはあくまで優等生として不正を許さないがゆえの正義感であって、彼女を庇うための正義感ではない。

 そんな籠中を「真面目ちゃんだな」と翼切は吐き捨てる。


「どうせあいつらから学ぶことなんかねえよ。俺様のほうが強いんだから」

「そういうこと言ってるんじゃないの……菜野さんも、簡単に頷いたりしないでよ」

「……うん」

「簡単に頷いてるじゃねえか」翼切は鼻で笑った。「籠中がよくて俺様には頷けねえなんて理由はねえよな? ポンコツ」


 どうしていいかわからず頷きかけた彼女を、籠中は睨んだ。彼女はすぐに口を噤んだが、籠中は「しっかりしてよ」とため息をついた。翼切の機嫌だって治らない。一連の会話を聞いていたにもかかわらず、実花島は我関せず、あくびを一つこぼしただけだった。

 このチームが上手く回っていないことは、第三者の目から見てもあきらかだ。一人はマイペースで揉め事にも興味を示さず、自分がよければそれでいいというスタンスを保っている。もう一人は多大かつ妥当な自信を振りかざして横暴を貫き、もう一人はそれを嫌忌しながらもあえて調和を計ろうとはしない。運が悪かった。もしも残りのチームメイトである彼女が劣等生などと呼ばれるような立場でなければ、こうも拗れることはなかったように思う。決して誰が悪いわけでもないのだ。自分の腕に誇りがあるからこそ、彼らは歩み寄りもしないだけ。徹頭徹尾ドライな関係を貫いている。我の強い優等生が三人と、劣等生の彼女。不和が起こるのは当然だ。三人は自分自身の力量と全く見合わない現状に辟易していた。

 足を引っぱっているという自覚は、彼女にもあった。

 被害妄想ならどれだけよかったろう。実際彼女に力はないし、実力のある彼らは彼女を責めている。上手く回るわけがなかった。

 三秒たっぷりと伸びたブザー音。

 連携実践の終了を意味し、次の個人技の訓練までに十分の休憩を挟む。

 主訓練ゾーンにいた生徒も、反省会も兼ねた休憩のために、二階のギャラリーへと集まってくる。スポーツドリンクを飲んだりタオルで汗を拭いたりと様々だ。大半の生徒はジャージの上着を脱いで涼を取る。訓練後の熱気は相当だ。指導官の監督下とはいえ実際のセツリと戦うのは大変なのだろう。

 チームごとに一つのベンチへと向かうなか、女子だけで結成されたとあるチームの生徒たちは、籠中のところへ集って話しこんでいた。彼女らは籠中と普段からつるんでいる女子グループで、籠中と比肩するにはまだまだ劣るが、決して成績が悪いわけでもない。向上心もあるので、戦闘を上から眺めていた籠中に意見を求めるのは毎度のことだった。


「そろそろ訓練を再開しようか!」指導官は声を張り上げた。「いつも通り、一つのバーチャルコートに一人ずつ。チームメイトの者はギャラリーで待機。そのあいだ、チームメイト以外の者はプレイコートで対人訓練をすること。対戦相手は各自で見つけてくれよ」


 生徒たちが返事をすれば、指導官は個人技の生徒を指名する。その生徒の中には籠中の名前もあった。連携実践に出られないことを考慮し、指導官は彼女のチームメイトを優先的に個人技に指名する。籠中の次は翼切か実花島のどちらかが指名されるだろう。このときばかりは彼らの機嫌も回復した。優等生の彼らは渇望するように、自分の力を振るいたがっている。

 バーチャルコートに立った籠中仔揺が甲殻を起動させた。

 漆黒の鎧が水色の光から這い出でる。肩を防護するのは仰々しい大袖。背面からさらに黒は伸びてベルトのように腰や鳩尾を締めつけた。装甲は足元にまで下り、形状を変化させる。ヒールの鉄靴は鋭い拍車を備え、堂々と地を踏んだ。踊り出るのは毅然とした女戦士。一筋の瑞々しい光がケーブルを伝い、剣と鞘に宿る。


「休憩は終わり。やれる? 燦然」

「もちろんです、あるじさま。どこまでもお供いたしましょう」


 ギャラリーのスピーカーから、籠中と、その精霊の溌剌とした女声が流れた。

 燦然こと《懲役燦然年ちょうえきさんぜんねん》――振るえば振るうほどに相手の速度を奪い、自らの攻撃速度を増幅させる特徴を持つ。契約した主の動作速度が増すわけではないが、解き放つ一閃は誰にも止められない。レアリティはそうないが、斬る能力に特化している。


「それでは、始め!」


 バーチャルコートの照明は落とされ、光源は足元のライトだけになった。数秒後、天井や壁際からビームのような光が幾重にも伸び、白く発光するデモ・ドールが形作られる。セツリの動きや形を模したバーチャルだ。本物よりも危険度は低いが、それでも楽に制せるような相手ではない。

 他にも訓練を行っている生徒はいたのに、彼女は籠中のコートを一途に見つめている。籠中はギャラリーにいたときよりもずっと砕けた、それでいて真剣な表情で、剣を鞘から引き抜いた。己のサポーターに指示を出す。


「これより戦闘を開始。並列し、各個の速度計測とその解析を申請します」

『了解しました。サンプルの収集を開始します』


 籠中の戦いかたには他の者にはないスタイルがある。その武器の性質上、始めの数分は情報収集に専念するのだ。攻撃してくるセツリを躱す。剣の刀身でいなして一定の距離を保つ。あえて近づいてスキャンするパターンを増やし、精度を上げることもあった。


『収集が完了しました。エネミーの動作速度はユーザーの1.8倍です。引き続き、計測と解析を行います』


 籠中は相手を見据えたまま、二、三度剣で空中を切った。奮いたった闘牛が後ろ足で地面を蹴る動作に似ていた。それから持つ位置を確認し、剣を構える。


『エネミーの動作速度はユーザーの1.5倍です』

「上手く攻撃を躱しさえすれば速さもすぐに追いつけましょう。私たちの敵ではありませんな!」


 籠中は「そうだね」と笑んで、力強く駆けだした。

 激烈な、光が躍るような戦闘だった。デモ・ドールに斬撃を入れ、ひらりと躱しては胴を断つ。籠中が剣を振るうたびにその速度は増し、それを引き立てるように大量のデモ・ドールの動きが鈍っていく。純粋に、見事な試合だと思う。俺から見ても籠中の実力は本物だと思った。他の生徒と比べても明らかにレベルが違う。斬っては現れる相手を何度も薙ぎ払い、光の像から無に還した。

 誰もが籠中を目で追っている。羨望の色を含んでいないのは翼切や実花島くらいのものだ。この二人だけは目の前で起こる偉業を当然の眼差しで傍観していた。

 剣を振るうたびに輝きを放つ。

 目も眩むようなまばゆい一閃。


『エネミーの動作速度をユーザーが上回りました。エネミーの解析を放棄します。現在のユーザーの攻撃速度は初期値の1.8倍です』


 もうデモ・ドールの速さでは籠中の斬撃からは逃れられない。デモ・ドールが身を翻すよりも先にその切っ先は届く。

 これがトップクラスの生徒の力だ。

 ギャラリーに帰ってきた籠中と交代で翼切が入る。悪戯に口角を吊り上げてギラギラと笑んでみせる。自信に満ちた表情をしていた。


「やっぱりすごいね、籠中さん。翼切も実花島もさ」

「あそこのチームは三人揃ってカンスト組だからね」


 わかってはいても俺まで落胆する。

 三人揃って、なのだ。チームのなかで、未だ彼女の存在は頼りない。

 俺を目覚めさせないかぎり、彼女は戦力としてカウントされない。そのことに傷つかない彼女ではないし、悔しく思わない彼女でもない。だけど真実だから、黙って口を噤む。ただただじっとこらえている。


――……俺を使えば、お前だってすぐにあいつらみたいに戦えるんだぞ。


 俺の言葉は届かない。

 意識があったとしても、彼女に俺の声は聞こえない。


――本当に、早くしろよ。


 いったいいつまで待たせるつもりだ。

 インストールなんて、さっさと終わらせろよ。



▲ ▽




 実技訓練も全て終わり、大半の生徒が更衣室へと戻っていった。彼女は訓練場のすぐそばにある水道で顔を洗っているところだった。ざばざばと水を浴び、タオルで拭いていたところを、指導官に呼びかけられる。


「菜野さん。今日は調子よかったね」


 彼女は目を丸くして「ありがとうございます」と返した。目に見えて不思議がっている。俺も不思議に思った。この実技訓練中において、彼女の調子がいいときなどあっただろうか。他の生徒のように連携実践に取り組んだわけでも、チームメイトのようにバーチャルコートに立ったわけでもない。指導官に評価されるほどのことと言えば見学中のレポートくらいだ。


「対人戦、よかったよ」しかし、指導官が褒めたのはそこではなかった。「ディフェンスが見事だった。そこからの切り返しも。菜野さんは剣術の才があるのかもしれないね。あれは独学で?」

「はっ、はい。本を読んだり、ネットで動画とか見ながら……」

「なるほどね。でも、それにしては妙に慣れてるっていうか、一つ一つの流動が鮮やかなんだ。誰よりも対人戦の経験を積んでいるからかもしれないけど」


 そこで初めて指導官は苦笑した――セツリを相手取る祓にとって、対人戦はおまけでしかないからだ。慣れない剣を円滑に振るうための補助的な訓練。やはりメインは甲殻と連結した戦闘である。あまり褒めすぎるのも彼女のためにはならない。


「でもね、菜野さんの剣はいつか実になると思うんだ。インストールが完了すればその力に頼ることになるだろうけど、太刀筋はいい。そのまま続けなさい」

「……はい!」


 彼女は顔を緩めた。指導官と離れたあとも、タオルに顔を埋めて「うふふふ」とにやけていた。そのままフラフラくるくると回るものだから壁にぶつかってしまった。

 彼女はタオルを口元に宛がいながら、更衣室のドアを開ける。


「仔揺なんてレベル99なのにね。あの子に足引っぱられて可哀想!」


 響き渡った言葉に息を呑んだ。タオルの毛が音を吸収したため、話をしている人間は彼女に気づかなかった。けれど彼女は気づいた。現在進行形でレベル99の生徒など限られているし、その生徒の足を引っぱっている生徒なんてたった一人しかいない。


「今からでも私たちとチームを組み直そうよ、先生にもかけあってさあ」

「そうだよ。仔揺と組みたいな!」


 更衣室の奥で数人の女子生徒が話をしているらしい。ロッカーの壁を隔てているためお互いの姿は見えない。

 中に入ることを一瞬躊躇うようなそぶりをしたが、最終的に彼女は音を立てないよう室内に入ることを選んだ。選ぶな。なんでわざわざ傷つきに行くんだよお前は。着替えなきゃいけないっていってもタイミングがあるだろ。下校時刻だってまだ余裕があるんだから、そんな無理しなくても……ああくそ、どれだけ言っても聞こえないんだから、意味がない。


「ねえねえ仔揺、チームになろうよ」

「無理に決まってるでしょ。もう一度決まったことだし、空きがあるわけでもないんだから。先生にも迷惑がかかるよ」

「ああ、もう、悔しいなあ。仔揺なんて連携実践出たら絶対活躍できるのに!」

「あの子のせいで仔揺の成績まで下がっちゃうなんておかしくない?」


 女子生徒たちの言葉は正しさを貫いていた。正しいことを言っている自覚と自信のある、絶対的な響き。だけど、そんなこと彼女だってわかってる。言ってやりたいのに。


「でも本当、いつになったらインストールが完了するんだろうなあ」

「十億分の一の劣等生は伊達じゃないっていうか。もう一ヶ月以上もあの格好のままとかおかしすぎでしょ。やっぱり裏口入学なんじゃないの?」

「うっわ。そうまでして祓になりたいって、その程度の力で!? 誇りはないのかなあ!」

「こっちは祓を目指して必死でやってるってのに……あの子みたいな中途半端な子がいていいの? インストールが完了しないのだって、そういうところを精霊に嫌われてるからなんじゃない?」


 やめろ。なにも知らないくせに勝手なことを言うな。

 そう言いたいのに、やはり声は出ないのだ。

 女子生徒たちの心ない言葉は何度も彼女の胸を抉りとり、払い捨てた。

 彼女はただロッカーの陰に息を潜めて立ちつくしていた。

 女子生徒たちは何事もなかったかのように更衣室を出る。残ったのは今日も一日中針山のように扱われた彼女だけだ。インストールが完了しないかぎり、真面目に登校することすら周りにとっては滑稽なのだ。後ろ指を差されたことは一度や二度ではなく、責められたことは三度や四度では足りない。

 もう彼女だって、限界だった。

 着替えてすぐに家に帰った。彼女らしからぬ荒々しい動作で家の中に入り、明かりもつけずにリビングのドアを開ける。甲殻を定位置に置いてからギリッと唇を噛みしめた。

 橙黄色の瞳は滲んでいた。

 体中から湧き出るものを抑えるため、深く息を吐いている。

 けれどそれは、その小さな体で抱えこむのにはあまりにも大きすぎて、まるでつぎはぎの隙間からこぼれるように落ちていった。彼女はゆるゆると首を振る。


「違う、違うのに。私は……でも、私が、悪いの……? 私がだめだから、私が、私が、私だって……!」


 しゃがみこみ、歯を食いしばりながら両手で顔を覆う彼女。喉の痛そうな嗚咽がハッと漏れた。しばらくすると、彼女は顔から手を離して、ぼんやりと甲殻おれを見つめる。周りと比べて当然静かである己の武器に、悲痛に顔を歪ませた。


「どうせ……話も聞けないんだもん。今日は、たっぷりと、私の愚痴に付き合ってもらうから…………あのね……実はね、」


 じわじわと、彼女は泣きだした。

 言葉は涙とからまり、水浸しの声として空気を震わせるだけ。

 あのね、あのね、と。彼女は何度も言葉を重ねた。けれど、結局彼女はなにも言わなかった。つらそうに泣くくせに、その先を紡ぐようなことは決してしなくて、ただその場で泣きじゃくる。泣き疲れた彼女は目を真っ赤に腫らし、そのまま眠ってしまった。

 カーペットの上とはいえ、ふとんもなしに寝るなんて。第一、部屋着に着替えてもいない。体だって痛くなるはずだ。でも俺は声が出せないから、起こしてベッドへ促すこともできない。無力だ。俺は彼女が溜めこむのをじっと眺めるだけ。泣きながら何度もあのねと囁いた、さきほどの姿が記憶から離れない。

 いい。泣くほどつらいなら、みじめで悔しいなら、言わなくていい。わかってる。

 一ヶ月ものあいだずっと見てきたんだ。降霊できた同級生をまともに見れないことぐらい、わかってる。馬鹿にされるのが怖くて一人でいるのだって。優秀なチームメイトに迷惑をかけるのが申し訳ないのだって。相手のほうが正しいから、つらくても言い返せないのだって、わかってる。

 それでも、そのときが来るまで耐え忍ぼうとしているのも。認められたくて陰で努力しているのも。俺に挨拶をするときは、まっすぐに見つめてくれるのも。嫌いじゃなかった。


 嫌いなわけが、なかった。


 早くしろ早くしろ。

 もう、なにも言えずにただ眺めているのにはいい加減うんざりなんだ。

 きっとこれからも馬鹿にされ続ける。無神経な正しさで、針のような言葉で、これからもずっと傷つけられる。そのたびに俯いて我慢するつもりか。また、誇りはあるのかなんて、当たり前のことを否定されるぞ。この膠着状態を終わらせないかぎり、状況は変わらない。周りを妬むくらい俺を心待ちにしてるんだろ。

 それだけ苦しいのなら、泣くほどつらいのなら、みじめで悔しいのなら、早くしろ。


 俺がいるから、主。



▲ ▽




 その日も彼女は俯くことしかできないでいた。

 天気がよかろうが占いが悪かろうがなにも変わらない。静かに授業を受け、一人で昼食を摂り、縮こまって訓練に参加する。そうやって一日の講義を全てこなしていた。違うことといえば、実技訓練後、指導官から連絡があったことくらいだ。


「もうすぐ中間テストを迎える」


 指導官を前にして半円形状に集った生徒たちの表情が、少し強張った。


「君たちにとっては最初の試験だね。毎回座学と実技、両方のテストを実施していて、内容はテスト一週間前に発表される。座学のほうは真面目に授業を受けていれば大体の予想はつくだろうが、実技のほうは完全に秘匿だ。ただ戦うだけだと思ったら大間違いだということを覚えていてほしい」


 はい、と生徒の返事が重なった。

 指導官も頷いたあと、「連絡は以上。解散」と張り上げる。

 散り散りになっていく中で彼女だけは、未だに強張った表情をしていた。足を引っぱってしまうことを恐れているのだろう。ふとチームメイトに視線を遣れば三人ともが自分を見ていることに気づく。震動が伝わるほど、あからさまに彼女はびくついた。

 そのとき、彼女のすぐ近くにいた生徒と彼女の肩がぶつかった。


「あっ」


 そう言ったのは誰だったか――彼女はぶつかった拍子にバランスを崩し、床に尻もちをついた。ガシャン、と衝撃を受けた甲殻が音を立てる。彼女はハッとなって背面を振り返った。甲殻のスピーカーの一部が壊れ、部品が転がっていた。

 彼女はサッと血の気の失せた表情を浮かべる。


「菜野、大丈夫か!」


 気づいた指導官が彼女に近寄る。転がった部品を見て顔を顰めたが、すぐに甲殻の状態を確認して「部品が取れただけだ。大した影響もないしすぐに直る」と彼女をなだめる。彼女は力なく頷いた。立ちあがったあとも、まだ呆然としているようだ。


「ちょっと! ぶつかったんだから謝りなよ」


 一連の流れを見ていた籠中が、素通りしようとしていた相手に声をかける。友人らといたその生徒は不機嫌そうに振り返った。


「は? なんで俺が。そいつが勝手にこけただけだろ」

「謝るのがマナーでしょ。それを差し引いても、他人の甲殻を破損させたんだから当たり前じゃない」

「相変わらずお前は真面目だなー。大したことないって言ってんだからいいじゃねえか」


 ぶつかった生徒は彼女を一瞥すらしない。話しかけられているのが面倒だと眉間に皺を寄せる。その場の人間も、彼の意見に概ね賛成らしい。籠中の友人らにしたところで「そうだよ」となだめるようなことを言う。


「ちょっと部品が取れただけでしょ」

「仔揺も放っておこうよ」

「いや、でも」

「ああ、もう、いいだろ別に。うぜーぞお前」


 その言葉に反応したのは籠中本人ではなく、《懲役燦然年》だった。溌剌とした声を厳しくさせて「なにを言うか貴様!」と怒鳴りつける。


「あるじさま。抜剣を。この無礼な輩に一太刀浴びせねば気が済みません!」

「私は気にしてないから落ち着きなさい、燦然」そう言ってから籠中は彼女に目を遣った。「ほら、黙ってないで菜野さんもなにか言いなよ」


 いきなり話を振られた彼女にまともな返事はできない。自分が空気を悪くしているのだと思えば下手なことも言えないのだ。居た堪れないと感じているのがわかる。視線をさまよわせながら「あ」だとか「う」だとか呻くだけだった。


「先生ー。更衣室の鍵、早く渡してほしいんだけど」


 訓練場の入り口の付近では実花島や他の生徒が指導官を待っていた。呼ばれた指導官はこちらとあちら、どちらを取るべきかと混乱してしまう。


「もういいじゃん、仔揺」「なに言ってるの」「先生ー、鍵ー!」「ちょっと、なにが起きてんの」「また菜野さん?」「部品が壊れたんだって」「うわ、男子ってサイテー」「は? なんでだよ」「先生! 早く!」「別にこれで終わりでいいのに」


 ざわざわと訓練場に声が響く。

 もう完全に収拾がつかなくなっていた。

 ただ言葉が折り重なっていくだけで解決させる者がいない。負の巣窟だった。

 自己のぶつかり合う空間で、彼女はただ一人俯いていた。原因を作ってしまったのを恥じて、これ以上火に油を注がないよう唇を噛みしめている。

 そんな彼女に、ぶつかった生徒は、嘲笑うように指を差す。


「そもそもこいつにはスピーカーなんていらないだろ」


 まさに、その直後のことだった。



ピ――――――――……

『インストールが完了しました』


 

 機も熟し、最も充実した一瞬に、その声は響いた。

 淀みもなく事務的な、彼女のサポーターの言葉は、空気に水を打つ。ぴしゃりと。

 もう誰もなにも言わない。驚愕に目を剥いている。その視線が集中するは硬直した彼女。興奮に見開かれた目は動揺していた。

 己のなにもかもが逆転し、けれど正転し始める、絶好の時。


『データの上書きを実行します。カスタマイズ開始。周囲から適切な距離を保ってください』


 次になにが起こるか知っている他の人間は、彼女からざっと退いた。

 湧き出たのは、ありとあらゆる輝きを集めたかのような黄金の光。

 電子の光から生まれ出ずるように、生まれ変わるように――俺が展開されていく。

 背面から漆黒の腕が胸部を締めつけ、腰に落ちてキュートレットを形作った。左腕には刃状の盾のついた、右腕には指の第一関節から手首ほどの短さの籠手。刃のような鉄靴。細長く堅牢な鞘が形成されれば、ケーブルやラインに光が送られる。

 バネがグンッとしなるように熱いエネルギーが蠢く。まるで全身が俺に馴染んでいくような、流動的な時間だった。待ち焦がれた実感が湧く。この体は彼女を守り、この刃は敵を薙ぐ。光が落ち着きを取り戻し、ついには、俺はそこへ定着した。


『カスタマイズ完了。スピーカーにコネクトします』


 一言目は彼女にと決めていた。

 いつも俯いている、この不憫なほど可哀想な彼女に、ずっと言ってやりたかった。

 眺めているだけでただの無力でしかなかった俺が、いま、産声を上げる。


「――主、もう大丈夫だぞ」


 自分でも驚くほど優しい声がスピーカーから漏れた。

 きっとそれ以上に主は驚いたのだろう。はっと息を呑んで肩を強張らせた。

 ずっと今日まで、いったいこれまで、どれだけ苦しんできたか俺だけが知っていた。

 けれどもう、なにも心配しなくていい。


精霊大《おおいなる無力むりょく》は正常に起動しました。おめでとうございます』


 サポーターの声が高らかに響いた。

 それっきり、この空間から音の一切が消える。

 誰もが黙りこんでいるようだった。

 けれど、残念だったな。もう俺には声がある。黙りこむしかなかった前とはわけが違う。


「お前らなあ……お前らなあ、お前らなあ。こっちが黙ってりゃ……好き勝手言いやがって」


 今度は驚くほど低い声が出た。まるで俺の感情が重みとなっているかのよう。

 やはり話せるというのはいい。自分の意思を相手にきちんと伝えることができる。俺はこれまでの自分の思いを言葉に乗せるように、強く吐きだした。


「たしかに俺の主はインストールに時間のかかる困った人間だ。だが、それが何故悪意をぶつける理由になる。なにが裏口入学だ。お前らの逞しい妄想の餌にしやがって。軽率に論じるお前らにその責任は取れんのか。お前らにこそ、誇りはあるのか! それにそこのお前。部品が壊れただけだとか言ってたな。それを聞いた自分の精霊がどう思うのか、考えたことはあるのかよ。一ヶ月以上一緒にいたくせにそんなこともわかんねえやつのほうが根っからの劣等生だ、いいか!」俺はひときわ声を張り上げる。「こうして俺が目覚めた以上、もう菜野まふゆを馬鹿には――」

「菜野さん!」


 指導官が主の両肩を掴んだ。

 おかげで俺の言葉は中断され、せっかくの機会がぼやけてしまった。


「よかった、インストールが完了したんだね! おめでとう! さっそくだけど、監査室に行くよ! 降霊した、ええと、なんだっけ、《大いなる無力》? 彼について調べなくちゃ! 担任の先生にも報告しなくちゃいけないし、ほら、行くよ!」

「は、はいぃ!」


 入り口付近の生徒に鍵を渡した指導官に、主は腕を引かれた。生徒の群れから離れて行くことに焦った俺は「おい! 待て!」と声を荒げるも、止まる様子はない。くそ。こういうとき、自分の体がないのが悔やまれる。まだ言いたいことがあるのだ、このまま引き下がってたまるかと抗議しようとしたとき、主が遠慮がちに声をかける。


「あの……もう、いいです。すみません」


 呆然として、まだなにが起こったのかわかっていないような頼りなさ。

 しまった。俺がしっかりと伝えてやるべきはこっちだった。


「ああ言ってくれてありがとうございました。でも、私は、あの……」

「……わかったよ。お前が、そう言うなら」


 そう引き下がると、彼女は驚いたように目を見開いて、それからおずおずと「ありがとう」と言った。初めて交わした会話がこんなのなんて、少し情けない。

 主と俺は監査やら報告やら手続きやらで学校中を連れ回された。目まぐるしい時間で、授業を受けたあとよりも、主は疲れたような顔をしていた。まだ思考が現実に追いついていないようで、講師同士が話しているときも、まるで他人事のようにぼんやりしていた。そうこうしているうちにすっかり日は暮れ、スクールバスの出ない時間帯になってしまった。おかげで帰りそびれてしまった主を講師は車で送った。

 二人きりで話せるようになったのは家に帰ってからだった。


「ただいま……」

「おかえり」


 いつも通りの独り言だったのだろう。返事が来ると思っていなかった主は数瞬固まった。けれどすぐに意識を取り戻して、リビングに向かう。

 主は俺を定位置に下ろし、目の前で正座する。

 なにか言おうとして、すぐに閉じる唇。何度もはくはくと動かす挙動不審な彼女の視線は、斜め下。しばらく膠着状態が続いた。目の前の彼女がなにか言いかけているのだ、辛抱強く待ってやるべきだろう。本当はいろいろ話したいし、急かしてでも聞きたいのだが、懸命な彼女を見ていればそんな欲も我慢できる。じっと待ってれば「あの」と小さく音が紡がれた。


「痛いところ、とかは……ない? ほら。こけたときに」

「痛覚があるわけじゃないから平気だ。俺よりも、そっちこそ怪我はないか?」

「私も平気」

「ならよかった」


 俺に慣れてきたのか、主の肩の強張りはほぐれてきていた。埋もれていた白い首が襟から覗く。中に侵入していた髪がくるんと跳ねて肌を引っ掻いた。そこにくすぐったそうに触れて、上着の緩い袖を引っぱる。手持ち無沙汰のようでしぐさが忙しなかった。


「……あの、ごめんなさい」

「なにがだ?」

「目覚めさせるのが遅れてしまって」真摯な眼差しに睫毛の影が覆い被さる。「話を聞いてると、意識があったみたいだし……すごくつまらなかったんじゃなのかなって。そんなの知らずに私。本当にごめんなさい。私、もっとちゃんとしますから、だから」

「つまらなかった。お前はなにも言い返さないし、俯いてばかりだったからな」俺は被せるように言ってすぐ、勘違いさせないために続ける。「だけどちゃんとわかってたよ。お前が一人で頑張っていることも。俺を待ってくれていることも。それにそこまで退屈でもなかった」


 呆れることのほうが多かったから、とは言わないでおいた。ここまできて言及するようなことでもないだろう。わざわざ主を不安にさせる必要もない。


「だから謝らなくていい。というより、謝るようなことじゃないんだ」

「…………」

「ずっと、大変だったよな。主」


 俺の言葉に、そろそろと顔を上げる。

 まろやかな橙黄色の目が俺に注がれた。

 下ばかり向いているから、この心地好さを誰も知らない。たった俺だけだ。ずっと今日まで、いったいこれまでどれだけ苦しんできたか、俺だけが知っていた。だから、いつも俯いている、この不憫なほど可哀想な主に、ずっと言ってやりたかった。


「俺が来たからにはもう、心配しなくていい」


 俺を見つめる瞳が熱く震えるのが愛おしかった。もし体があったら、きっと慈しみを持って触れていたことだろう。そうする代わりに、言葉で抱きしめるよう、俺は囁く。


「俺はお前を守り、お前と共に戦う、お前だけの武器」


 袖から覗く少女らしい小さな手は、ぎゅっと握り絞められていた。

――どうか俺が、俺の言葉が、いつか彼女をふるわす力になりますように。


「誇りを取り戻すぞ」


 主は、はらはらと泣いた。

 悲しみの滴ではもうなかった。

 真っ白い頬を伝って顎に滴るそれは、わずかにきらめいていた。

 水浸しになった声で、主は懸命に「ありがとう」と紡ぐ。


「本当に、ありがとう」

「ああ」

「大事にします」

「嬉しいな」

「いっぱい使います」

「力になろう」

「明日から、よろしくお願いします」

「こちらこそ、主」

「まふゆ」

「え?」

「まふゆって呼んで。主じゃなくて、名前で」


 俺は少しばかり躊躇った。誰かを呼び捨てにすることはあったが、あくまでそれは主ではなかったからだ。契約を結んでいない人間はぞんざいに扱えるし敬意だって払わない。けれど彼女は、そのように、俺に名前で呼ぶようにと求めてきた。

 まあいいさ。

 彼女たってのお願いなら、叶えてやらないわけにはいかない。


「わかった。よろしくな、まふゆ」


 そう返せば、まふゆは頬を緩めた。ほたっと涙が床に落ちる。目元を袖で拭ったあと、蕩けるような声で俺に言う。


「だいすき。ナルくん、だいすき」


――ああ、もう。

 そんなに泣いたら目が真っ赤になるぞ、とか。また変な渾名を考えついて、とか。せっかく声を得たのだから言いたいことはたくさんあった。

 あったのに。

 そんな笑顔で、まっすぐな瞳で見つめられたら、俺はもうなにも言えないのだ。

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