第11話 犬飼平の合戦

 合戦間近


 与作は、国久公の介添えによる三吉のお殿様との面談により、町人から三次藩士として苗字帯刀を許された身となった。然しながら、はっきりと侍になる事は決断しておらず、猶予期間を頂いており、今もこうして浅田屋の丁稚奉公勤めを許されている。

 だが、三次藩のお殿様から直々嘱望されている限りは、何れ、近いうちに藩士として新たな事に挑戦しなければならない。如何に国久公の引きがあるとはいいながら、与作はそうした事には一切気にもかけない性格で、寧ろ希望を持って挑戦出来る得な性分であった。

 本日も、何時もの様に仕事の最中にラー助の伝達により、お師匠さんからの書状が届いた。

 〜 大将、今日は浅田屋の仕事の様じゃったな。昼過ぎからワシは比叡尾山を出てから、移動は可愛川沿いの街道筋から来たよ。参謀を含めて十人でな。

 じゃから小屋に立ち寄るのが無理じゃったよ。その間もな、ラーちゃんは、城を出た所から常に高い空から眼を光らせておってくれたよ。

 久し振りにカラス笛を懐から取り出して吹いたんじゃ。すると、早い事早い事、あっと思う間に肩に止まりおる、ほんま心強いのう。例によって深瀬の野郎共が後をつけ回しょったんじゃ。じゃが何せこっちは十人もおるでのう。其れにな、今日も間道から行くと思うたんじゃろうて。奴等の目論見違いで、結局、途中からの助っ人が増えなんだよ。青河峠辺りで諦めてしもうた。此れも全部な、ラーちゃんが空から知らせてくれるんじゃ。

 話しゃ変わるが大将よ、急に悪いが今晩、仕事が済んでから疲れとろうが城迄来てくれんかのう。大事な用があるのよ。ワシは何時でも起きとるから玉ちゃんと来てくれんか。玉ちゃんなら外から誰にも気付かれず、城の中に入って呼びに来てくれるからな。そしたらワシが外に出て行くから。

 ワシは明日から何処へ出向くか分からんのじゃ。宜しく頼む 〜


 与作は庭先で大八車への荷積みを手伝っている時、ラー助が上空から舞い降りて屋根の上に止まると、キョロキョロ辺りを見渡しながら小さく「カァ、カァ」鳴くと目が合った。

 与作は小便に行くふりをしながら其の場を離れて

「どうした、ラーちゃんよ。お師匠さんに会うたんか」

「オトウサン、ガミ」

「おおそうか、有難うな」

「ナンノナンノ」

「一寸、待っとれよ返事を書くから。然し、ラーちゃんはお師匠さんが何処に居られても、視力と勘がええから見つけるんじゃな」

「へへへへ」

 連絡を受けた与作は、今日は仕事を早めに切り上げて帰るつもりで準備を始めていた。

 そして奥の部屋で算盤を弾いていた主人に向かい

「旦那さん、今日は一寸、野暮用が有りまして此れで失礼させて頂いて宜しいでしょうか」

「そうかそうか、ええで。アリャ、終わりの時間がとうに過ぎとるじゃないか、ご苦労じゃったな」

 ところが木戸を開けて帰ろうとした途端、何時もの可愛げのない手代が、ワザと主人に聞こえる様に配達の用事を押しつけて来たではないか。

「おい!与作、今から粟屋の庄屋のとこへ薬を届けて来いや。急用じゃ言うとるけ即ぐ行けや!」 

「すみません、今日は緊急の用事が有りましてお先に失礼します」

 と有無を言わせず店を飛び出した。主人は奥で苦笑いをしている。

「あの野郎!」

 手代の一声を聞いて器の違いを感じ取っていた。

 与作は背後から罵声を浴びながら、鉄の待つ別荘へ駆け出した。

 普段より大分、手前で犬笛を吹いていたので民家の近く迄迎えに来ていた。

「鉄ちゃん、早いのう」

 後は鉄との競走で小屋を目指して駆け出した。

 鉄はとに角嬉しくて堪らない。互いが後先になりながら急な山坂も何のその、一気に小屋近く迄立ち帰って来た。

 すると玉ちゃんが眠そうな目をしながら迎えに外に出て来た。臭いと足音で気付き

「オゥ、玉ちゃん、今からお師匠さんに会いに行くぞ」

 その掛け声を聞き、途端に「ニャァ、ニャァ」大喜びをしている。与作は風呂敷包を入り口に放り投げると、その足で鉄と玉で一気に城へ向けて下り坂を転げる様に走り出した。ラー助は外が真っ暗闇になっており留守番においてきた。

 城の近くに来ると、与作は鉄と其の場に立ち止まり

「玉ちゃん、お師匠さんの所へ行って呼んできてくれるか」

 玉にはすぐに分かる。

「アイヨッ!」

 という感じであっと思う間に、木戸の隙間から城の中に入って行った。

 暗闇の中、鉄と与作はジッとその場で待っていた。暫くすると裏木戸からお師匠さんが両手に小包を抱え、懐からは玉が嬉しそうに顔だけ覗かせて出て来た。

 今度は鉄が大喜びだ。だが声は一切発しない。

「オゥオゥ、皆よう来てくれたのう。ワシゃ嬉しいよ」

 頭や喉元を撫でられ甘えまくっている。そして何時ものお土産を鉄の肩に括りつけてくれた。

「大将よ、愈々、ワシもやるべき事をやらにゃならん様になってきたよ。何れは永の別れになるやもしれん。ワシは本当に皆んなと別 れるのが辛いんじゃ。ワシはこっちに来る度に布団の中で泣いとるのよ」

「辛い事じゃがワシのやむを得ぬ定めじゃ」

「お察し致します」

「其処でじゃ。最後のお願いがある。陣を張る事になる八幡山城に医薬品を調達してくれんか。大八車へ何台分あるか分からんが宜しく頼む。今、おおよその数量は書いとるから其れでやってくれんか」

「分かりました」

 話しは早くに済んでしまい、暫く戯れ合っていたが城へ来てから即ぐの別れに、鉄も玉も名残り惜しそうにしている。

 特に、玉は柄は細いがお師匠さんを看病して以来、我が子の様に思っており「ニャン、ニャ〜ン」泣きまくるではないか。

「玉ちゃんよ、寂しいじゃろうが堪えてくれよ」

 お師匠さんの優しい声掛けに、与作も互いを引き離す辛さに涙が頬を伝って落ちた。


 翌朝、何時もと変わらぬ時間に与作は店に到着した。

「さぁ、今日も頑張るぞ」

 と前の道を掃き掃除を始め出すと、隣の丁稚が近寄り愚痴をこぼし出した。

「あのなぁ、」

「オウ、話しゃ明日じゃ」

 すると、主人も出て来て「ガタガタ」と音を立てながら玄関戸を開けだした。

「おはようございます」

「やぁ、おはよう」

 与作の事を家老から何もかも知らされた主人は、今までとは違い接し方に苦慮していた。何せ、お殿様から直々の三次藩召し抱えと聞いている。本来ならば迂闊に声もかけられない。

 浅田屋に義理と恩が有ると筋を通してくれた事と、藩との永久御用達のお墨付きまで取り付けてくれたのだ。

 主人は、箒を持って何時もの様に掃き掃除をする、与作の後ろ姿に感謝の念で一杯で有った。

 今朝も各自出動し、開店間際の朝礼が始まると、輪番制の番頭訓示だ。そして軽く身体をほぐす体操を終えると忙しい一日の始まりだ。

 其処へ、いきなり番頭の奇声が店頭に響き渡った。

「旦那さん!大事です!」

「何じゃ朝から騒々しい」

 朝一番、主人は何時もの様に帳場の前に座り、一日の段取りを取るべく支度に取り掛かっていた。

「すみません!与作が、さっき大変な量の薬の注文を受けて来たと言うとります」

「そうか、それでは其の伝票を見せてみい」

 番頭は大慌てで何枚もの書き付けを寄せ集め、主人に手渡すと

「ウ〜ン、こりゃまさしく凄い数じゃのう」

「旦那さん、私は知りませんよ。代金は貰えるんでしょうね。丁稚が仕出かした責任は取りませんよ。他の奉公人も関わりが有りませんから。発注元に、何やら訳くそ分からん花押が有りますよ」

 主人はその確認を取った後、にっこり笑いながら

「ええから、ええから、与作のやる事なら間違いはないよ」

「今日中に品揃えをして、明日、早朝にも注文品をまとめて大八車で指示場所に運び入れてくれるか」

「旦那さん、本気ですか!とに角、私等は知りませんからね」

「じゃかましい!番頭がガチャガチャ抜かすな。もし騙されとったらワシが責任を持つわい」

 主人は其の場でつくづく与作の底知れぬ人間性に感じ入るばかりであった。

 注文伝票を受け取った時に花押にピンと来たのである。

「然し、浅田屋も惜しい人材を無くすのう。美和には悪い事をしたなあ」

 主人は一人寂しく其の場でため息をついていた。

 翌朝早い時間に、昨日、積み込んでいた山盛りの荷物を大八車三台に分けて志和地を目指していた。一台に前後に二人掛かりで荷を引いて行く。

 昨日、主人に散々文句を垂れた、二番番頭のみが空身がらで手伝いもせずに先を歩いて行く。

 与作以外は、何の目的で此れだけの薬を運び入れるのか全く知る由もなかった。

 だが与作には今迄に長い様で短い間、お師匠さんと付き合ってもらっていて以心伝心、物言わぬお師匠さんから手に取る様に心情が分かっていた。漸く機が熟したという事を与作には理解出来たのである。

 此の戦さは元々、安芸国毛利元就が尼子に臣従していたが、其の尼子家当主が亡くなり孫の晴久に変わった為、従属先を山口、周防国の大内氏に寝返った事に起因している。毛利は大内の支援を受け安芸、備後国北部に勢力を拡張していった。此れを怒った晴久は、叔父の新宮党党首である国久公を、征伐に吉田郡山城へ派遣したのであった。

 偵察がてら何度も三次藩を訪れて、志和地八幡山城を最前線基地に、目と鼻の先の距離の毛利軍勢と、雌雄を決する為に集結するのであろう。

 途中、ガタガタ道の為、何度も休憩を取りながら二里半の道を志和地の市場という所まで漸く辿り着いた。  

 目の前に高くはないが急峻な城山が見えてきて、麓の市場橋の側で待っていると、八幡山城からバタバタと足音を立てながら十人程下りて来た。到着の頃合いを見計らって城山の上から見張っいたのだ。その中の一人の侍が

「大将殿はおられますか」

 と声を掛けてきた。

 七人掛りで荷を引いて来た浅田屋の奉公人達は、きょとんとしている。番頭は訳もわからず

「いえ、店主は来ておりませんが」

 大勢駆け付けて来た其の中に、以前に、青河の峠まで馬を引いて来た若侍がいた。他の奉公人には目もくれず、

「あの方だ」

 そして近寄って来て前垂れ姿の与作を見るなり、丁寧に頭を下げてきた。

「あの節は大変失礼致しました」

「とんでも御座いません。こちらこそ」

「本日は大殿様から代金をお預かり致しております」

「お釣りはいらないと言われておられました」

 と言いながら他の若侍が小包を与作に手渡した。

「申し訳け御座いません。大殿様には宜しくお伝え下さい」

「承知致しました」

 早速、荷降ろしを始めると城の下の小屋の中に運び入れた。与作が子供時代からおっちゃんと三次の町に何度も一緒に使いの連れをした時、帰りの荷物を置いていた場所だ。

 大人数であっという間に終了、すると、先ほどの侍が与作の前にやって来て

「ご苦労様でした。後は気を付けてお帰り下さい」

「有難う御座います。皆様にはお手伝い下さり感謝申し上げます」

 互いが挨拶を済ませると、空車を引いて竹薮沿いの板木川側を下って行った。

 今日は立ち寄る事が出来ないが左手に、大きな専正寺の赤い屋根がみえる。

 この時、お寺さんへの感謝の気持ちが込み上げてきた。

「此れ迄育てて頂き有難う御座います」

 手を合わせ心の中でお礼を述べていた。

 なだらかな田んぼ道を、ガラガラと音を立てながら三台の大八車が峠を目指してのんびり進んで行く。

 懐かしい庄屋の大きな屋敷の門の前を通過する時、一瞬、妹のハナか顔を覗かせたと思った。然し、何か他の仕事をしていたのか、よく似た奥様が庭先で作業をしていた。

 そして水車のある田んぼの中の小屋辺りに来た時、一人先を歩く番頭が思い出した様に振り返り

「オイッ、与作!、おまえ、さっきはどしたんじゃ!」

「何でしょうか」

「わりゃ、お侍様から大将殿と呼ばれとったが何でじゃ」

「いや、別に、其れは主人に言われたんじゃないですか」

「其れこそ、帰る時、どのお侍様も皆んな頭を下げとったで」

「なんでなら、お武家様が商人のワシ等に深々と礼をするなど、天地が逆さまになってもあり得ん事じゃ」

「さぁ、何でですかね」

「ワレみたいな読み書きがろくすっぽう出来ん、くそ丁稚にそんな力はありゃせんしのう」

 帰る道中、番頭や他の奉公人達は全く狐につままれた様な状態でポカンとしていた。

 更に、番頭は納入作業を終えて藩士と別れた後、歩きながら貰った代金が異様に重いのに気づいていた。

「釣りはいい」

 と言われたが、納品伝票金額よりもはるかに多そうなのだ。

「なしてなら!何でこんな馬鹿な事があるんじゃ。此処の殿さんは気が狂うたんかいな。此れだけ、買うたら負けてくれぇや、言うのが普通じゃがのう」

 峠に掛かる迄の間に、不思議な事の連続に、番頭は頭を捻りっぱなしであった。

 帰りの青河峠の登り坂は七曲りで、空車でもかなりきつく、皆が汗ダクダクである。其の中で番頭だけは手伝いもせず、御機嫌で知らんぷりをしながら一人先を行く。 

 やがて、てっぺんに到着すると腰が抜けた様にへたり込んでしまった。

 丁度いい場所に広場と雨露を凌げる休憩所が有る。

 更に少し下った先に一軒の茶店が見えてきた。

 店先からいい匂いが漂って来るではないか。

「あ〜疲れたぁ、腹減ったな」

 と一人の若い丁稚が叫ぶと他の奴等も

「これから店へ帰って飯を食おう思うたら何時になるか分かりゃへん。昼飯と晩飯が一緒じゃ」

 後ろの方で不平不満を声高に言うのが聞こえたのか

「おい!おまえ等、あこで飯を食うからな。ひと休憩じゃ」

「えぇ!番頭さん奢ってくれるんですか」

「うんにゃ、貰うた代金が過分に有るけえ何を取っでもええぞ」

「ウワァー、さすが番頭さん!」

 そう言われた手代、丁稚供は大喜びしている。

 番頭は手柄は我一人という様な顔をして得意そうである。だが本当のところは本人が一番空腹だったのだ。 

 昨日、主人に怒鳴られた憂さ晴らしに、やけ酒を飲み過ぎて寝坊をして、朝飯を食っていなかったのだ。その上に、朝一番にまさか自分が志和地まで行かされるとは思ってもみなかった。

「何でわしがこんな遠く迄、来させられんるじゃ」

 本人が一番不満であったが、この際、どうという事はないじゃろうと、半ばやけ気味になった。そして受け取った代金が倍以上あり、釣りはいらないと言われて気が大きくなり、其れに手を付ける気になったのだ。

「まさかこれくらいの飯代の事で旦那さんは文句は言わんじゃろう。ワシが一々、此奴等に奢ってやるほど給金を貰ろうとりゃせんしのう」

 と変に番頭は自分自身で納得していたのである。

 与作はといえば、相変わらず素知らぬ顔で下っ端丁稚に徹していた。

 空腹を満たした手代、丁稚供は 、帰りのなだらかな下り坂を交代交代で引いて行く。ご機嫌で鼻唄混じりで三次の町を目指していた。

 長距離配達を終えて、店に戻ると、番頭が早速事情を伝えると珍しく主人は

「オオゥ、そうかご苦労じゃったのう」

 居合わせた丁稚共は口々に

「有難う御座いました」

 なんのお咎めも無い事に、一人の手代は聞こえない様な小さな声で「明日は大雨が降るでぇ」

 天下の大殿様と関わりのある与作の手前「ご苦労さん」以外、声を荒げる事はなかった。


 犬飼平の合戦


 時に天文九年六月、尼子国久公率いる新宮党の尼子勢は三千の兵を率いて出雲街道を南下して来た。

 総大将、自らが度々偵察に訪れていた、三次藩の志和地八幡山城から可愛川を挟み毛利軍への総攻撃を掛ける為の行軍である。

 出雲街道とは名ばかりで道幅も狭く、多くの武器食料等の搬送に難渋し、その為に思わぬ日程を要していた。

 何せ、中国山脈の山越えで名だたる頓原、赤名峠の難所が控えているのだ。其れでも歩を進めなければならない。

 一行は難所赤穴を超えて布野村に入って来た。此の国境番所の有る布野はかなり広い平坦地があり、其処に昔から番屋に宿屋、商店が立ち並びかなりの賑わいのある宿場町を形成している。

 其処へ半里は続こうかという大群が列をなし入って来たのだ。今迄に見た事もない数で村人達はたまげまくったのであった。

 此れだけの人間を到底収容出来る宿屋が有る訳もなく、村人達は尼子軍の為にありとあらゆる場所を提供してくれた。

 無論、食料の米、味噌、醤油は多めに各住まいの家に、お礼の為置いてきた。

 布野村で一泊した後は小さな山家峠を越えると一里塚が有る。其処で小休憩を取ると程なくで三次の町に入る。

 なだらかな坂を下って来ると西城川に突き当たった。川沿いに道を進むと右手にこんもりした比熊山がある(此の山は、永年、三吉氏が比叡尾山に居城していたが其処を離れて、その後に拠点を此処へ移築している)

 此処等に来ると人家も多く、道行く町民が何事かと行列を遠巻きにして眺めている。

 此の光景をラー助が見逃す筈がない。常に浅田屋上空で与作の動向を気にしており、ましてや最近お師匠さんに会えなくて寂しくて堪らないので、西へ東へと飛びまわっているのだ。

 そんな時、ラー助は町の中心より北の方向に、異様な格好で動く軍団を見つけたではないか。

 勘のいいラー助は即座に分かり一気に飛び立った。

 長い長い行列の上を旋回すると、馬に乗ったお師匠さんを簡単に見つけ出した。

 そして真上から急降下したのだ。

 総大将を挟む様に護衛していた後の侍が

「危ない!」

 と叫んだ瞬間、真っ黒い物体が頭を目掛けて落ちて来た。

 処が総大将の肩にピタッと止まったではないか。

「オシシヨウサン!」

「オウッ、たまげた!ラーちゃんじゃないか。どうして分かったんじゃ」

「オメメアル」

 此れには周りにいた者が皆、びっくりするやら呆気に取られてしまった。

「カラスが大殿様と話しをしとるど!」

「ほんまじゃ、わしも聞いたで」

「ラーちゃん、重いよ」とお師匠さんが声を掛けると

「シミマセン」

 此れには周りの家来達も、大声で歓声をあげながら笑顔が絶えなかった。  

 肩から離れ飛び立ったラー助に

「後は宜しくな」

「ワシニマカセトケ」 

 本当に心強い空飛ぶ忍者である。

 一行は此れから最前線地に陣を張る為、志和地八幡山城へ急ぎ歩を進めた。 

 何せ三千の大所帯だ。城の一箇所に収容出来る訳もなく、急遽、仮住まいを確保しなければならない。此の時期は陽は長いが暗くなっては作業がしにくくなる。

 取り敢えずは屋根だけでもだが、幸い此の時期は夜風に当たっても寒くはなく、布袋に包まり一夜を明かした。

 次の日から、其処ら辺りに有る木々を伐採し、二日掛りで野営をする仮小屋が完成した。

 然し、此方へ出っ張って来てからというもの曇りか雨模様で全く日和が悪いのだ。

 これではどうにも作戦の取りようもない。そして四日目の朝は久しぶりに日差しが眩しい程の天候回復である。

 天守で国久公、城主、参謀との早朝戦略謀議を始めていた。

 ラー助は、お師匠さんが八幡山城に赴いてからは毎日のように顔を覗かせてくれたが、どうにも雨には弱い様でご馳走を頂くと早々に引き上げてしまった。

 然し、今朝はご機嫌で窓枠に顔を覗かせた。

「オシシヨウサン、テキテキギョウサン」

「オオゥ、ラーちゃん今日は早ようからご苦労じゃな。して何を見て来たんじゃ」

「コウリコウリボ、ウマウマ」

「何じゃ、そりゃ。ラーちゃんよう分からんよ」

「コウリ、ウマウマ?」

「さっぱり分からんが」

「誰か理解出来るか」 

 作戦会議に出た全員が首を捻っている。

 するとラー助はジィーとお師匠さんの眼を見つめている。此れが心の奥底まで見透かす様な眼力があるのだ。

「待てよ、確かあれはワシが春先じゃったか明光山に登った時、ラーちゃんが宍戸の五龍に飛んでいってくれた事があったな」

「分かった!大殿、分かりました!それですよ」

 と城主が叫んだ。

「此れは忽ち大事ですよ!」

「オイッ!なんちゅうことなら」

「奴等、絶対に奇襲を掛けて来ますよ」

「其れこそ、どういう事なら!」

 急な此の一声に場に緊張が走った。

「つまりですね、ラー助の見て来た事は、多分、こういう事でしょう」

「宍戸の少数精鋭隊が、五龍の城の川向こうの高林坊前を通り馬通峠を越えると、板木村に入り板木川を下って鬼が城に入るのです。   

 其処からは下道を通らず尾根伝いに此の城の裏山に来る腹づもりです。そして夜陰に乗じて此の上に、二つ三つ有る小屋に火を放つ段取りでしょう。すると犬飼平の見張り所から、此方の慌てふためく様子が手に取る様に分かりますから。そして警備が手薄になった処で可愛川を渡り切り、こっちの陣地に潜伏する段取りでしょう」

「ラーちゃん、でかした!凄い、感謝!感謝!」

「ナンノナンノ。ホオベ、ホウベ」 

「ハハハ、そうじゃった。そうじゃった。褒美を今、即ぐやるぞ」

「処でこっちの段取りじゃがな、今、言った事にまず間違いはないだろう。先ずは奴等の機先を逆に制せにゃいけん」

「此奴等を何処でやっつけりゃ」

「其れは鬼が城が最適地でしょう」

「そうか。其処がええか。どんな地形じゃ」

「其処はですね、板木川が流れ両側が急峻な絶壁で川に沿って小さな道が有ります。奴等は此処を通るしか方法が有りません。

「其れなら待ち伏せし挟み討ちに出来るという事か」

「その通りで」

「こっちも今から行けば十分準備体制が取れるのう。ヨシャ!誰が行ってくれりゃ」

「私がいきます!」

「して手下はなんぼうおるんじゃ」

「五十はおりますが」

「ウン、其れでよかろう。其れなら今からラー助に褒美をやって懐いておけ。そしたら必ず、奴等の頭目の動きを空から見張っておって知らせてくれるから」

「エェ〜、そんな事が出来るんですか」

「ラー助はな、今朝、早くに五龍に飛んで行き、広場で大声で此の作戦を話している様子を木の上からジッと見聞きしとった筈じゃ。必ず頭目の顔を覚えとる」

「然し、信じられませんが」

「じゃがのう、其れを今迄に何遍もやってくれとる」

 その話しの最中もラー助はお師匠さんの近くで毛繕いをしている。

「ラーちゃん、ワシは上山田進次郎じゃ、宜しく頼むよ」

 と言いながら朝飯の残りを目の前に出してくれた。其れをパクつきながら

「マウマウカセトケ」

「ウァ〜、此れは頼もしい!」

 するとお師匠さんが「ラーちゃん、ゆっくり食えや」

 と声を掛けるとその場が一気に和んだのである。

 食べ終えると「イクゾ!」

 途端に南西の方角に飛び立った。

「飛んで行く方角に間違いはないで」


 進次郎一行が取り急ぎ武器を揃えると、馬ではなく全員が速足で鬼が城を目指した。此処からそう遠くないからだ。 

 南に延びる一本道の両側は田植えを終えたばかりの長閑な風景である。 

 そして鬼が城に差し掛かる少し手前の辺りに小さな神社があった。日和も良く、其処の境内で村の世話役ニ、三人が、太鼓や神楽衣装の虫干しをしているではないか。進次郎は急遽、閃いた。

「オイ、誰か太鼓を二つ借りて来てくれんか」

「何に使うんですか」

「今に分かるさ」

「礼は後からすると言うとけ」

 大太鼓は結構重く二人で担ぎ棒に吊って前後で担いでいく。

 現場近くに到着すると各自段取り通りに配置についた。

 とに角、奴等が通るにはこの道しかない。此処へ来る迄に、通行人に誰一人として出合わなかったが其れ程までに寂しい道だ。

 四〜五人、まとまって歩いて来るとどんなに百姓、町人に変装していても宍戸の野郎と即座に判断しうるのだ。

 鬼が城に来ると作戦通り各所に散らばり、待機してから一刻くらい経ったであろうか。

「えらい遅いのう。もうええ加減、現れてもよさそうなもんじゃが」

「そうですね。普通に歩いたら、とっくに下を通過しそうなもんですが」

「うちの殿さんも、国久公の言われる、つまらん事を信用して読みを誤られたかのう」

「オイッ、言葉が過ぎるど!」

「じゃが、カラスのする事などあてにはならんじゃろうが」

「こりゃ完全に無駄足に終わるで」

「だけど途中で休憩がてら飯を食うとも限らんからな、其れとも日暮れに掛けて入ってくるかもしれんで」

「まぁ、もう暫くは様子を見ようや」

「ワシはカラスはどうも好かん!縁起がようないと昔から爺さん、婆さんから何時も言われとったからな」

 夫々の配置場所では、到底、普通には考えられない様な指示命令に「かんかんがくがく」国久公や城主、其れにカラスの悪口を言いたい放題であった。

 だがその時だ。

 谷間の高い上空を一羽のカラスが飛んで来た。

「オイ、嘘や冗談じゃありゃせんど。ありゃラー助で!」

 皆んなの視線が一点に集中した。

「ほんまじゃ!」「ラー助じゃ」

 進次郎は喜び勇んで、お師匠さんから預かった笛を一吹した。スゥーと舞い降りて来ると肩に止まったではないか。

「オオゥ、来てくれたか」

「テキテキ!」

「有難うな、やっぱりじゃな。ラーちゃん、凄い!凄い!」

「カッ、カッ、カッ、カッ、カァ」

「何じゃ」

「今、五回鳴きましたよ」

「ラーちゃん、五人か」

「ホウジャ、モットモジャ」

「こりゃ間違いないぞ」

「有り難うな、ほんま凄いよ。ホラ、褒美だよ」

 と干し肉を口にほうばると、爪に小袋を引っ掛けてその場を飛び去った。

「ええか、ラー助の知らせ通りやって来るぞ、段取り通りに配置につけ!」

「オオゥ!」

 甲立を出てから五人の密偵共は、城主の読み通り、馬通峠を越えて板木に入り川沿いを下ってきた。互いが付かず離れずさり気なく歩き、全く町人、百姓風情である。

 然し、上空を飛ぶラー助にしてみれば何もかもお見通しなのだ。

「へへへ、ボクノメカラニゲラレマセンヨ」

 と言わんばかりある。

 やがて五人は緊張感も無く、人家が全く無いなだらかな下り坂を談笑しながらやって来た。

 二人が稲藁を「おいこ」に背負いながら歩いて来る。其の中には刀を隠しているのだろう。

「オイ、奴等、全く油断しとるで」

 道より一段高い木立の中で、待ち伏せしていた先陣隊の目の下を通過して行く。そして、その先で待ち構えている仲間に挟まれた。

「それぇ、打てえ!」

 突如としてドドドドーン!ドドドドド〜ンと谷間に木霊した。

「オイッ!なんなら?」

 前方から太鼓の音だ。更に一際大きくドドドーン、ドドドド〜ンと続けて鳴り響いた。

「こんな処に神社はなかろうが!」

「こりゃ大変じゃ!引き返せ!」

 と駆けだした。

 すると又、向き直り引き返す方からド、ド、ドドーン!ドドドドーン!

「オイッ、挟まれとるぞ!」

 たちまち、狭い道の両側の方角から、弓矢を持った大勢の武装集団が一気に駆け降りて来て取り囲まれた。

 多勢に無勢、もうなす術もない。

「オイッ!もう逃がれられんぞ、我らが五龍から来た事は分かっとるんど!命は奪らんから武器を捨てて降参せえ!」

「何を言うとるんなら。ワシ等は唯の通行人じゃ」

「オウ、その物言いが百姓、町人の言い種か!」

「志和地に用があって通るのに何が悪いんじゃ」

「屁理屈は抜かすな!お前等、朝早ように出発するのを見られとるんでぇ」

 と押し問答をしている時、上空からカラスが奴等の直ぐ上に飛んで来た。

「テキテキ、ゴリゴリ」

「其れみい!ラー助が全部、見とったのよ」

 此れには相手も、訳くそ分からなくなり完全に動揺し

「駄目じゃ!」

 と叫ぶと、頭目らしき奴が短刀を抜き、自らの首筋に当てかき切った。そして次々と同様に他の奴も、稲藁に挟んで隠していた刀を使い命果ててしまったではないか。

 其れも、あっという間の出来事だ。

 其れを目前で見ていた者達も唯々、呆然と見詰めるのみで、何人も腰砕けになりへたり込んでしまった。

 自分達も何時こういう運命になるとも限らない。これが戦国の乱世に生まれた侍の境涯かと思うと同情せざるを得なかったのだ。

 進次郎は、その呆気ない最期の姿に哀悼の意を表し、全員に深々と黙礼を促した。

「懇ろに弔っちゃれい」

 其の様子を松の木の上から凝視めていたラー助が

「ナマンダブ、ナンマイダ・・」

「何ちゅう事だ!」


 鬼が城の奇襲を防御した国久公は、相変らずの雨空に作戦も立てられず対策に苦慮していた。

「毎日毎日此れでは手の打ちようがないのう」

「今年は例年より長雨の影響で水嵩が全然下がらんのですよ。普段この時期になると浅瀬は楽に歩いて渡られるんです。じゃが今もって此れですから。可愛川のどの辺りでも腰より大分上辺りですからね。其れに流れが速いときております」

「舟で渡ろうにも忽ちなんぼも調達出来んじゃろう。せいぜい三つぐらいのもんじゃろう」

 かなりの軍勢を向こう岸に渡らせるのには、ずぶ濡れになりながら歩いて超えにゃならんで」

「奴等は、水の中の動きの取れないこっちの者達を、高い岸から弓矢で狙い撃ちが出来るぞ」

「岩屋の城の前の川を渡るのはまず無理で。其れから上流岸へは五龍の宍戸が、仰山、こびり付いとるじゃろうから無理じゃ。其処から下は犬飼平の絶壁が邪魔しとるしのう。まさに天然の要塞じゃ」

「秋町から抜けるのは人一人しか通れん険しい道じゃろう」

「そうなんですよ。とに角、この水の流れで向こう岸に行ける箇所が限りられております。甲立から深瀬を下り犬飼平にかけて可愛川が右曲がりに流れており、今おるワシ等側の岸が砂浜の浅瀬で深瀬側が十尺以上の深みになっとります」

「そして、こうして思案しとる間に郡山城から続々と援軍が馳せ参じ五龍城の周りに集結しとると、明光山の見張り所から報告が入っております」

「ウ〜ン、これじゃこっちの軍勢が宝の持ち腐れじゃないか」

「然し、何れにしても向こう側に攻めて行かん限りは話しにならん」

「どう考えても秋町へ渡って其処から犬飼平下の細い道を行くか、其れとも遠回りして犬飼平の北裏手から攻めるしかないだろう」

「然し、此処は全く道は無く急坂の登りで雑木林が生い茂り歩くのもままなりません」

「ウ〜ン、下しかないか」

 「ただ、山田辺りには深瀬が大分集結しとりゃせんか」

「いえ、まだ此処へはまだ来とる様子はないと見張り所から報告が来とります」

「やむを得ん、まず、向こうへ渡らん事にゃ話しにならん」

「舟は何処らへ調達できりゃ」

「今は岩屋城の対面辺りに隠して有ります」

「そうか、それじゃ先ず手始めに其れを使うか。闇夜に乗じて可愛川を横ぎり更に城の下の小さな川を遡り行ける所まで上って舟を隠しておくか」

「危険な手ですが其れでいきますか」

「まさかまさかの喉元攻めで油断しとるじゃろう」

 この作戦には出雲玉造の出で、普段は宍道湖で漁業に携わっている郷士の三人が小舟に乗り込んだ。

 草木も眠る丑三つ刻、長い竹竿を操って静かに漕ぎ出した。少し上流から出たので難なく対岸の岸下に寄せる事が出来、そして上を見上げながら宍戸の警備具合を探っていた。

 とに角、静かで暗い。

 まさか、こんな真夜中に岩屋城の全く喉元に舟で乗り付けるなど予測もしていなかったのであろう。

 一人が崖をよじ登ると草叢の中から道の向こう側を見た。城に通じる階段の下で、かがり火を焚いた側に二人の夜警が居眠りをしながら番をしている。

「オイッ、上にゃ警備が手薄じゃ。番兵の奴は寝とるど。小川の上の方へ着けられそうじゃ」

「よしゃ、分かった」

 その場所から少し左上へ緩やかな水の流れに竿差しながら一人が小声で囁いた。

「然し、ワシ等は何時も合戦になると先陣を切らされるよな。下級武士と舐めくさしゃがってからに、此れじゃ命がなんぼ有っても足りゃせんぞ。どうせこっちで見つかってみぃ、なぶり殺しの目に遭うだけじゃ」

「ほんま、情けない話よ。合戦の度に、いの一番に危ない処へ突撃じゃ。ワシゃもう此れで三度目でぇ。知った者が目の前で何人も死んどる」

「ワシはもう向こう岸には絶対に帰らんからな」

「彼奴は敵前逃亡したと報告してくれてもええから。とに角、この足で田舎へ帰り夜逃げじゃ。どっかの山ん中で女房子供と一緒に自給自足で暮らす事にする。平家の落人と一緒じゃ」

 と小声で言いながら、竿で浅い水の中を漕いでいると舟底が当たり出した。

「オイ、此処らで隠す所がないかのう」

「其の先の柳の下なら何とかなりそうじゃが」

 舟を降りて其処へ押し寄せた。

 城山下の東奥にあたる谷間の小川の側に、農家であろう藁葺き屋根が二、三軒が見える。

 丁度、その時刻である。一軒の玄関戸が開き親子が出て来た。

「お父ちゃん、しっこ!」

 小さな子供が親を起こし外に有る厠へ連れて出た。親子で用足しを済ませていると暗闇の中で光るものが見える。

「お父ちゃん、ホタル」

「オオゥ、今年初めて見るのう」

 親子は暫く小高い中庭から小川に近付き眺めていた。

 其処へ「パシャ、パシャ」と水に棹差す小舟が目の前を通過したではないか。父親は慌てて子供の口に手を当て塞ぎ、其の場でしゃがんでジッとしていた。通り過ぎると慌てて母屋に走り込んだ。

「今時、何事か知らんが舟が上がって来たで。こりゃ大変な事じゃ知らせにゃいけん」

「オイッ、母さんよ、今から城へ行ってくるからな」

 父親はすぐに駆け出した。暗闇の中、提灯も持たず城下の門番の処へ駆け付けた。

「こんばんは」

「オイ、この夜中に何用じゃ」

「大変です!何か分かりませんが先ほど、小舟がうちの前を上がって行きました」

「何!此処の城にゃ舟は有りゃせんぞ」

「一寸、待っとってくれるか」

 と言って石段を一気に駆け上がって行った。

 暫くすると二、三十人が駆け下りて来た。

「そちか、小舟を見たというのは」

「左様で御座います」

「何人おった」

「暗闇ではっきりとは分かりませんが確か三人だと思います」

「そうか、有難う、有難う。すまんが其処へ案内してくれるか」

「承知致しました」

「其れとな、お前等、暗闇で走って逃げられる可能性があるから弓矢を多めに用意しとけよ」

 追手侍等は百姓の後を何も灯りを持たず従って行く。相手に気付かれないように音も立てずにだ。

 そして百姓家の前に来ると

「お侍様、これより上は舟はいけません。その先の柳の下に舟を隠していると思われます」

「こっから上は小川の側を小さな道が続いておりますから」

「オゥ、有難うよ、ようやってくれた。後は危ないから家の中に入っとってくれるか」

 と言いながら、竹の皮に包んだ握り飯を五、六個差し出してくれた。  

 昨夜の晩飯の残り物であろうか。

 でも貰った百姓にしてみれば大変嬉しかったのだ。何しろ米を作る農家にして、白飯を食う事が殆ど出来なかったのだ。何時も粟、稗、良くて麦飯であったから米のむすびに大喜びであった。

 其れから農家から先は音も立てずそろりそろりと川岸に下りて行った。

 三日月の月明かりの中に舟が見えてきた。川面に入って草を被せているではないか。二人いる。もう一人は上で見張りをしているのであろうか。深瀬勢の四、五人が水の中に入って音も立てずに近付いて行く。

 その時だ。一人が水の中の石苔に足を滑らせ「バシャ!」とひっくり返ってしまった。その音を聞いた二人は驚き、急いて水の中から駆け上がり山の中に走り込んでしまった。

「馬鹿野郎!」

 他の追手もまだ先の方へは回り込んでおらず、挟み討ちが出来ず、山の中に逃げられてしまった。

 まず見つけだす事は不可能だ。明かりを一切持ち合わせていないのだ。

 其れから暫くは辺りを見回したが何せ回りは雑木林だ。何の手掛かりを得る事も出来ず、やむ無く退散してしまった。

 翌朝、尼子勢の参謀達が昨夜の舟の一件について吟味しだした。

「オイ、岩屋の下へ付けた舟はどうなっとりゃ」

「ハァ、今のところは何の様子も知らせが無いんですが」

「まさか、とっ捕まったんじゃ有るまいのう」

「其れにしても舟の姿、形が見えんのう。下の方へ流されちゃおらんのか」

「いや、其れならすぐ分かりますから」

「とに角、奴等の知らせを待つ以外に方法がないのです」

「フゥン〜」

 山の中で煙りを上げる段取りではあったのだ。然し、その日は何の知らせも無かった。其れからニ日後の事で有る。岩屋城の前の道を隔てた可愛川の川岸に舟が繋がれていた。

「オイッ、あの舟は三人で乗って渡ったやつじゃろうが」

「確かに、間違い有りません」

「深瀬の野郎等、此れみよがしに見せつけとりゃがる」

「すると皆、遣られたんかのう。道理で何の音沙汰がない筈じゃ」

 然し、実際のところは、どちらの陣営にも生死が分からず、ようとして行方が知れなかった。

 其れが実を言うと、三人のうち、最初に逃げると言ったこの郷士は、舟の現場から追っ手の目を逃がれる為に必死で山中に走り込み、他の二人を構う事なく命からがら抜け出した。暗闇の中、何処の山道をどう逃げ惑っていたのかさっぱり分からなかった。ただ女房、子供に会いたい一心であった。

 其れから何日も何日もかけ人目を避けて宍道湖を目指して山道を奔走したのだ。道中、食べる物とて無く山芋を掘ったり、野苺や農家の軒先きに有った大根、野菜を失敬したり「すまんな」と自責の念にかられながら、洗濯物の着物を盗んだりと懸命であった。山脈を越えてからは戦の事とは一切関係が無くなり.甲冑、刀は放り投げ、今迄の郷士ではなく百姓の田舎歩きの格好になっていた。髭ぼうぼうとなり自分が誰か分からないほどであった。

 そうして逃げ出してから、どれほど経ったかさっぱり分からなかった。とに角、人目を避けながら野宿を続け、道なき道を彷徨った挙句、回り道をしたので有ろう。

 険しい山中の峠に差し掛かった時に眼下に大きな川が流れている。

「おおう、江の川じゃ!」

 そして連なる山並みの先に一段と高い、あの懐かしい三瓶の山が見えてきた。

「オウ!近づいたぞ」

 此処から先は勝手知ったるわが庭の様なものだ。だがまだ距離はある。

 山麓を周って歩いている時に、自分が何で逃げ帰って来たのか、やっと正気を取り戻した。毎度の如く先陣を切らされて突撃命令を受け、カッとなり頭に来ていた自分が敵前逃亡など如何にもまずい。

「こうなりゃ、ほんまにワシの存在を隠して山ん中に逃げ込むか」

 三刀屋の集落まで帰った来た。ここら辺りではまず顔を知った人間に出合う事もないだろう。然し、この近辺には親戚もある。日が暮れかかった頃からぼつぼつ歩きだした。峠から暗闇先に宍道湖が見えてきた。

「いよいよ辿りついたな」

 そして夜半にオンボロ家の玄関戸をドンドンと叩いた。

 女房が眠そうにしながら出て来ると

「どちら様でしょうか」

「オイッ、ワシじゃ。亭主が分からんのか」

「えぇ~、だってぇ」

 大髭面でざんばら髪の百姓姿で誰にも分からないほど変貌していたのだ。

 その声に気付いて子供が出て来ると

「お父ちゃん!」

「おおう、元気にしとったか」

「その顔は、へへへ」

「そりゃええがな、ワシは戰から逃げてきたんじゃ。どうせおっても殺されるだけじゃ.じゃから此処へはおらりゃへんのじゃ」

「そうよね。ウチらが淋しゅうなるだけよね」

「今から百姓になるけぇ皆んなで山ん中へ逃げ隠れじゃ、用意をしてくれるか」

「分かりました。命あっての物種よ、何処へ住んでも飯は食べれるよ」

「然し、お前は度胸が座っとるのう」


 一方、喉元奇襲の作戦が、三日経つても失敗か成功に終わったのか分からず、次の一手を国久公は考えていた。

「仰山、向こうに渡らせるには大分、下からになるな」

「青河峠の手前の瀬谷の辺りからになりますかね」

「川幅は狭いですが流れが急ですから両側から麻縄を渡させて、舟を手繰り寄せんといけんです」

「舟はなんぼ、調達出来りゃ」

「今のところ、二つしか有りません。一つは奴等に取られとりますので」

「よしゃ、其れでいくか。深瀬の野郎等、まだ此処迄は来とらんからな。夜陰に乗じて一気に渡れ!」

 夜も開けきらぬ早朝から、何度も舟の往復を繰りし百人近くを渡すにはかなりの時を要した。

 渡りきると二手に分かれて犬飼平の麓を目指した。可愛川沿いを行く者と、一方は山の麓を駆け上がる道へと進んで行った。

 川沿いを中祖辺りに来た時はもう辺りは明るくなっていた。川岸の土手の上から志和地側を見張りをしている奴等が見えて来た。

 昨夜来、寝ずの番をしていたのであろうか、眼を擦りながら大欠伸を繰り返している。

 かなり近づいて来たがこちらに気付いて居ない。

 二〜三人であろうか。

「ヨッシ、後ろの田ん中から迫れ」

 だが軟らかい田の中を歩く土音に、その中の一人が気付き

「オイッ、尼子じゃ!」

 振り向くと、抜刀し抵抗して来たが取り囲まれてしまい、あっと言う間に討ち取られてしまった。

 あとの二人は土手の上を下の方へ走って逃げた。然し、飛び道具の弓矢には勝てない。此れも一度に四〜五本の矢を浴びてひっくり返り絶命してしまった。

 もう一方は山廻りから山田辺りに入って来た。近辺に藁葺き屋根の農家があっちこっちにある。深瀬の野郎等が見張り番所に使っていたのが土手が見渡せる少し高台にあった。

 まさかこちら側に尼子勢がこの時間に来ているとは思っても見なかったのであろう。刀も差さず全く無防備で談笑しているではないか。 十人もいないであろう。一気に小屋を取り囲まれた。

「コリャ、宍戸の野郎!出て来んかい」

「オオゥ、何事なら」

 開戸を開けて見ると二重にも三重にも武装した尼子勢がいるではないか。

「なんじゃ!此奴等、何時の間に来ゃがった」

「オゥ、とに角、切り開いて突破せい!」

 掛け声だけは勇ましかったが、如何せん敵の数が多すぎる。

 其れこそ瞬く間に斬り殺されてしまった。

 問題はこれからだ。断崖絶壁の難関が待ち構えている。

 何せ、細い道を一人一人しか前に進めない。

 尼子勢の若侍が先陣を切って難所に挑み、ゆっくりと岩肌にしがみつく様にしながら進んで行く。其の様子が対岸の尼子陣営から丸見えなのだ。

 口にこそ出して言わないが全員が「頑張れ!もう少しだぞ」

 間をおいて後を追うように次が挑んで行く。五人くらいであろうか中程迄進んで来た時だ。

 突如、カラスが上空から急降下して来た。そして

「ギヤァ、アブナイ!アブナイ!」

 何とラー助ではないか。

 間も無くして細い道の上から「ガラガラ、ゴロゴロ」と異様な地響きがした途端、無数の岩石が落下して来た。

 深瀬の野郎供が事前に、山肌を削り岩石を集め板囲いをして麻縄で括り、其れを叩っ切り落とす仕組みにしていたのだ。交代で不寝の番をして待ち構えていたのだ。

 此処は花崗岩の硬く脆い地盤で大きな岩石がゴロゴロしている。

 尼子勢は逃げ隠れする所が無く、もろに身体に直撃されてしまった。先頭を行っていた若侍も頭上から直撃され高い所から崖下に落とされ河原の岩に激突し、他の者達も次々と下に叩き落とされてしまった。中には川面に落ちて流される者もいる。

 殆ど全滅の状態であった。

 其の中に怪我はしていたが水の中に直接落ちて流されている若侍がいるではないか。だが重い甲冑を着けているので水に濡れてどうにもならない。

 流れの速い中で両手を上げてもがいている。対岸の河原で見ていた者達も、どうすることも出来ない。

 その時である、竹藪の中から大きな黒い犬か狼か飛び出して来たではないか。暫く河原を走った後、水の中に飛び込んだ。川幅はそう広くない為にあっという間に追い付いた。犬に気づいたその男は無我夢中で近寄り太い尻尾を握りしめた。すると、犬かき泳ぎで力強くグイグイ浅瀬の方に引き寄せていく。犬も若侍も浮き沈みしていたが間もなくして足が川底に着き、水の中で立ち上がったではないか。

 其れを見ていた尼子の軍勢達は、歓声をあげて涙を流しながら駆け寄っていく。

 そして、かなり離れた竹藪の陰から、戦況を見守っていた総大将の国久公が、其れが鉄だと分かると河原に駆け下り砂浜を駆け出した。

「鉄!鉄!」

 泣き叫びながら犬に駆け寄った。

「ウォーン、ウォ〜ン」

「鉄ちゃんも来とってくれたんか。有難うな。よう助けてくれたな」

 びしょ濡れになったのは御構い無しに鉄と一緒に抱きあって泣いている。


 暫くすると、どうに可愛川を渡り切る事がならない状況と判断した国久公は

「オイ!今日はこれ以上は何も出来ん。残念だが引き揚げじゃ」

「後の始末は宜しく頼む」

「分かりました。救護班を残し後の処置は致します」

「陣営は後方に下がります」

  帰ると早速、城主と参謀達を集め

「完全に岩屋攻めの道を塞がれてしもうたで」

「犬飼平を越えきった奴等と、こっち岸から川越した者とで合流して深瀬を攻め込む段取りが完全に狂うてしもうた、二度とこのやり方は通用せんじゃろう」

 翌朝、ラー助がお師匠さんが寝ている枕元の直ぐ上の窓枠に来て

「オシショサン、オハヨ」

「オゥ、ラーちゃんか。昨日は有難うよ」

「ナンノナンノ」

「今日はえらい早いのう」

「テキテキ、ギョウサン」

「何!そりゃ何処じゃ」

 然し、ラー助はその場で何も返事が返ってこなかった。

「フ〜ン、何処かのう」

 何はともあれ、ラー助が見てきたのは間違いなく今朝の事であろう。ラー助の朝は早く、まだ夜が明け切らぬうちから外へ飛び立って行く。

「まぁええ、ラーちゃんよ、朝飯を食っていくか」

「クェクェ、アリガトサン」

 一緒に食べている時だ。階下から城主と韋駄天の政が駆け上がって来た。

「大殿、明光山の見張り場より此奴が報告に来ました」

 この男は心肺機能が非常に強く、城から一里程はある明光山の岩場まで休まず駆け上がって行けるのだ。其の政が大殿の前に来て一言喋ろうとすると、

「仰山、秋町に宍戸勢が集結しとる言うんじゃろうが」

「えっ!何で分かったんですか」

「仰せの通り、昨夜から今朝にかけて、いつの間にか三百人以上が集結致しております」

「してどこをどう通ったか見えたか」

「其れが全く分かりませんでした。昨夜は曇り模様の天気で夜陰に紛れて尾根伝いに犬飼平の見張り所に上がり、其処から奴等だけがが知っている獣道を一気に山田へ駆け下りたもの思われます」

「其れからですね、可愛川を下り瀬谷の川岸に掛けてぎっしり固めております」

「そうか、朝早ようから報告ご苦労じゃたのう。暫く休んでから、又、様子を知らせてくれや」

「有難う御座います」

「宍戸の奴等、向こう岸へは絶対に渡らさん腹積りの様じゃのう」

「どんどん援軍が増えようる」

「然し、其れ以上に難儀なのは水嵩が一向に減らん事じゃ」

「此ればかりどうにもなりません」

 其れから暫くの間、膠着状態であったが如何せん長い梅雨空が続いている。

 更に志和地八幡山城に陣を張って半ばの頃、尼子軍勢はとんでもないものに襲われた。

 毛利軍の奇襲でも何でもない。ひと足早い野分き(台風)に襲撃されたのだ。その日は夕方ぐらいから徐々に風の勢いが増し、夜中にかけて猛烈な暴風雨に見舞われだした。仮の掘っ立て小屋を建て、何千人が野宿の様に起居していたのだが、屋根は吹き飛ばされ柱もズタズタに壊されてしまった。

 朝見ると殆ど吹き飛ばされているではないか。基礎がない為にグチャグチャに建物が壊され其処ら中に散らばっている。それこそ修復するどころではない。

 その光景を天守から見た時、あまりもの惨状に戦さに負けた以上の衝撃であった。風雨にさらされ誰も一睡もしていない。皆びしょ濡れのままで大勢の風邪引きが発生していた。

 この状態であれば即座に復旧はままならない。

 急遽、 城主以下、忽ちの雨宿りを確保する為に近在の民百姓の家へお願いに走った。庄屋からお寺さん、大地主の大きな家へ兵糧米と味噌と醤油を持参して交渉にあたったのである。お寺さんになると一畳に四人ざこ寝状態で何百人も詰め込み、幸いな事は、この時期は布団もいらないので大いに助かった。他にも民家や納屋の中へ殆ど収容することが出来た。

 然し、此れとて、毛利軍としても同様であった。最前線基地の深瀬岩屋城辺りも援軍が到着しており同じ目に遭っているのだ。

 だが野分きに不平不満を言った処で詮無い事であり、晴れの日に集中して復旧に取り組んだ。

 そして三日目にどうにか壁の無い屋根だけの小屋が出来上がったのである。

 処が、其れからも降ったりやんだりの天候が何日も続いた。

 もう此れだけでも戦意喪失状態であった。その後も膠着が続き両軍が睨みあったままであった。

 如何せん可愛川の水位が下がらない。

 此れでは何時まで経っても作戦の立てようも無い。気分が滅入るばかりでとうとう戦闘意欲も萎えてしまった。

 悪天候にはどんな手も打ちようが無く、それに肝心の兵糧米も尽き掛けている。

 人の数だけではどうにも勝てない。睨みあいの持久戦、それに長雨と暴風雨に萎えた気持ちと、如何ともし難い可愛川の大きな弊害に国久公は全く弱気になってしまった。

 吉田郡山城を攻略するどころか、川一つ隔てた五龍城へも届かない。

 国久公はとうとうワシの判断では如何ともし難いと、戦さや侍のする事には関係のない町人の与作に最後の決断を仰いだのである。


 〜 与作殿、ワシのする事、為す事、決断に万策尽きてしもうた。関係のない事に引き込み申し訳ないが最後に一つだけ与作殿の教えを乞いたいのじゃ 〜


「オトウサンガミガミ」


 〜 心中、お察し申し上げます。この天候ゆえ如何ともし難いと存じます。

 其処で米俵十俵を試しに上流から流してみて下さい。詳細は後にラーちゃんが又、知らせます。其れで最終判断を下されては如何でしょうか 〜


 こんな短い短文も、ラー助は喜んでお師匠さんの元へ一気に届けてくれる。

「何かいのう、ワシにはさっぱり見当がつかんで。まぁ言われた通りにやってみるよ」

 お師匠さんは与作の指示通り、家来に命じ次の日、川立部落の庄屋に頼み込みに走った。

 早朝、小雨の中、蓑を着け二人連れで来た侍がいきなり切り出した。

「朝早ようからすまんのう」

「何と、雨の中、ご苦労様で御座います」

「ちょっとした作戦があってのう。協力してくれんか」

「お安い御用で御座います」

「すまんすまん」

「してどうすれば」

「米俵十俵を調達してくれんか」

「其れは宜しゅう御座います。じゃが今此処でいきなり急に言われましても」

「実はな、其れを即ぐに可愛川に流してもらいたいんじゃ」

 庄屋は、たまげて聞き返した。

「何ですか!米俵を十俵も川に流すなど気狂い沙汰ですか。この時期そんな余裕は全く有りませんよ。いくら何でも其ればかりは協力出来ません」

「心配すな、大丈夫じゃ迷惑は掛けん」

 一人が庄屋にヒソヒソと耳打ちをした。すると途端にニコッと笑みを浮かべ

「そうですか、早速始めます。昼迄には詰め込めるでしょう」

 庄屋はすぐに近くの百姓を呼び集め段取りをつけ出した。

 この時間には雨も上がっている。

 詰め終えた米俵を肩に担いで、可愛川の支流で川立から流れ込む小川まで持って来た。

「いやぁ、朝からご苦労さんじゃったのう」

「えらい軽い俵ですが何の為に使われるんですかね」

「ハハハ、ワシ等もとんと分からん」

「まぁ、とに角やってみてくれるか」

「承知しました」

 向こう岸の宍戸勢に見られない様に、竹藪の陰から米俵を一つ一つ間隔をあけながら百姓達が順に流したのである。米俵といっても実は中身は米ではなく、籾殻が詰めて有りプカプカ浮く様になっていた。

 甲立五龍城と岩屋城の中間辺りである。本流に合流してゆっくりと流れ出した。

 暫くすると、列をなして浮いているのを、向う岸から見張りをしていた毛利の番兵が見つけ、大声で叫び他の奴を呼んだのだ。

「オ〜イ、一寸、来い! 米俵が仰山流れとるぞ」

 その声を聞いた途端にぞろぞろと他の者が出て来るではないか。

「勿体ない、早う岸に寄せて拾えや」

「誰か、竿を持って来い!」

 流れて行くうちの一俵を漸く手繰り寄せた。後は下流に流れてしまった。其れを追っかけながら

「お〜い、大事じゃ出て来い!」

 其の声に何事かと土手の上に続々と出て来るではないか。

 対岸の尼子側からは全然見えなかったが、宍戸勢は岸の直ぐ傍に塹壕(ざんごう)を掘り隠れていたのだ。

 偵察に来ていた尼子の家来はたまげまくった。

「何と、凄い人数が隠れとりゃがる」

 米俵が流されるに従って一俵、二俵と引き上げられていく。其れに従って人の波が出入りするのだ。其れを上流から下流に掛けて散らばって見ていた尼子の参謀達は、総大将の国久公に八幡山城へ早馬で報告に走った。

「大殿様、可愛川を向こう岸に渡るのは先ず無理で御座います」

「どうしてじゃ!」

「凄い人数が土手や岸の下の塹壕に隠れて居ります」

「ウ〜ン、そういう事か」

「分かった。これ以上、犠牲者を増やす訳にはいかん」

 国久公はその場で即座に決断をした。

「ラーちゃんはおらんかいのう」

 窓の外を見てもこの近くにはいない様だ。

「何処へ飛んで行ったか、一寸、呼んで見るか」

 久し振りにカラス笛を懐から取り出してひと吹きすると、早い事速い事

「オシショウサン、ナニヨウジヤ」

「今即ぐに大将に届けてくれんか」

「マカセトケ」

 〜 大将よ、有難うな。米俵の意味がよう分かったよ。此れじゃとてもじゃないが向こう岸すら渡れんよ。然し、ワシらの頭で以っては到底浮かばん発想じゃ。貴重な扶持米を流すなど及びも付かん考えじゃ 〜


「ラーちゃんよ、此れを宜しく頼む」

「アイヨ」


「此れじゃ何時まで経っても決着はつかん」

 と判断した国久公は意を決したのである。

 急遽、八幡山城の天守閣に城主を始め参謀達を集めた。

「中村氏、其れに皆の者、ワシはこの戦さから撤退する事を決心した。この天候故に何時までも待ってはおられん。野分きにも遭い村の皆の者達へも大変迷惑をお掛けした。兎にも角にも、可愛川を超える手段がないのじゃ。この通りお詫びし、又、礼を述べさせてもらう」

 と言い深々と全員の前で頭を下げた。そして一言発し

「引き揚げじゃ」

 国久公は与作に其れこそ最後の書簡をラー助に託したのである。


 与作殿へ


 ワシは己れの運命を恨んでおるよ。

 もう大将達とは二度と、この世では会えんかも知れません。

 ワシの人生の中で大将、鉄、玉、ラー助との触れ合いが走馬灯の様に蘇ってくるのです。

 とに角、充実して一番人間らしく素直な自分である事が出来ました。

 産まれて此の方五十前のどっちが師か分からん様なワシを、自分の危険を顧みず、何度も命を救って貰い、ほんまにほんまに感謝の念で一杯です。

 まだまだ若い与作殿には此れからの世の中に貢献して頂きたく、幸多からん事を願い筆を置きます。

  有り難う御座いました


 尼子軍勢が三次の地を離れたのは暑い盛りであった。帰りの行軍は疲れ果て、何をしに遠く安芸、備後の山奥まで行ったのか、成果も無く帰る程辛い事は無い。おまけに酷い野分に遭い、風邪の為に体調不良者が多くおり、帰りの赤穴、頓原の峠越えの山坂道を難渋していた。とに角、出雲地方の自分の故郷に帰りたい一心であった。

 三刀屋、木次辺り迄帰って来ると行軍がバラバラになり出した。

 古くから存在している出雲風土記にも出て来る、近在各地からの兵士がかき集められた為である。新宮党は此の西出雲に所領を有し、尼子陣営の中でも大きな発言権と戦力を持っていたのである。

 そして、宍道湖が正面に見える位置迄帰って来ると

 戦地に赴いた皆んなが一様に安堵の表情を浮かべている。

 何時も見慣れた波穏やかな風景だ。沖には何隻もの小舟が浮かんでいる。

 此の湖は水深が浅く、シジミや小魚を獲る漁業を生業としているのだ。

 可愛川で小舟に乗って、真っ先に戦死したと思われた行方不明者三人のうちの一人の住まいも湖岸の近くにある。

 真っ先に逃亡を図った郷士と、同じ戦場に出向いたこの地区の知り合いの侍が、名誉の戦死の報告にその家を訪ねた。

 ところが此れと相前後してこの郷士は、前日にこっそりと逃げ隠れしながら帰宅していたのだ。

 突然の来訪者には家族が驚いた。まさか旦那が真夜中に逃げ帰った次の日の朝、家に戦死の報告に来るとは思いもしなかったのだ。

 一番たまげたのは逃げ伸びてきた本人で、慌てて押し入れに隠れて報告を聞いていた。応対に出ていた妻は

「エェ〜、勝利の凱旋ではなくて、うちの旦那は亡くなったんですか」

「うん、先陣を切っての天晴れな大活躍で、大殿も誉めておられたが残念な事であったよ」

 話しを聞きながら、オイオイ泣き叫び、取り乱した素ぶりをするではないか。

 女房も上手いものである。

 こっそり帰って来た本人が、家の中に居るとは知る由も無く、慰みの声を掛けると、小包らしきものを置いて早々に帰って行った。なにがしかの金子が入っていたのであろう。

 使者が帰った後に

「お父さん、あれでえかった?」

「オオゥ、上等じゃ、何が天晴れじゃ!殿が褒めたじゃとぅ!大嘘を抜かしゃがってからに」

「ワシャこの藩に何の未練もありゃへんわい」

「どうせ死んでも死に損じゃ、何もくりゃせん」

「後はワシの存在さえ隠しときゃ、名誉の戦死のままじゃ。女房子供と何処へ逃げても何のわだかまりもありゃせん」

 実際に其れから二日後、女房子供達家族が夜逃げの如く全員居なくなった。

 その後の親子の存在は、何処にも誰にも確認される事が無かったのである。

 おそらく、山深い所に目立たないように隠れ住む為に、郷士の立場を棄てたものであろう。

 この戦国乱世の時代には往々にしてよくある事であった。源平合戦に敗れた、平家の敗残兵達は落人として全国に散らばったが、以降も合戦の度に、同じ様な境遇の人間同志が、山深い場所に目立たないように隠れ住み、集落を形成し、先祖代々累ねる事に、何時の間にか小さな村となったのであろう。

 とに角、何処でも住めば都である。

 他の逃げた二人も、とっ捕まったか、あるいは雲隠れしたか行方が誰にも分からず、多分、同じ事をしたのであろう。


 この犬飼平の合戦は天の采配にも恵まれず、止む無く引き揚げる事となった。だが決着が付いた訳でも無い。其れから又、間も無くして尼子晴久当主自ら三万の大軍を率いて、直接、吉田郡山城を北部から攻撃する事になるのである。

 とに角、三次藩としてはホッとしていた。三次の町も八幡山城にしても何の被害も無く、ましてや、藩士に誰一人として犠牲者がいなかった。心優しき三吉のお殿様にしてみれば、此れが一番の喜びである。

 難儀な事が過ぎ去ってからは、三次の町に平穏な日々が戻り、合戦での狼犬の鉄やカラスのラー助の活躍が巷の話題で持ちきりであった。

 三吉のお殿様が面白半分で命名した、三次藩お抱え忍者第一号は、当時、世間からかなりの批判を浴びたが、今回の活躍で一遍に評価を高めたのである。

 早速、町の噂話を聞き付けた家来供から、この情報を知った家老が城中で

「お殿様、この度の鉄やラー助の活躍で、三次藩の評判がグンと高まりましたね」

「ほう、そりゃどうした事なら、とんと分からんがのう。何しろ家老同様にワシは籠の中の鳥じゃからのう。ハハハ」

「皮肉は言わんといて下さいよ」

「其れはですね、犬飼平での事です」

「其れでどうした、早う言えや」

 お殿様は膝を乗り出して興味津々

「尼子の若い衆たちがですね、岩屋城攻めの為、犬飼平の断崖絶壁の細い道を進んどる時、深瀬の野郎等の仕組んだ岩石落としの罠にはまり、数名が可愛川に叩き落とされたようです。下は岩だらけで殆ど絶命したらしいんですが、一人が川に直接落ちて流されたようです。足を岩石に直撃され負傷し、其れに水の中で重い甲冑をつけており、両手をバタつかせながら溺れて流されていたそうです。こちら側で見ていた者等も、眺めるだけで手助けする事も出来ませんでした。

 其れを何処からともなくですね、大きな犬か狼かが出て来て河原を走り乍ら追い付くと、水の中に飛び込んだそうです。即ぐに其奴の側に泳ぎ着くと大きな尻尾を捕まえさせ、浅瀬の岸に得意の犬かきで引き寄せたようです。とに角、両方とも必死です」

「溺れるものは藁をもでなく尻尾ですわ」

「そんなこたぁどうでもえぇ」

「そしてかなり下の方で水中で其奴が水底に足が着きスクッと立った時、オウ〜、やった〜やったぞ!其れを見ていた者達が口々に大声を出し、涙を流しながら感激したそうです」 

「そこへ竹藪の直ぐ横に陣幕を張り、中にいた総大将の国久公が歓声に気付き、何事なら!と飛び出し、離れた場所から見ていて、それが鉄だと気付くと、一気に川岸を走りながら近付いたそうです。そして

「鉄!鉄!」「ウォ〜ン、ウォ〜ン」

 と呼びながら駆け寄り、互いに抱き合って泣き叫んでいた様で御座います。此れを見ていた全員が感激しない訳が有りません」

「ウ〜ン、ワシも泣けてくるわ」

 と叫びながらお殿様の目から大粒の涙が溢れ出てきた。

「 鉄ちゃん 、ようやった!」

「そうか、そうか。そうじゃったか。ワシもその場で見てみたかったのう」

「ウン!家老の講釈師、話しが上手いのう!」

「何をご冗談を、ほんまの事を言うたまでですわ。其れにラー助はですね、国久公の処へ毎日の様に姿を現しては、敵の空からの偵察に大活躍をしてくれとる様です」

「なんちゅうてもラーちゃんは空飛ぶ忍者じゃからのう」

「それみいや、家老よ、ワシのした事が間違ってはおらなんだろうが」

「左様でございます。恐れ入りました」

「然し、出来るだけ早ように与作殿には出仕してもらいたいもんじゃで。ワシャ楽しみにしとるんじゃ。鉄とラー助に尻を突いて貰わんとな」

「ラーちゃんに督促状を持たせいや」

「そんな無茶を言われても」

「それにな、ワシは・・」

「殿様、分かっております。又、一人で出掛け様と思っておられるんでしょう。其れは駄目ですよ」

「分かったよ、其れなら前と同じ様に離れてから来てくれるか」

「殿様の楽しみを奪ってはいけませんから宜しゅう御座います」

「然しな、ほんま鉄、ラー助は凄いで」

 お殿様は家老と籠の鳥同士の城中での会話が楽しくて仕方なかった。

 だが此れらの狼犬やカラスを飼い慣らしている与作が世間に知られる事は殆ど無かった。合戦での活躍で、一躍、世間に知れ渡ったがその時でも飼い主の与作の存在を知る人はほんの一握りの人達で、国久公と三吉のお殿様と家老、其れと「おっちゃん」の代官所の次席だけであった。

 然し、此れだけ騒がれても与作は決して表に出る事はなく、正しく忍者一家たる所以である。

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