第6話 値引き交渉はほどほどに
ある日、「未来旅行社」の扉を開けたのは、佐藤と名乗る男だった。
その男は、以前に偶然立ち寄ったこの旅行会社で体験した、「未来旅行」を忘れることができなかった人間の一人である。
「未来へ行きたいのだが、いくらかかるんだ?」
佐藤は、ソファーに腰を掛け、「店長代理」が目の前にコーヒーを出したところで、そう繰り出した。
佐藤の目の前に、価格表がついたカタログを差し出しながら、「店長代理」は佐藤の質問に答え始めた。
「基本料金はカタログ記載の価格となります。
それ以外に、オプション契約の有無で、追加料金が決まります。」
カタログに記載されている価格表に目を落としている佐藤の表情からは、想像を超える高額料金に、一瞬だけ顔が強張ったが、すぐに入店時から続く大柄な態度に戻って、「店長代理」に対して、価格交渉を始めた。
「この基本料金っていうのは、長期間の場合には当然まけてくれるんだよな。
さすがに、一日単位の値段と年単位では、値段は変わってくるんだろ。」
長期間の料金に関して、安くなって当然という態度で、交渉をしてくる佐藤の態度に対して、いたって事務的に「店頭代理」は返答を始めた。
「当店の旅行代金に関しましては、すべて一律料金となっております。
通常、長期のご旅行に関しましても、一日当たりの価格に関しましては、カタログ記載の価格でご提供をさせていただいておりますため、大変申し訳ございませんが、お客様のおっしゃるような価格設定でのご旅行はご提供できかねてしまいます。」
値引き交渉自体を受け付けない態度に佐藤は苛立ちを覚え、語気を強めながら「店長代理」が不愉快になる態度を取り始めた。
「客に対して、その態度はなんだ。
こっちは客だぞ。
お前みたいな若造じゃ話にならない!
上司を連れてこい!!
今すぐ!!!」
クレーマー気質満載の佐藤さん。
佐藤にとって価格交渉とは、客としての立場を最大限に使って、いかにも店に非があるあるような態度で、交渉することのようである。
「大声を出されても、価格に関して変更はございません。
当店の価格にご納得いただけないようであれば、今回はお客様とのご縁はなかったという事になりますので、お引き取りいただければと思います」
大声で叫びだした佐藤に対して、努めて事務的に対応する「店長代理」。
その程度の言葉では、帰る気配も出さない佐藤。
どちらも譲る気はないようだ。
「俺は上司を出せって言ってるんだ。
お前のその舐めた態度に、文句を言ってるんだから、早く上司を出せ!
これ以上、お前のような生意気で客を客とも思わない奴とは、これ以上話すことはない。
この俺を怒らせたんだから、だだじゃ済まさないからな。」
これ以上という言葉をなぜか2回使って怒り狂う佐藤。
そういうと、テーブルに乗っていた自身の飲みかけのコーヒーカップを手に取り、目の前に座る「店長代理」に対して、カップに少し残っていたコーヒーを投げ掛けた。
そして、テーブルに足を乗せ、「店長代理」分のコーヒーカップを足で床に落とそうと、コーヒーカップをテーブルの端に向けて自らの足を勢いよく移動させた。
通常であれば、コーヒーカップが床にぶつかると同時に、カップが割れる音がするはずだが、佐藤はなぜかその音が耳に届かなかった。
それどころか、先ほどコーヒーをかけたはずの「店長代理」に、コーヒーがかかっていないのを目にした。
正確には、かかる寸前の状態で、空中で止まっているコーヒーが目の前に存在している。
あわてて床を確認すると、コーヒーカップは床にぶつかっておらず、床から10センチほどの距離で静止している。
「この部屋だけ時間を止めさせていただきました。
通常このようなサービスは行わないのですが、お客様の対応をするためには必要と判断しましたので、通常ご提供することのない「時間停止」を行わせていただきました。
ちなみに、価格は10分間の停止で1000万円になります。
前払いでしか受け付けないサービスなのですが、今回は特別に10分ほどお支払いの猶予時間を設けましたので、お支払いいただけますでしょうか。」
「ふざけるな!
お前が勝手にやったことだろ。
なんで俺が払わなきゃならないんだ。
コーヒーカップ1個のために、1000万円払う馬鹿がいるか!」
時間停止を押し売りされた佐藤は、さらに激高する。
「お客様は、こちらのカップの価値に関して無知なのはわかりました。
ただ、私としてはカップを破損することは避けたかったため、カップ破損より安く収まる時間停止を行わせていただきました。
先ほどのお客様の発言ですと、こちらのカップを弁償できるという事でしょうか?」
コーヒーカップを安物と決めつけている佐藤にとって、カップの弁償と1000万円など比べるまでもないと思っていたが、「店長代理」は一歩も譲らない。
「こんなカップのどこにそんな価値があるというんだ。
俺をだまそうなんて、10年早い。」
そういうと佐藤は、床の上から10センチほど浮いていたカップを手に取り、床にたたきつけた。
「ガシャン」
今回は期待通りの音を部屋に響かせ、割れるコーヒーカップ。
割れたのを確認すると、店員に向かってドヤ顔をしながら、再びソファーに腰をかけた。
「今割られたカップに関しましては、どのようにしてもお客様では、弁償できるものではございません。
お客様のすべてをもってしても、手に入れることが出来ない物でございます。」
目の前で割れたカップを目にしながら、「店長代理」はゆっくりとした口調で話し始めた。
「この瞬間より、あなたはお客様ではなくなってしまいました。
お客様ではない人間で、この店に対して敵意を持った人間が、この店の存在を知っているという事は、リスク管理上あってはならない事態です。
あなたのすべてを消させていただきます」
そう言った瞬間、「店長代理」の手に一つの財布が現れた。
彼はその財布を開け中身を確認すると、運転免許証やあまりカタギとは思えない職業が書かれた名刺、大事にしまわれた写真などを取り出した。
「とりあえず、あなたの事を調べさせていただきます。」
先ほどまで佐藤の持っていたカバンの中にしまわれていた財布が、目の前の人物の手元に突然現れ、物色されている。
突然のことに混乱気味になった佐藤ではあるが、自身の所有する財布を奪い返そうと、「店長代理」のもとへ歩みよった。
佐藤は歩いている。
足元を見ても、しっかりそこには床がある。
自身の足にも、床を蹴り上げ前へ進む感触はある。
なのに、一向に目の前の人物の前にたどり着けない。
これはどういうことなんだ?
この店は、未来に行くことが出来る店だと思っていたが、もしかしたら、それ以上のことも可能だというのか?
そんなこと聞いてないぞ。
ここにきて、初めて佐藤は今起きている事を考え始めた。
目の前にいる人物はただの店員だったはず。
いつも通り、俺の考えた金額になるように、交渉しただけだ。
ただの店員が、客の俺のいう事を聞かないとは、納得いかん。
考えれば考えるほど、目の前の店員に対して、怒りの感情が高まる。
「てめぇ、俺にこんなことして、ただで済むと思うなよ。
こんな店、めちゃくちゃにしてやるからな。」
残念ながら、佐藤の思考力とは、この程度しかなかったのだ。
あまりにも残念な反応しかしない佐藤を見ながら、佐藤の情報の整理を始める「店長代理」。
財布に続き、佐藤のカバンを手に取り、中身の物色を始めました。
その後、佐藤の目の前で突然消えたりしたが、10分ほどで戻ってきて、佐藤に向けて「店長代理」は話し始めた。
「とりあえず、佐藤さんに関係しそうな人たちは、いなくなりました。
残りは佐藤さんだけですね。
これだけの面倒くさい事をさせられたんで、佐藤さんが楽になるのはだいぶ先になると思いますが、しょうがないですね。
費用に関しては、先ほど佐藤さんの関係者の方々から頂いておりますので、お気になさらず、苦痛を楽しんできてください。
佐藤さんが最後に味わうことのできる感覚ですから。」
そういうと、「パンッ!」と手をたたき、佐藤はその場から消えた。
佐藤は何が起きたのか、わからなかった。
手をたたく音を聞いた途端、目の前が暗くなってしまったのだ
何も見えない空間に一人。
大声を出しても、どこにも響く感じがない。
とても広く暗い空間にただ一人。
死んでしまったのか、と思ったが、腕をつねると痛みがあった。
そして、必死に叫んでいたため、息が荒い。すなわち呼吸をしている。
叫びすぎて喉がいたい。
水が欲しい。
ただ暗いだけの空間のため、水がどこにあるのか見当もつかない。
もしかしたら、助けが来ないかもしれない。
ただ暗いだけの空間の中で、その後訪れるであろう苦痛を想像し、佐藤は未来旅行社を訪れて以来、初めての恐怖を感じていた。
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