第9話 頼母子講毒殺事件

闕所 (けっしょ)


 薬の歴史は人類の歴史と同等と云われる程に古く、古代から長きに渡り世界中に人間の知恵として活用されてきた。

 日本國でも出雲神話に出て来る因幡の白うさぎを大国主命が助ける伝説も薬にまつわる逸話であろう。

 又、薬の知識は日本に大陸から伝来した仏教とともに持ち込まれ、聖徳太子が大坂四天王寺を建立、其処で種々の薬草を育て薬を製造、調合、処方する施薬院をつくった事が発端と云われる。其れから長い長い年月を経て人々は工夫し西洋の蘭学や漢方医学を学び発展させたのであった。

 こうした事から、日本各地の寺院に於いて広い寺社地を利用しての薬草栽培も行われていた。以降もこの流れで貧しい平民の為に、寺院は檀家へ薬の世話をしていたのである。

 漢方薬、和薬を広く世間一般に普及させる為の薬店や薬種問屋が生まれ出したのが室町時代からと言われ、戦国時代後期の豊臣秀吉の頃から急速に波及しだしたのである。大きな大坂城築城にあたり急速に城下は発展し、それともに多くの人民が暮らす様になった。

 その為、薬の需要も増し出し城の直ぐ近くに隣接する道修町に集中的に薬製造、売薬店、薬種問屋が作られていったのである。この地は古くから薬に関わる伝統の地である四天王寺に近く、天下統一と共に全國に売薬が波及していったのである。

 武家社会だけに限らず農工商と全ての民から一番必要とされていたのが医薬品であろうか。この時から江戸時代以降にかけて急速に発展し、夫々の家庭に常備薬される様になってきた。

 こうした需要の為、日本各地の主要な町へも波及し、この備後の田舎の地に於いてもご多分に漏れず同様な事態になりつつあった。

 約四年前に瀬戸内沿いの備後尾道から進出して来た同業の深澤屋は、地元の三次でいち早くから商いを営んでいた浅田屋と、備北方面への薬種問屋の覇権をめぐり、熾烈な争いを繰り広げていた。

 深澤屋は後発のため策を弄して、三次代官と結託してまだまだ普及が遅れている、次なる山陰出雲への進出の足掛かりとなるべく、浅田屋潰しの野望を持っていた。

 娘の美和の誘拐監禁事件では失敗に終わったが、次なる新たな一手を練っており、何れ又、何か仕掛けて来ると与作は読んでいた。

 私利私欲の業突く張り代官と手柄を焦る深澤屋三次店主の権三はとんでもない企みを思いついたのである。

 此れが誰も全く想像しえない形で事件が発生し、驚きを禁じ得なかった。

 薬種問屋、浅田屋善兵衛を陥れるために 、とんでもない策略を講じたのである。

 歳も押し迫った師走の二十日、今年、最後の頼母子講が浅田屋で催された。

 地元の商店主十五軒が集まり、恒例の頼母子講が本年最後で、忘年会を兼ねて亥の刻頃迄、賑やかに執り行なわれた。

 頼母子講とは、鎌倉時代に庶民の間に自然的に発生した、小さな金融機関みたいなもので相互扶助を目的としていた。少人数が集まり積み立てたお金を毎月融通しあっていたのである。

 与作達の丁稚仲間と、下っ端の手代は宴会が終わる迄、雑用を命じられ付き合わされていた。

 やがて「シャンシャンシャン」の手締めでお開きになると、家路につく各商店主の為に、玄関先への見送りから、中には足元がおぼつかない店主もいる為、お土産の荷物と共に自宅へ送って行く手代もいた。

 与作も、何組も近所のお店先迄お供をしていた。そうした中に呉服の吉田屋と荒物屋の兼澤屋が座敷から一緒に玄関口に下りてきた。

「お疲れ様でございました。おうち迄、荷物をお持ちしましょうか」

 と与作が声を掛けると

「ええから、ええからワシらはな、一寸、小腹がすいたから蕎麦でも食うて帰るよ」

「分かりました。足元に気をつけてお帰り下さいませ」

 完全にお開きになり、各商店主が帰宅し座敷の後片付けを済ませたのは真夜中を超えていた。接待していた浅田屋の家族、女中、手代、丁稚供もクタクタに疲れきっていた。朝早くから昼間中はずっと仕事をした上だったので尚更である。

 だが、奥様が皆んなを広間に集め座らせると、奥から盆の上に小袋を幾つも載せて現れ皆んなに一言お礼を言った。

「皆んな、遅く迄ご苦労様でしたね、疲れたでしょう。此れは少ないですが気持ちです、受けとって下さいね」

 と言いながら各人に寸志を手渡してくれたのだ。

 この奥様の優しい言葉と態度に、いっぺんに疲れが吹っ飛んだ気持ちに全員がなったのであった。

 特に住み込みの手代、丁稚にとっては日頃、無給金の様なもので飛び上がらんばかりの喜び様であった。

 其れも 、日当分以上のものが入っており思わぬ年末報奨金に「有難う御座います」「有難う御座います」の大合唱で夫々がお礼の気持ちを述べていた。

「ご主人さんだったら、舌でも出さんのにな」と皆んなが顔を見合わせながら小声で呟いていた。

 ようやく解放された与作は、浅田屋を出ると、

「鉄が遅くなって心配しなが待っているだろうなぁ、早よ、帰ろう」

 と気に掛けながら小走りに駆けていた。山道に差し掛かる辺りで、ボチボチ呼ぶかと思った途端に両足に何かが当たった

「おお、鉄ちゃんか、ありゃ、玉ちゃんも来たんか」

 あとは「ウワン、ワン」「ニャア、ニャア」と大騒ぎをしている。

 流石に忍者一家である。近ずく足音も吐息も立てないのだ。

 玉ちゃんは、与作の帰りが何時もより大分遅いので、小屋から夜道を駆けて来たのだ。

 小さな歩幅の玉ちゃんは迎えに来るのにさすがに疲れたのか、ちやっかり鉄の背中に乗っている。暖かくて気持ち良さそうだ。本当に親子兄妹の様に仲良しなのだ。

 時に、与作の懐に入ったり、歩いたりと全く気まぐれである。

 こうした遅い残業明けに、寝る間も無いのにも拘らず、与作は何時もと同じ時刻に浅田屋へ一番に顔を出していた。

 早速、箒を持って中庭や店先の掃除を始めていた。

 そのうち主人が、昨夜の疲れからか眠そうに欠伸をしながら玄関戸を開け出した。

「おはようございます」

 与作が挨拶しても何の反応もない。丁稚の疲れなど何とも思っていないのだ。

「へへへ、まぁいっか」

 そのうち通いの番頭さんや他の奉公人も続々、出勤して来だした。

「おはようございます」

 だが、ろくに返事もしてくれない。

 然し、どいつもこいつもこりゃ何だ、よくもまあ此れで商いが出来るもんだなと変な感心をしていた。「まぁ仕方ないさ、こっちは新米の丁稚だからなぁ」

 何時もの様に商店街も揃って開店準備を終えて店先が忙しくなる頃、前の道をバダバタ駆けて来る足音が聞こえた。

 そして浅田屋の店の中に四、五人の役人が飛び込んで来た。

「お役人様、朝早くから何事で御座いますか」

 と番頭が尋ねると

「浅田屋の主人はおるか」

「只今、中におりますが御用をお聞きしたいのですが」

「ワレでは話しにならん、呼んで来い!」

 押し問答をしている時、騒ぎを聞きつけて主人が顔を覗かせた。

「私が浅田屋善兵衛で御座います」

「オオゥ、浅田屋か、ゆんべな、お前の処で頼母子講があったらしいのう」

「ハイ、子の刻の頃迄、皆さんいらっしゃいましたが、何事も無くお帰りになられました」

「其れが大有りなんじゃ。お前のとこで出した料理に当たって二人が死んだと届けがあったんじゃ」

「そんな馬鹿な!」

 主人はびっくりして

「うちで出したものが当たるなど考えられません」

「今朝も昨夜の残り物の料理を、住み込みの連中と私は皆んなで食べました。何とも無くてこうして全員ピンピンしております」

「私達も異常は全く無いですが」

「私もです。お代わりもしたし」

 と住み込み手代や丁稚が口々に叫んだ。

 然し、役人は毅然とした態度で

「ワレ等がどう言おうとも、現実に二人が死んどる。今朝の医者の診立てでも食当たりと判明しておるんじゃ」

「お役人様、うちで出した昨夜の仕出し料理は、三次で信用ある長岡屋さんから調達した物で御座います。絶対に間違いは有りません」

「何を言うとるんなら、我れん処の不潔な台所と汚い手で扱こうたんじゃろうが、どう言おうとも理由にならん」

「そんな不合理な理由で何の詮議も無いのに、どうしていきなり捕まえられるんですか。おかしいじゃないですか」

「じゃかましい!つべこべ抜かすな、文句があったら代官に言え」

 と言いながら浅田屋に縄を掛けてしまった。そして外へ連れ出すと

「今日から即刻、店を開けてはならん。分かったな」

 と主人に聞こえない様に番頭に言い残し連れ去ってしまった。

 突然の出来事に、奥様を始め奉公人達はどうしていいか分からずに右往左往していた。

 昨夜半から早朝に掛けての短時間の出来事に、代官所は即座に逮捕に来たが、どう考えても判断が早すぎる。其れに、死んだ二人の店に、役人と一緒に医者が立ち会った節が全く無いのだ。

 与作が早朝に前の道を掃き掃除をしている時、本通りは一本道で見渡せる。其れに何かあれば隣近所の丁稚が必ず騒ぎ立てる筈だ。

 完全に仕組まれている事は明白であったが、忽ち証を立てる事が誰にも出来ず為すがままであった。

 店を開けられず闕所になれば、何れ財産を没収され三次を所払いされる可能性があり、浅田屋の家族にしても、奉公人達も忽ち露頭に迷う事になる。

 美和の誘拐監禁事件の時、浪人者二人の素早い処刑といい、今回の手際のいい役人の踏み込みにしても、完全に代官と深澤屋がグルで有ると云う事は明白で与作には分かっていた。

 この時代は戦国の世で、権力者の横暴が罷り通っていた。今度の様に、悪代官の匙加減ひとつで町人、百姓の命など法が有って無い様なもので如何様にもなったのである。

 今回の事件解決には、代官所を頼る事は全く出来無い。

 事を急ぐ奴等に対して、こちらが早急に手を打たなければ、主人は浪人者の様に有らぬ罪を被せられ、簡単に首を刎ねられるであろう。

 今日から店を閉められるとなると 、忽ち毎日が無職の身となる。自分としても此れから先 、長くお世話になるで有ろう浅田屋が消えて無くなるのは、どうにも忍びない。

 与作は浅田屋を助けるべく、即ぐに行動に打って出た。

 昨夜は宴会が引けてから、殺された二人を、与作が玄関先に見送りに出ており、その時に小腹がすいたと言いながら北の方に歩いて行っている。

 此処からの行動が重要な手掛かりとなるので、足取りを逐一追跡しなければならない。

 然し、与作が動くに当たっては、事件現場が浅田屋の全く身近かな処故に、其のままの格好では、すぐに丁稚奉公勤めの身分かバレてしまう。其れでは全く話しにならない。

 代官所から店を閉めろと言われてしまったので、与作は急いで店を離れた。

 街中を離れるとすぐに犬笛を吹いた。

「こんな早い時間に吹いた事たぁないが鉄ちゃん居ってくれるかな」

 帰りに呼ぶ何時もの場所より町中で吹き、更に山寄りでもう一度吹いてみた。

 処が鉄も

「何処に居ても聞こえるよ」

 とびっくりした様な顔をしながら駆けつけた。何時もは殆んど夕方暗くなってから呼ばれるからだ。

「鉄ちゃん、今から帰ってくるぞ。競走しよう」

 途端に嬉しそう表情だ。本気で走らせたら与作の三倍以上は速いで有ろうし、其れに持久力が半端ではない。長い登り坂でも一気に駆け上がる。

 少し前を走りながら常に後ろを振り返えっては与作を気遣っている。

「鉄ちゃん、速いな。でもお前は本当に優しいな」

 道中の半分くらいの垰で休憩がてら

「ラーちゃんも呼んでみるか」

 とカラス笛を吹いてみた。するとアッと思う間もなく与作の肩に止まった。

「何じゃ、ラーちゃん見張っとってくれたんか」

「へへへ」

「ほんま空飛ぶ忍者じゃ、凄いのう、ワシにも全然分からんかっよ」

「師匠さんが喜ぶ筈だ、ラーちゃんが付いとってくれると全く心強いからな」

「お前達は大の仲良しで目も鼻も凄いから、お互い何処におるのか直ぐに見つられるんじゃなあ」

 鉄とラー助は嬉しそうに見つめ合っている。

 炭焼小屋に近づくと、足音を聴き玉が飛び出してきた。今朝、出がけに小雨がぱらついていたので遠慮したのであった。

「玉ちゃん、晴れてきたから一緒に行くぞ」

 この行くという一声を聞いて、鉄とラー助と一緒になり大騒ぎしながら喜んでいる。

「おい、ちよっと待っといてくれ、今から支度をするから其れ迄、外で遊んどれな」

 此れからが与作は大忙しだ。今日一日中、手間が掛かるかも知れないので皆んなの弁当を作り、髷を結い直し、そして変装の為の付け髭や衣裳を整えなければならない。先ず米を炊く為に囲炉裏に鍋を掛けて火を焚いていた。

 今回、本当はやってはならない事だが、この際やむを得ない。

「使わせて下さい」

 と物入れに手を合わせた。総大将襲撃事件の時、亡くなった方の遺品の着物を取り出し、そして 二本差しも借りることにした。

 肝心の顔に貫禄を持たせる為に、自分の髪を間引き、 飯粒を 練って熱を加えたコテでくっ付け、鼻の下から顎にかけて付ける髭を用意した。

「こりゃ付きが弱いから糊も毛 も予備に持っとかにゃいけんのう」

 その間に飯が炊けたので、簡単に有り合わせのおかずを添えて弁当を作り風呂敷に包んだ。そして外に一声掛けた。

「皆んな今から出発じゃ」

 一気に集まって来た。だが其の前にやらなければならない事がある。

「一寸、墓参りをしてから行くぞ」

 すると愁傷なもので与作の後で横一列に並んでいる。

 何時もの様に短いが読経を始めた。其の途中にラー助が

「ナマンダブ、ナマンダブ」

 と茶々を入れてくる。憎めない本当に可愛い連中なのだ。

 それを済ませると愈々出発だ。

 鉄の背中に荷物を括り付けると早速玉が其れにしがみついている。鉄は嫌な顔一つしない。

「よし、別荘迄一気に行くぞ」

 この道中は、日中に忍者一家が始めて揃って出かける事となり、皆んな嬉しくて堪らない。普段は与作の仕事の都合があり、先ず無理 なのだ。

 別荘に到着すると、荷物を置いて皆んな、真剣な表情でやる気満々になってきた。衣装替えを済ますと、侍になりきり探索を開始しなければならない。

 弁当の用意や身仕度を整えると、与作の変装姿にラー助は一瞬怪訝そうに

「アレッ」 

「ラーちゃん、ワシじゃ、よう覚えとけよ」

「ワカッタアル」 

 さすがに鉄、玉は一切動じない。姿、形でなくご主人様の臭いで判断するからだ。

「鉄ちゃん、玉ちゃん 、此れから宝探しをやりに行くがよろしく頼むぞ」

「ラーちゃんは暫く空から様子を見とってな」

 鉄も玉もラー助もランランと目が輝き出した。

 偽侍は昼間にも関わらず、堂々と闊歩し、本通りに駆け付けた。其れも縄で首を括った犬と猫連れだ。

 浅田屋は戸が閉まっており、更に三軒先の吉田屋も同じだ。もう一軒の兼澤屋だけが通りの一番端にある。やはり此処も閉まっている。今日の商店街は事件の影響で、お通夜の様な状態であった。そんな中で与作が侍に化けて、犬、猫、連れでいるとは誰も気付く者はいなかった。

「亡くなった二人は夜中に帰宅した同時刻頃に、家に入ろうとし、玄関戸に手を掛け「ドンドン」と叩いた途端に其の場に倒れて吐いたのである。物音に気付いた家族が中に引っ張り込んだのだ。吉田屋も兼澤屋もほぼ同じ状態であった。

 両家の家族の者は、毒を飲まされて死んだなど知る由も無く、飲み過ぎの自然死と思い医者にも役人にも知らせる事はなかった。

 其れなのに早朝に役人が踏み込んだなど、明らかに大嘘で有る事を与作は察知していたのだ。

 与作が察するに先ず遅効性なトリカブトの毒を蕎麦に混ぜて入れたものと思われた。

 昨夜、浅田屋で食べた物は胃腸に残っており、蕎麦と日本酒だけを吐いている。

 与作は鉄と玉を夫々の店先に連れて来た。其の場には灰や砂が被せられていた

 先ず、自分で嗅いでみる。時間が経っているので分かりにくかったが、そこは丁稚と言えども薬屋の端くれだ、微量だが トリカブトである事を嗅ぎ取っていた。

 其れから鉄と玉に臭いを嗅がせると吉田屋と兼澤屋とに分かれて出発させた。日頃から得意の、食べ物の臭い嗅ぎが強い玉は吉田屋の前からすぐに駆け出した。

 鉄は兼澤屋の前からゆっくり地面に鼻を擦り付けながら歩き出した。与作は鉄に付いて行く。

 しょっちゅう 、山中で宝捜し遊びをやらせているので、こんな時、十分な能力を発揮してくれるのだ。本通りの一本裏道の花街の入り口に有る、蕎麦処の寿屋という店に辿り付いた。

 既に玉は到着していた。だが何故か店主に、箒を持って店先の路上を追い掛けられている。与作を見付けると此方へ駆けて来た。

「玉ちゃん、どうした!」

 途端に心細そうに「ニャーン」と鳴くではないか。

「こりゃあ!ワリャ、ワシの猫に何をするんなら ! 」

 店主は髭面の侍の怒鳴り声にびっくりして平謝りをしだした。

「お侍様の猫でしたか、誠に申し訳け御座いませんでした。準備中の店の中に入って来たもんですから」

「分かった 、分かった、猫のこたぁもうえゝ。一寸、お前に聞きたい事があるけぇ来たんじゃ」

「何か知りませんがワシは、今、仕込みで忙しいんです。邪魔ですから帰って下さい」

 と、えらく機嫌が悪い。猫が店内に入って来たのが余程腹が立ったのであろうか。

「ほう、お主、えらいえゝ返事をしてくれるのう」

「とに角 、目障りですから」

「分かった。今すぐに帰る。但し、ワシはこの足で代官所に出向くぞ」

「ゆんべな、本通りの二人の商店主が死んどる。それがお前の処で出した蕎麦と日本酒を飲み食いした後じゃ、吐いた証拠の物がちゃんと残っとる」

「邪魔じゃろうから帰るとするか鉄、玉行くぞ」

 と言い残して戸を閉めてから帰ろうとすると店主が慌てて追い掛けて来た。

「お侍様 、ちょ、一寸とお待ち下さい」

「何じゃ、話しはもう済んどるんじゃが」

「今の話しは本当でしょうか」

「わりゃ、ワシを舐めとるんか!ワシが何も知らんと思うとるんか」

「何でワシの猫の玉がな、ワレの店へ来たと思う」

「分かりません、どういう事でしょうか」

「玉はな、死んだ吉田屋が家の前に吐いた処から、臭いを嗅ぎながらお前の店に辿り付いたんじゃ。そしてな、此処におる犬の鉄が、兼澤屋から同じ様にして此処へ来たのよ」

「其れで両方の吐いた物の中から微量じゃがトリカブトの毒が検出しとるんじゃ」

 与作の話しに顔が段々と真っ青になり出した。そして

「お侍様、中にお入り下さい、何もかもお話ししますから」

「確かに、二人の方が亡くなった噂は先程、隣の人に聞きました。でもうちで一杯飲みながら、蕎麦を食べた後に死んだなど思いもよりませんでした」

「まあ、お前の店が関わったとなると先ず打ち首の処刑かのう。良くて遠島かのう 。何せ二人も死んどるんでな、知りませんでしたは通用せんよ」

「ワシはまだ寄らにゃいけん処があるから此れで失礼するよ」

 すると、帰ろうとする偽侍の足にすがり付き懇願しだした。

「お侍様、何もかもお話ししますからどうぞお許し下さい」

 と言いながら店先の戸を閉めだした。

「どうした、今日は店を開けんのか、さっき邪魔になる言うとったが」

「其れどころではありません」

「よし、分かった。お前がその気ならじっくり話しを聞こうじゃないか」

 店主は椅子をすすめて座らせると自分は地べたに膝まずいて座った。

「おい、おい 、そんな事たぁせんでもええよ。気楽にして話そうや」

「有難うございます」

「処でなんでこんな事になったんじゃ、お主に事情が分かるか」

「はい、お亡くなりになった吉田屋さんと兼澤屋さんは昨夜確かに来られました。其の時には他にお客さんが誰もおられませんでした。すぐその後 、吉三が入って来ると、同じ席に座って日本酒三本を注文されました」

「吉三とは何者じゃ」

「上方の役者あがりの女形でございます」

「何で一緒に来たんじゃ」

「さあ、其れは私には分かりません」

「吉三は確か三年くらい前に三次にやって来ました。以来、花街あたりを彷徨いております」

「そうすると薬問屋の深澤屋と同じ頃か」

「そう、そう、お侍様、 何でご存知なんですか。私もはっきり覚えております。

 引っ越しの開店祝いの後で深澤屋と女形の吉三がうちの店に来たんです。全くド派手で目立つ格好でした。でも、どことなく瀬戸内の方の訛りが有りました」

「其れから、まもなくしてから吉三が厨房にやって来て蕎麦を二つ作ってくれ 、ワシは要らんと男言葉で言いました」

「承知致しました。と返事をすると作っている間中、三人は大層会話が弾み非常に楽しそうでした。そして出来た頃合いを見計らかって又、吉三が厨房に顔をのぞかせて「ワシが持って行く、盆ごと貸せ ! 」と強引に取り上げました。どうもおかしな奴じゃなと思い暖簾の隙間からこっそり覗いて見ました。

 すると直接二人の処に持って行かず衝立の有る所に置きました。そしてキョロキョロしながら懐から何やら白い紙包みを取り出し、其れを広げて丼二つの中に入れるのが見えました。でも、さして気にもしませんでした。まさか毒を盛るなどとは一切考えませんでしたから」

「そのうちに店も一気に立て込んで来て大忙しでした。そしてお二人が食事を終えて勘定を払われる時は吉三はもう居ませんでした。ごく当たり前にお帰りになったので、今、お侍様の言われる事を聞いて大変驚いている処で御座います」

「私の処に代官所が捕まえにやって来んでしょうか」

「さあ、其れは分からんぞ。お前次第じゃ」

「返答によっては首が飛ぶかも知れんぞ」

「考えてもみい、毒の効き目がもうちょっとでも早かってみいや。お前が作った蕎麦で店の中で死んだ事になるんじゃで」

「例え吉三が毒を入れるのを見た言うても、代官所と吉三がグルだってみいや罪はお前に全部被せられるぞ」

「お侍様、どうか命だけはお助けください!」

「でも此れだけは、ワシにもどうにもならんかも分からんぞ」

「代官所が判断を下す事じゃからのう」

 と言われると再度、地べたに頭を擦り付け出した。

「分かった、分かった。頭を上げぇや」

「心配するな、絶対にそういう事は一切させん。此れからも安心して蕎麦屋を続けられる様にしてやるよ」

「有難うございます」

「おい、おい、そんなに畏まらなくてもええぞ。まぁ椅子に掛けぇや」

「処でな、主人が知っている事があったらもう一寸、教えて貰いたいんじゃ」

「何んなりとお聞き下さい」

「店の方はえゝんか」

「戸を閉めておりますから。其れにお侍様の方の話が一番重要な、生命に関わる事で御座います」

「分かった、手短かに済ませるからな」

 店主は震える手でお茶を出しながら自分も椅子に腰かけた。

「さっき言うとった深澤屋と吉三は、よく来るのか」

「はい、しょっちゅうです。どうも此奴等、男同志出来とる節が有りますわ」

「フフフ、そう云うもんか」

「処で三次代官はどうじゃ」

「お代官様は直接お越しになった事は有りません。でも代官屋敷には出前に行った事は何度か有ります。その折に深澤屋が玄関口に出前の蕎麦を取りに出た事が有りました。又、一度だけ吉三が屋敷に来ていたと思います。と云いますのが玄関に派手な履物が揃えて有りましたから。こんな物を履く奴は三次には吉三しかいませんよ」

「其の時は、代官と深澤屋と吉三が何やら密談をしている様でした」

「其れから余分なことを言うかも知れませんがよろしいでしょうか」

「あゝ、是非共頼む」

「以前に、浅田屋の美和さんが誘拐された事が有りましたよね」

「おう、其れならワシも覚ておる」

「其の時の浪人者の犯人二人を、事件が有る前に店に深澤屋が連れて来たんですよ。其の時はお客さんが多くおられて 、何を話しているかは分かりませんでしたが 、何か耳打ちをしている様でした。其れから間も無くして捕まり、えらい早くに処刑になったじゃないですか」

「町の噂では 、代官所は犯人の詮議を、ろくすっぽうせんで、いきなり処刑するとはおかしいじゃないかと、代官を疑がっていたんですよ。其れに其処まで、罰する程の罪じゃないでしょう」

 店主は堰きを切ったようにベラベラと 喋り出した。余程、偽侍の 店を続けさせてやるとの言葉が嬉しかったのであろう。

「店主よ、色々、えゝ情報を提供してくれたな、ほんま感謝しとるよ。何とか亡くなったお二人が浮かばれる様にしてあげんとな。絶対に性悪な野郎を厳罰にする為にもな。其れと何も悪い事をしとらん浅田屋の主人を、いの一番に助けてやらん事にはな。此れも悪代官に早々にも殺されかねん。其れと一番肝心なお前の事じゃが、兎にも角にも早急にケリを付けちゃるから安心せい。グルになっとる三次代官と深澤屋をのさばらせる事は絶対にさせん」

「店主よ、此れは少ないがワシの気持ちじゃ、取っとってくれるか」

「とんでも御座いません。要りません。こちらが感謝一杯ですから」

「えゝから、えゝから 店を遅らせたからな」

「ほんまに宜しいんでしょうか。其れでは有り難く頂戴致します」

 と両手で丁寧に受け取りながら深々と一礼をした。

「長い間手間を取らせたな」

「処でお侍様、腹はすきませんか 。宜しかったら蕎麦を食べて行きませんか 、お代は無論頂きませんから」

「有難う、有難う。じゃがまだ約束しとる処があってな、今度、ご馳走になるよ」

「其れともう一つだけえゝか。吉三は、何処へ住んどるんじゃ」

「あゝ、奴はこの近くですよ、すぐ分かります。其れとですね 、吉三は大の犬嫌いでね、お侍様の大きな犬を見たら、腰を抜かしてションベンをちびりますよ」

「ハハハ、そりゃ面白い」

 偽侍はやがて席を立って帰ろうとすると

「お侍様たまにはうちに寄って下さいよ」

「あゝ、そうさせて貰うよ」

 と店先を離れてから与作は吹き出しそうになった。

「馬鹿こけ、ワシがほんまに寄れる訳きゃなかろうが」

 普段は浅田屋の丁稚奉公で、しょっちゅう顔を合わせているのだ。

「然し、全く、変装した偽侍がバレんとは上手く化けたもんよのう」

 と一人悦に入っていた。

 だが店を出ると与作は途端に不安に襲われた。

 他でもない、懐に有ったなけなしの有り金を、気前よく蕎麦屋にくれてしまったのだ。

「然し、ワシもおっちょこちょいよのう。まぁええか、節約すりゃなんとかなるさ。皆んな御免な、美味しい物を食わせてやれなくて」

 偽侍と一緒に並んで歩く姿は幸せそうで、全く気にする素振りも欠片も感じられなかった。

 そして与作は此れからどうしたもんかと思案しながら歩いていた。

「鉄ちゃん、玉ちゃんどうするかなあ」

 と話しかけている時にラー助が降りてきた。

「ワシワドウシタ」

 僕はまだ何もしていないよ、と云う顔をしているではないか。

「そうか、そうか、ラーちゃんもう一寸、仕事をするか。飯は其れからじゃ」

 皆んなと一緒に吉三の住まいに向かって歩き出した。が、さっきの話しで察するには毒殺された吉田屋さんと兼澤屋さんは昨夜、与作が玄関先に見送りに出ている。其処から蕎麦屋に行く迄の間に吉三が接触したものと思われる。多分 、相手は誰でもよかったのだ。他の人達は手代や丁稚が相手の店先に送っているからだ。二人が歩いている時に、小股の切れ上がった夜目には美人に見える吉三に声を掛けられて、蕎麦ぐらいならと付いて行ったのであろう。其処は手練手管の女形あがりだ。そして店に入る時に遅れて来たのは、暗闇の中で待っていた誰かに包みを手渡たされたのだろう。

 蕎麦屋から情報を仕入れた与作は、毒を飲ませた可能性の高い吉三の住まいに向かった。

「花街のはずれた処から、すぐ側に小さな小川があり三間程の橋を渡って二軒目が奴の住まいですよ」

 と店主に教わっていたのですぐに分かった。

 橋の上に来てから与作は予備に持ってきた付け髭と糊を取り出した。どうも乾燥してきた様でブラブラしだしたのだ。蕎麦を食べて下さいと言われたのだが、蕎麦汁で濡れてどうにも落ちそうだったので断わった。其れこそ浅田屋の丁稚とバレてしまうと元も子もない。

 水辺に顔を映して水に浸し再度付け直した。

「よし、出来た」

「あのな奴の家は其処じゃから、鉄ちゃん、ラーちゃん呼ぶ迄、此処で待っとれよ」

 と声を掛けると鉄がお座りすると玉もラー助も其れに従っている。

 与作は玄関先に佇みながら案じていた。今度も又、下手をすれば吉三も利用された後に消される運命ではないかと思ったのである。奴等は其れを簡単にやりかねないからだ。

 見ると大きくはないが小綺麗で一人住まいにしては贅沢な建物であった。 此れも多分、深澤屋が充てがったものであろう。

「オゥ、吉三はおるか」

 玄関戸をドンドン叩きながら呼んでみた。然し、返事が無い。間をおいて再度、叩いていると

「うるさいな、誰方ですか」

 と眠そうに目を擦りながら玄関口に出て来た。

「何じゃ、此奴が小股の切れ上がったえゝ女か、大髭ずらで、ずんぐりむっくりじゃないか」

 偽侍は一瞬、笑いを堪えていた。

「何がおかしいんですか。こっちは、おたくみたいな人には用がありませんよ。帰って下さい。まだ眠むたいんですから」

 然し、此の男が上方の役者あがりの女形とは、まるで三文役者じゃないか。もっとも千両役者と言われる程の人気があれば三次くんだりする程、落ちぶれていないか。与作は此れでは馬の足程度の役どころの男ではないかと変な納得をしていた。

「そりゃ、すまんな。手短かに言うから聞いてくれ」

 全く不機嫌で仏頂面のまま

「其れで」

「昨夜な、二人の商店主が毒殺されたのを知っとるか」

「私が知る訳ないじゃないですか」

「お前が一緒に居った蕎麦処の寿屋で、吉田屋と兼澤屋が帰る途中、家の前の玄関先で倒れて死んだんだよ」

「全然、何んの事か分かりません。私には何の関係も無いですよ、変な因縁を付けたら役人を呼びますよ」

「 ほう、其れなら其れでかえって手間が省けると言うもんじゃ。早ょうに呼んでくれるか」

 えらい自信である。三次代官と深澤屋がグルで何度も料亭の席に呼ばれており密談を聞いている。代官が強い味方ぐらいに思っている様だ。

「云うとくがな、お前のゆんべの動きの全てが見られておるのよ。蕎麦屋に連れて来る前に、お前が吉田屋と兼澤屋に声を掛けたろうが。そして一緒に本通りを右に曲がって花街の方へ行くのを見られておるのよ。浅田屋で頼母子講が終わってから、夫々の商店主を手代、丁稚が送っていたから其の中の一人が証言してくれたわ。其れから蕎麦屋に入る前に、お前は暗闇の中で何処かの男から何やら受け取り店の中に入った。

「オイ、此処迄云うて違ごうた事があるか」

「違うも何も私は全く知りません」

「そうかまだ、白を切るかつもりか。其れなら此れから云おう思うとった事を、今から代官所へ出頭してから代官に申し伝えるつもりじゃ」

「他に何を知っていると言うんですか」

「そんな事はお前にはもう関係ないよ」

「只な、一つだけ云うとっちゃるとな 、お前が衝立の裏側で丼の中に何か白い粉を入れているの見られている事よ」

「まあ、ワシから代官所にタレ込みをしてみい、何もかも知られとると思い、奴等は内情を世間にバラされるのを恐れて、先にお前をこっそりと証拠隠滅のため始末するぞ。代官と深澤屋との黒い繋がりを知り過ぎとるからな。今のうちに此処で白状しとく方が、命は確実に助かると思うがなぁ」

「半年前の浅田屋の娘の誘拐監禁事件を知っとろうが。浪人者二人は大した罪でもないのに、全部責任を被せられてしもうて簡単に処刑されとるぞ、悪代官じゃからこそ出来る事じゃ」

「邪魔したな、お前も寿命が何時まで持つかな。達者で暮らせよ」

 偽侍はくるりと背を向け帰る振りをしながら 、見えない様にさっと犬笛を吹いた 、音は誰にも聞こえない。玄関戸に手をかけ開けた時はもう顔をのぞかせていた。

「鉄来たか、帰るぞ」

「アリャ、ラー助 も来たんか」

 両方とも玄関内に飛び込んで来た。

「ギャー」

 突然、吉三が叫んだ。

 其の声に驚いた鉄が牙を剥いて今にも飛び掛ろうとしている。其れにラー助 も 目を据えて攻撃姿勢をとっている。

「コラァ 、辞めい ! この人は悪人じゃないぞ」

 だが依然として鋭い眼つきで睨んでいる。

 振り返えって吉三を見ると、腰から落ちて小便をちびっている様ではないか 。蕎麦屋の言った通りだ。

「すまん 、すまん、この犬とカラスは悪い奴を見ると噛み付いたり、相手の目を突きに行くんじゃ」

 吉三を見ると腰を抜かして震えまくっている。

「おっ、お侍様、あ、あっちへやって下さいよ、お願いしますから ! 何もかも白状しますから!」

 全く話す言葉が、しどろもどろでほんまに気の毒なほどである。

「悪かったな、別にお前をたまがして、脅すつもりは何もありゃせんのに、すまんな」

「鉄、ラー助行け ! 」

 犬とカラスが外に出て行くと、シクシク泣きながら肩が震えている。一番嫌いな狼犬の鉄の所為だけでもなさそうなのだ。

 今迄、利用されるだけ利用され、あとはゴミ屑みたいに捨て去られる事に恐怖心を感じたのだ。

「お侍様、何もかも白状しますが、此の後、私はどうなるんでしょうか」

「其れはな、お前次第じゃ、其れによっては奴等に何もさせずに絶対に逃がしてやる」

「是非、宜しくお願いします。綺麗さっぱりお話ししますから、一寸、着替えさせて下さい」

「そりゃえゝで。ゆっくりしてくれ」

 と言いながらようやく立ち上がると奥に引っ込んだ。

 偽侍は外に出て待っている鉄 、玉、ラー助に声をかけた。

「此処が済んだら、河原で飯じゃ。もう一寸待っとれよ」

 飯と聞いた途端、ピョンピョン飛び跳ねながら大喜びをしている。

 暫くしてうちの中に入って行くと、きちんと着替えをして出て来た。

「お待たせしました。何から話しましょうか」

「其れじゃ先ず聞くがな、ゆんべ暗闇の中で深澤屋に逢うたんじゃな」

「はい、蕎麦屋に入る前に白い包みを手渡されました」

「其の時、此れは気つけ薬じゃ。二人の丼の中に入れてくれ、と言われ私は何も疑いもせずにしました。其れを店主に見られていたんですね」

「其れが、まさか毒だったとは・・・・」

「お二人はお亡くなりになったんですね」

「そうじゃ、つい先ほど店の前を通ったんじゃが三軒とも店が閉まっとる。まるで通りがお通夜状態よ。此れも皆んな代官と深澤屋が関わっとるんで」

「私はずっと寝ていて、お侍様より報告を受けて初めて知りました」

「本当に気の毒な事をしてしまいました」

「浅田屋をみてみいや、店主が何も悪い事はしとらんのにいきなり闕所だぞ。お前が毒を盛って死んだ二人の責任を即ぐに浅田屋に押し付けおったんじゃ」

「結果的には吉三、お前が2人を殺し三軒の店を潰してしもうた」

「お侍様、もう何もおっしゃらないで下さい、気が狂いそうです」

「分かった、分かった。もう追求せん。お前は何も知らずに騙されて利用されただけじゃからのう。やった事は何も咎めはせん。其れに、ワシにはそんな権限は何も無いからな」

「其れと、もう少しだけ協力してくれるか。其れからお前が代官所からの手配や、深澤屋から逃れる方法を教えてやるよ」

「其れでな、吉三は三年くらい前から三次へ来とる様じゃが、丁度、同じ時期に深澤屋も現在地に店を構えとるが何か繋がりが有るんか。其れと三次代官とはどうじゃ」

「深澤屋とは同郷で備後の尾道の出で御座います」

「丁度その頃、出雲方面へ進出の計画が有りました。足がかりとして、先ず、三次の浅田屋を攻略してからと弟の権三様が派遣されました。其の時、私は誘われて来たのです」

「初めのうちは、ごく真面目にコツコツとやっておられました。なにせ、全然知らない土地勘の所ですから。そんな折り、ひょんなことから三次代官と知己を得られた様です。 何がきっかけかは私には分かりません。だが 、強請り、たかりをされる弱みを、深澤屋さんは握られたんではないでしょうか」

「其れからは毎夜の如く座敷に呼び出されては、全て費用は深澤屋さん負担でした」

「何か有ったら何時でも言え、ワシが面倒を見ちゃる。と恩着せがましく言われていました。要するにたちの悪いたかりですわ。其れからは商売の拡張どころでは有りません」

「代官は私利私欲の塊の様な男で、徹底的な大酒飲みで、のべつくまなく呼び出されておられました。其の度に私も座敷に出て協力させられました。とに角、ほとほと手を焼いておられました」

「最初の美和さん誘拐の事を持ち掛けて来たのは代官でした。其れが失敗すると暫くおとなしくしていましたが、強欲な虫が騒いだのでしょう。

 遂には浅田屋さんの闕所の件を持ち出し筋書きまで全部、代官が書いて来たのです。其れがうまくいけば浅田屋の店はお前の物よ。その代わり儲けの上がりの半分よこせと強要していました。此れが代官所のする事ですか」

「私はこの相談事を聞いていて震えが止まりませんでした。何れは、何もかも知っている私も消されると思ったんです」

「代官所じゃないよ、みんな此れは悪徳代官一人がしたことよ、絶対に許さん。厳罰にしてやる。其れとな、本来なら深澤屋も断罪を 逃れられん処じゃが、代官に脅されてやった事じゃし、お前に免じて三次からの所払いで話しを付けてやる気持ちじゃ」

「私はどうなるんでしょうか」

「お前の事は一切、問わんよ」

「すきにしてええ、じゃが其れだけでは不安じゃろう」

「はい 、全く心配で御座います」

「其れならこうしょう」

「どうすれば宜しいんでしょうか」

「今すぐにも此処を出て行く事じゃな。深澤屋とは袂を分かち合う事になるがな」

「今日は無理で御座います。今晩の座敷に呼ばれて居ります」

「そうか駄目か。ウ~ン」

「じゃが待てよ、 考え様によっては其れが、かえってえゝかも知れんぞ」

「どう云う事でしょか」

「是非共そうせい 、奴等を油断させるには一番えゝ手じゃ。宴会の席では絶対に毒を盛られる事は無いからな」

「但し、其れが済んだら絶対に家に帰るな 、夜討ちを掛けられるかも知れんぞ」

「お前 、今のうちに持って逃げられる物を用意しとけ。現金以外の物は余り持つな、家財道具は一切置いとけよ。家宅捜査に入った時に、物が置いてあればまさか逃げたとは思わんからな。其れだけ遠くに逃げるのには日数を稼せげるからな」

「代官は必ず明日にも、毒を盛ったお前に全ての責任を被せて追っ手を掛けるからな」

「其れからもう一つ言うとくとな、逃げる時から女形を辞めい。髷を結い直し完全な男になって逃げたら絶対捕まらん。お前も元役者だったら其れくらいの変身はお手の物じゃろうが」

「第一、代官自体が悪い事をやっとるんじゃ。逃げたお前を遠くまで手配し追いかけるのは全く無理な話しよ」

「有り難う御座います。其れにしてもお侍様は一体何者で御座いますか」

「ハハハ、ワシか、差し詰め比熊山の物の怪かのう。冗談 、冗談」

「いいえ、いいえ、あなた様は生きた心優しき物の怪で御座います。私は本当に改心致しました。此れから亡くなられた、お二人の為に一生ご供養をして参ります。そしてご遺族の方々に、少しでも陰ながら援助をして上げたいと思います」

「えゝ心懸けじゃのう。お前の目を見れば分かるよ、達者で暮らせよ」

 その後、三次の地を離れた吉三の行方を誰一人として知る者はいなかった。


 浅田屋の牢抜け


「よっしゃ、皆んな帰るぞ。今日は別な道を行くよ」

 一仕事を終えて鉄、玉、ラー助とも満足感一杯の表情であった。可愛川を上流に遡り、なだらかな道をのんびり歩いている。

「鉄ちゃん、ラーちゃん、お前達はほんま役者じゃのう。女形の吉三よりよっぽど脅しの演技が上手かったよ」

「エッヘン」

「何んと、ラーちゃん分かっとるんか」

 鉄は知らんぷりで玉を背中に乗せて嬉しそうに歩いている。やがて前方に砂の河原が見えてきた。

「えゝ処があるぞ、あそこで昼飯じゃ」

 飯と聞いてもう嬉しくて堪らない。

 でも与作は嬉しがる鉄、玉、ラー助を見つめながら「ごめんな、もう少しええ物を食べさせてやれたらなぁ」と心から思っていた。然し、此の時代として止む終えない事であり、ましてや薬屋の丁稚奉公の身分なのだから。

 やがて昼飯を済ませると小屋を目指して早駆けしだした。街道筋から左に曲がり青河神社の前を通り、いつもの間道に合流した。

「おい、もう近いぞ、競争しょうか」

 途端に鉄の背中から飛び降りて玉が走り出した。

 与作が最後に小屋に到着すると、鉄が荷物を咥えている。

「お前達、速いなワシがどんべじゃ」

「そりゃえゝが、鉄ちゃんそりゃ何なら。あれ、こりゃ、もしかして師匠さんが来たんか」

 見ると何時ものお土産と書き付けが挟んである。其れに前の墓には線香と花が供えてあった。

「おい、師匠さんには悪かったな、誰もおらんかったで」

「ラーちゃん、今から一筆書くけ届けてくれるか」

「アイヨ」

 お師匠様へ

 この度は私達 、誰もいない時にお越しになられましたね。本当にすみませんでした。其れとお土産を頂き誠に有り難う御座いました。鉄、玉 、ラー助達も大喜びしております。

 話し変わりますが、実は大変な事が発生して小屋を空けてしまい申し訳け御座いません。一昨日、私が奉公している浅田屋が闕所になり店を閉められてしまい、全員が首になってしまいました。

 二十日の夜、浅田屋で開かれた頼母子講を兼ねた宴会が有りました。その時に出された、仕出し料理に当たって二人の町内会の商店主が亡くなりました。その為、早朝に役人がいきなり踏み込んで来て主人を連れ去ってしまいました。何の詮議も一切有りません。そして

「今日から店は一切、開けてはならぬ闕所じゃ」

 と言われました。あまりにも急な事で、正月を前に奉公人一同が路頭に迷う有様となりました。こんな馬鹿な事があっていいものでしょうか。役人が言うには、早朝、医者の診立てによると、食中毒じゃと言いました。然し、亡くなった二軒のお店には医者が立ち合った節がありません。ましてや代官所の役人までも絶対に顔を覗かせてもおりません。仮にどちらかが被害者宅に来ていればすぐに分かります。なにせ三軒隣りですから。半年前の浅田屋の一人娘の誘拐監禁事件に関わ り未遂に終わった三次代官と深澤屋は再度仕掛けて来たのでしょう。

 私は今回の食中毒による死亡事故に関して即座に探索する為に鉄、玉、ラー助を呼び寄せました。亡くなった二軒の玄関先で吐いた処で、私もその場で鼻をくっ付け嗅いでみると、微かにトリカブトの毒性を感じました。其れから鉄と玉に臭いを嗅がせ追跡すると、一本裏通りのすぐ近くの蕎麦の壽屋に辿り着きました。

 厳しく追及すると、上方の役者上がりで女形の吉三と云う芸者が浅田屋を出た後、吉田屋さんと兼澤屋さんを掴まえて蕎麦を食べに連れて来ました。その時、吉三がこっそりと衝立の陰で懐から白い紙袋を取り出し其れを広げて丼の中に入れたのを店主が見ていたのです。その中身がトリカブトの毒でした。だが店主は其れが自分に累が及ぶのを恐れて固く口をつぐんでいました。

 そして吉三の住まいへ直行し問い質しました。その時は鉄とラー助が活躍してくれました。中身は内緒。

 初めは知らぬ存ぜぬと返答を拒んでいましたが、悪どい代官の手口を知ると、とうとう白状し出しました。今迄は他人の不幸が人ごとの様でしたが、いざ自分に及ぶとなると恐ろしくなったのでしょう。堰を切った様に話しをしだしました。

 其れによると前の美和様誘拐事件と今回の浅田屋乗っ取りの筋書きを書いたの代官だそうです。浅田屋を闕所にして潰した後は深澤屋に店をやる。その代わり儲けの半分はワシに寄こせと、提案ではなく命令されたそうです。最近では代官の意のままにされ、座敷遊び好きの大酒飲みで毎晩の様に呼び出され、費用は全部、深澤屋持ちだそうです。恐ろしくなって三次から撤退しようとしましたが、お前が一番の悪じゃからのう、ワシに歯向かうたらどうなるか分かっとろうのう。何時も座敷の宴会の席で代官と深澤屋の話を聞かされている吉三は恐ろしくなって、何時、逃げ出そうかと思っていたのですが、追手がかかるのを恐れて躊躇していました。

 まだ他にも、代官のあるまじき行いが色々ありますが詳細は 別紙に箇条書きに記しておきます。

 以上、長々と書きましたが私は 此処までしか出来ません。どう にも代官や三次代官所に喧嘩を売るわけにはいきません。

 お師匠様、どうか、何の罪も無い浅田屋の主人が消されない様お助け下さい。今日か明日中にも、牢屋の中で毒を盛られ始末されるやも知れません。宜しくお願い申し上げます。

 ー与作よりー


「よし、出来た。ラーちゃん持っててくれるか」

 与作は書簡を丸めて括りラーちゃんに咥えさせた。

「頼むよ」

「アイヨ」

 何時もの様に軽い返事だ。ラー助は八幡山城目指して一気に飛んだ。

 其れを、皆んなで外に出て見ていたが

「速いなあ ! あっと云うまに着いてしもうたで」

 此処から見て一里くらい距離があり、与作の目には、豆粒ほどにしか見えないが、ラーちゃんには城の窓からお師匠さんが手招きしているのが見えるのだ。

 鉄の嗅覚と云いラー助の視力と云い、人間では到底考えられない能力なのである。

「オシショサン、ガミ。オショウサンテガミ」

 へんてこりんな声で窓から覗いている。

 すると階下から駆け上がる音がした。

「おー、ラーちゃん来てくれたか。今日は誰もおらんかったな」

「今日は何かのう」

 と言いながらラーちゃんの持って来た書簡を広げて見た。

 其れを読んでいたが

「こりゃ大変な事じゃ、返事を書いちゃらないけんわい」

 と言い

「ラーちゃん、一寸、待っとってくれるか」

 と階段を下りて行った。そして

「此れを食って待っとってくれるか」

 暫く思案しながら返答を書いている。

 ラー助はご機嫌でお師匠さんを見つめクェクェ鳴きながら肉をほうばっている。

「よし、出来た。ラーちゃん頼むよ」

「アイヨ」

 ラーちゃんが帰るのを皆んなが陽射しのいい外でのんびり待っていた。

「ラーちゃんはな、今頃美味しい物を貰っているよ。今に口の周りを舐めながら帰って来るぞ」

 すると鉄ちゃんが先ず吠えた。次に玉が、与作に帰って来るのが見えたのは直ぐ近くだ。

「こりゃまた、凄いなお前さん達には勝てんよ」

 帰って来たラーちゃんを見ると口の周りを汚して舐めている。ご馳走を貰ったのだ。

 与作はラーちゃんが掴んで持ち帰った書簡を広げて読んだ。

 与作殿へ

 よう分かった、此処から先はワシに任せとけ。

 只な、ワシは今回長居が出来んのじゃ。其れで明日の昼過ぎに此処へ来れんか。そして三次の城に行かにゃならん。馬を用意するが乗れるかのう。ハハハハ聞くだけ野暮じゃった。道中で話しながら行くとするか。ワシは城主に会うから大将も一緒に連れて行く、鉄も玉もラー助も皆んなじゃ。其れともう一つ大事な事じゃ、三次代官の手口から見て、お構い無しで浅田屋の主人の命を狙うかもしれん。牢屋の中でやられると誰にも分からんからな。

 今夜からでも鉄か玉に見張りをさせといてくれんか。浅田屋殿は命の恩人じゃからのう、死なす訳にはいかんわい。多分、朝飯の時がヤバイぞ。

 お師匠さんからの返書を読んだ与作は

「よしゃ、此れでえゝぞ。又、一休みしてから三次代官所の牢屋へ行くぞ」

 この与作の声に皆んな嬉しくて堪らない。走り回わったり飛び回っている。

 与作は、今日明日の飯が要ると思い多めに弁当を作る事にした。皆んなのおやつはお師匠さんから貰っていたので、其れを持って行けば大助かりなのだ。

 こまめな与作は独身だ。だが可愛いい動物の為には愛情を持って何時も一生懸命なのだ。

「よしゃ、出来た。此れから別荘に直行だぁ」

「エイエイオー」

「ラーちゃん、何処で覚えて来るんじゃ」さ

 忍者一家は、陽が暮れ出した間道を登り降りしながらゆっくりと歩いていた。

 別荘に着くと軽くおやつを食べさせて、皆んな一列に並んで横になって寝ていた。

 与作を挟んで鉄ちゃん、反対側に玉ちゃんが寝てラーちゃんがピタっとくっ付いている、母さんがわりで甘えているのだ。

 やがて、一寝入りを終えると、一番肝心の主人の救出に向かわなければならない。

「おい、皆んな今から代官所の牢屋へ行ってワシのご主人さんを連れ出すからな、言う通りに宜しく頼むよ」

 分かったのか、分からないのか、でもコックリ頷いている。

「ラーちゃん、真っ暗じゃが前は見えるんか」

「ダイジョビダヨ」

「ほんまかいな」

 と言いながら与作は鉄ちゃんの背中に乗せたのである。

 鳥類は、大体、鳥目で暗くなると見えないと云われるがラーちゃんに関しては如何なのであろうか。毎度の事ながら与作にもよく分からなかった。

 暫く歩くと浅田屋の店の前に来た。其の先を左に曲がれば代官所だ。正面辺りの塀は高くて頑丈だが、牢屋のある裏手に回ると平屋の棟続きのお粗末な建物であった。炭俵や松明、焚き木が置いてある木小屋で其の横が牢屋であった。外から丸見えの吹き晒し状態である。一室だけの小さなぼろ小屋だ。

 夜になると門番と牢番を兼ねている様で離れた所に詰めていた。

「よしゃ、皆んな、この小屋で夜が明ける迄、隠れて休ませて貰うぞ」

 幸いな事に身を隠すのには十分な程、空間があり暖をとる為に、むしろも有り身体を寄せ合うと寒くない。

 やがて空が白み始める頃、遠くの方から鶏の鳴く声が聞こえた。

「コケコッコウー」

 与作は此れに目覚めた。

「鉄ちゃん、玉ちゃん今から始めるぞ」

 鉄も玉もラー助も大分前から起きていて、与作が起きるのを顔のすぐ近くでジッと見つめていたのだ。

 さあ、何をするのと身構えている。

「鉄ちゃん、牢屋の中の主人にこの紙を持って行って落として来てくれるか」

 鉄は与作が言った事がすぐに理解出来る。木小屋から歩いてすぐ隣が牢だ。

 隙間の下から入り込み囲いの外から顔を入れ、口に咥えていた書き物を中に落とした。

 浅田屋は、何時もの習慣でこの時間には目覚めており、狭い牢内で屈伸運動をしていた。

「ありゃ、どしたんじゃ。こんな所へ大きな犬が来たで」

 其れを見ていた主人は近寄り拾い上げ、広げて読んだ。其の中には

「浅田屋殿へ、此処から出して命をお助けするので暫く辛抱していて下さい」

 と有り月下美人の絵が添えてあった。其れも達筆で見事な静物画だ。

「うぅん、こりゃあ美和が言うとったんと一緒じゃないか」

 一方、玉ちゃんには朝飯の見張りを頼んだのだ。

 木小屋の天井は人間が通るには無理であったが、木組みの柱だけで棟続きの牢屋のすぐ上に玉には簡単に伝わって行けた。

 案の定、奴等の企みは早まる事となった。牢にぶち込まれて三日目の朝の事。

 朝飯の差し入れが、何時もの牢番ではなく代官自らが運んで来た。

 ニコニコ笑いながら

「浅田屋、喜べ。お前の嫌疑が晴れて此処から出られるぞ」

 と言う、だが主人も一瞬この一声に疑念を持った。何で一度もお白洲で詮議もせんのに疑いが晴れるんじゃ。

 俄かには信じ難かったが、何はともあれ此処から出られると思い

「有り難う御座います。代官様にはお手間を取らせました」

「ほうか、ほうか。良かったのう、今朝は祝いで温かい飯じゃ」

 代官が立ち去ると、湯気の立つ朝飯を見ながら感慨に浸っていた。

「ワシは何も悪い事はしとらんけえ、解き放しは当然じゃが、暫く店の様子を見とらんが番頭等や皆んなは、上手いこと切り盛りしてくれとるかのう。母さんも美和も無事でやっとりゃあええが」

「其れにつけ、何ならさっきの訳の分からん手紙は。ワシは今日にも出られると云うのに、いらん事をしゃあがって」

 実際には主人が捕まったその日に浅田屋は闕所になって、店を閉じられている事など一切、知らされていなかったのだ。

 代官と浅田屋とのやり取りを、早朝から天井裏に潜んで隙間からずっと見張っていた玉は、温かい汁から上がってくる湯気に、並の人間では到底考えられない強烈な嗅覚でトリカブトの毒性を嗅ぎ取っていた。吉田屋の店先で店主が吐いた時の臭いを覚えていたのだ。

「有り難い、此れで牢の中での最後の飯じゃ、愈々、シャバの空気が吸えるのう」

「頂きます」

 と手を合わせながら箸を持って、すまし汁を口に入れようとした瞬間だ。

「バシャ!」

 茶碗めがけて天井から玉が飛び降り叩き落とした。

 この時、初めて美和が救出された時に言っていた言葉が頭の中をよぎった。

「もしや、代官の野郎、毒を盛りゃがったな」

「どうも簡単に牢から出られると言いやがって、おかしいと思ったがやっぱりな、こう云う事か!」

 そこは薬屋の主人だ。床にこぼれた汁を人差し指に付けて舐めてみた。

「うん、痺れるわ。間違いなくトリカブトじゃ」

「ワシゃ、どうすりゃええんじゃ」

「このまま生きとるんが分かってみいや、奴は次に何を仕掛けてくるか分からんぞ」

 浅田屋は急に寒けがして震えが止まらなくなりだした。

「母さん、美和、ワシは此れでもう駄目じゃ」

「何時、何刻、牢内で殺されるかもしれん。ようこんなにつまらん人間と長い事付きおうてくれたな、母さん有難うよ。美和よ、お前の此れから先の長い人生を無茶苦茶にしてしもうてほんまにすまん」

 浅田屋は牢内で遺言めいた言葉を口走りながら静かに瞑想をしていた。然し、凡人だ。どうにもこの世に未練が残った。

 そうした時に、目の前に優しい目をした猫が、こちらをジィーと見つめているではないか。

 主人は、はたと気付いた。首に小さな小袋をぶら下げている。

「此れが助けてくれると云う意味なのか」

 すぐに袋を手に取り中の物を取り出した。

「一服飲んで暫く寝ていて下さい、此処からすぐに出して上げますから」

 と書いてある。

「此奴は相当に薬に精通しているに違いない」

 浅田屋は、小さな包みを広げて舐めてみるとすぐに分かった。

「然し、何と云う事じゃ。こうなりゃ奴の策に乗ってみるか、どうせ牢内で殺されるのを待つよりええわ。一か八か、賭けてみるか」

 此の当時は、まだまだ麻沸薬の調合方法が確立されておらず、試し飲みするのには其れこそ生きるか死ぬかの賭けであった。

 四半刻経った頃牢番が箱膳を下げに来た。

「おい、飯を食うたか。膳を下げるぞ」

 と聞いたが返事が無い。然も浅田屋は身動き一つしない。

「おい、具合でも悪いんか」

 やはり何の反応も無い。

 慌てた牢番は 鍵を開けて中に入って来た。そして横向きに寝ていた身体を揺すると仰向けにゴロッと転がったではないか。そして大声で

「大変だあ、浅田屋が死んどるぞ!」

 するとすぐに代官が駆け付けた。

「馬鹿野郎、大きな声をすな。こう云うこたぁ静かに処置せえやぁ」

「すぐに浅田屋の店へ棺桶に入れて送り返せ。家族を呼びに行って来い」

「分かりました」

 と牢番は言いながら、押入れからむしろを取り出し浅田屋の顔から全身に被せた。

「今すぐに引き取りに来させますから」

 と牢番が駆け出して行った。其の場に誰もいなくなると代官は

「浅田屋め、手間を取らせやがって、ようよう逝ったか。然し、よう効くのう」

 と独り言を呟いた。

「娘の監禁の時は失敗したが、今度は完璧じゃのう。此れでワシも甘い汁が吸えるわい、ヒヒヒ」

 その間に牢番は代官所からすぐの処にある浅田屋の店先に到着した。

 店は闕所になっており、奉公人は誰もおらず家族は中に居るのかひっそりとしていた。

 そうした時に雨戸の隙間から覗いて待っていた与作は、箒を片手に持ちながら飛び出した。

「おい、お前は浅田屋の丁稚か」

「はい、そうです」

「主人が牢内で死んだから、すぐに棺桶を引き取りに代官所の裏口に来いや」

「分かりました。大八車を用意してすぐに参ります」

 与作は店の中に入り、廊下から奥の部屋に声を掛けた。

「奥様、ご主人が今朝方、牢内で亡くなったそうです。今、役人が知らせに来ました。亡き骸を引き取りに来いと云う事です」

 途端に、奥様と美和の大声で泣き叫ぶ声が聞こえてきた。

「お父さん!お父さん!何でぇ〜」

「お父さん!!」

「これから、うちらはどうすりゃええのよ」

 暫く、泣き続けていた。たが廊下に立っている与作の存在に気付くと、気丈な奥様は座敷から出て来て、涙目ながら

「私は、よう行きません。与作、すみませんが宜しくお願いします」

 そう言われた与作は落ち着き払って

「大丈夫ですよ、奥様、何も心配する事は有りませんよ。取り敢えずご主人は引き取って来ますから。其れと今すぐに布団を敷いといて下さいよ、其れと気付け薬を用意しといて下さい。此れが一番大事な事ですからね。奥様、何処に保管して有るか知っていますよね」

「はい、分かります」

「よし、此れでいいか。すぐに主人を連れて帰りますからね」

 と言い残して与作は急いて店を出て行った。

 だが、「死んだ」と言われた言葉を聞いて奥様は気が動転しており。与作が言っている事が全く理解できなかった。死んだ者に気付け薬など、それすら及びもつかなかった。

 だが 奥様は此の命令には素直に従い、調剤室に駆け込むと其処に有った処方箋を真剣に読み通していた。

 美和も大泣きしながら布団を敷いている。

 与作は大八車に菰を乗せると、ガラガラ音を立てながら全速力で駆け出した。そんなに遠くない代官所の裏手に到着すると、裏口で待っていた牢番と二人で主人の頭と足を抱えて棺桶の中に入れた。

 むしろを被せてあったので、代官や牢番に顔色を伺う事が出来ないのが幸いであった。

 幾ら仮死状態といえども生温かく完全に死んだ様ではなく、与作はとに角、其の場を一刻も早く立ち去りたかった。

「面倒をお掛けしました」

 と挨拶もそこそこに駆け出した。他の荷物に見せかける為に棺桶に大きな菰を被せていた。

 帰った時にも、やはり店の事を心配して、顔を覗かせている奉公人は一人もいなくて、与作が玄関戸を開け大八車ごと中庭に引っ張り込み急いで戸を閉めた。

 外を歩く通行人に、大八車に棺桶を積んでいる事を気付かれる事はなかった。

 奥の座敷から、奥様と美和が鳴きじゃくりながら飛び出して来た。

 与作は其れに構わず、縄を解いて遺体を下ろそうとしていたが、其れに取りすがって更に泣くもので与作に一喝されてしまった。

「えゝ加減泣くのはやめろ!其れよりも早く言った通りにして有るか」

 どちらが主人か分からない様な命令口調に一瞬、親娘はたじろいたが素直に

「はい、準備しています」

 与作は遺体を抱き上げて奥の部屋に移動し布団の上に寝かせた。

「奥様、気付け薬の調合が分かりますね。ワシはそこまでハッキリ知りませんから」

「大分前に主人から教わった事が有りますが」

「旦那さんの命は奥様の匙加減一つですよ」

 そう言われた奥様は、今迄、泣いていた顔がいっぺんに職業意識に目覚め、真顔に豹変したのである。

「与作さん、此れでいいですよ」

「よし、美和様、水 ! 」

 与作は硬く閉じられた口をこじ開けて気付け薬と水を混ぜて流し込んだ。

「フゥ〜、一段落済んだか」

 と与作はほっとしながら独り言を呟いた。

 其れから三人は固唾を呑んで主人をジッと見つめていた。時間が経つのも分からない程、重苦しい空気が漂っていた。

 突然、奥様が気が狂った様に大声で叫び出した。

「与作さん!こんな子供じみた馬鹿らしい事をやって、死んだお父さんが生き返る訳がないじゃないですか。私や美和を騙すつもりですか」

「そうよ、お父さんは・・・」

 親娘で大泣きしだした。

 此れにはさすがの与作も弱り果てた。然し、此処で挫けては男がすたる。逆の言葉が飛び出したのだ。

「うるさい ! 黙って様子を見とれ!」

 凄い与作の剣幕にいっぺんに泣くのをやめてシュンとなり沈黙を保っていた。

 其れからの与作は、正座をし主人の傍に座った。

 カッと両目を見開き両手を合わせ、何やら念仏らしきものを唱えている。

 これを直ぐ横で見ていた奥様は、此れが到底、丁稚の与作とは想像すらつかなかった。背筋をピンと伸ばし祈る姿が威厳すら有り寧ろ神々しさを感じていた。

 それもそのはずだ。与作が専正寺を辞める時には、ご院家さんの伴僧を勤めていたほどであったのだから。

 親娘は其れに引き込まれる様に互いに両手を合わせていた。

 念力を与えている間中、二人は静かに主人の顔をじっと凝視していた。

 ほんの少しの時間も長く感じられていた、

 其の時だ!

 主人の唇が微かに動いたのである。

「奥様!今、確かに動きましたよ」

「えゝ、私も見ましたよ。美和ちゃんも見たでしょう」

「うん、見た!見た!」

 すると、どうだ、掛布団の下の足先が震え出したではないか。

「ウ〜ン」

「あれぇ〜、お父さんが生き返えったぁ!」

「お父さん! お父さん!」

 美和が大声で主人の身体を揺すって叫んでいる。

 暫くすると今度は目をパチパチしだした。そして喉から、かすれ声が出だした。

「お、お、おい此処は何処なら」

「ワ、ワシャ今、三途の川を流されとったが、誰か知らんが手を差し伸べて引き上げてくれたで」

「あれぇ、母さんどうして此処へおるんなら、お前も道連れで牢内に入れられたんか」

「一寸、起こしてくれんか。ありゃ美和も来とるんか」

「お父さん!お父さん!此処はうちですよ」

「牢屋ではありませんよ」

 と美和が呼び掛けると、ようよう我に返った様に親娘を見つめている。

「どうりで温い布団じゃ思うたよ」

「すまんが、水をくれんか」

 美和は嬉しそうに台所に立ち水を汲んで来た。

「いやあ、美味いのう。此の水は格別じゃ、処でワシャ何で此処へおるんかいのう」

「お父さん、まだ意識がハッキリせんのですか」

「じゃが、今な、天井を見よって自分の家と気が付いたわ」

「此処は今のところ、我が家ですよ」.

「そりゃ、どう言う意味なら。此の家はワシのもんじゃろうが」

「知らないんですか。お父さんが捕まってから直ぐに闕所になったんですよ。私らは多分、すぐにでも此の家を出にゃいけんのですよ。浅田屋は一難去って又一難なんです」

「だから今は、お店を閉めており奉公人は誰もいません。唯一、与作さんが此処に居てくれます」

「何ぃ、うちは潰れとるんか!」

「う〜ん、知らなんだわい。代官の奴め、ワシに一切何も言いやがらんかったな」

「そうじゃ、大分、記憶が蘇って来たぞ、あのクソ代官野郎め!深澤屋の権三と組んでワシんとこを乗っ取るつもりじゃ」

「じゃがのう、ワシは所詮半端な町人じゃからな、此れからどうなるかのう」

 大分、頭の回転が良くなり出したら要らぬ心配までし始めた。辺りをグルグル見渡し出すとそこに与作が居るではないか。

「アリャ、与作、ワリャ何で此処へおるんなら、お前は此処へ一番おって欲しゅうない人間じゃ、出て行け !」

「お父さん!何を言っているんですか。与作さんはね、お父さんを代官所から棺桶に入れたまま連れて帰り、息まで吹き返えらせてくれたんですよ。そんな口を訊くと罰が当たりますよ!」

「そうですよ、お父さん!」

 親娘の声に、何で生き返えり此処に居るのか主人にはまだ理解出来なかった。

「ワシャ、誰が何と言おうが此処から出んぞ。柱へでも括り付けといてくれ」

 どうにもまだ完全には意識が回復せず朦朧としている様だ。

 与作は部屋を出てから奥様を手招きをし此れからの事を指図した。

「奥様、まだ、ご主人は完全に意識が回復しておりませんから、暫く寝かせといてあげて下さい。それと多分お腹が空いているでしょうから、お粥を食べさせてあげるんですが、それに気付薬を少なめに混ぜて下さい。体力も十分有りますから絶対に良くなります」

「それとね、ご主人は牢内で死んだ事になっておりますから、今日一日は誰にも合わない様に部屋の外には出さないで下さい」

「分かりました。言われた通りにします。でも与作さんは此れからどうするんですか。まだ親子で心配で心配で心細いんです」

「私は、此れからやらなければならない大事な事が有ります」

「ですから出掛けますが、奥様、心配要りません。絶対に大丈夫ですから、明日まで此処を守っていて下さい」

「明日になれば何もかも解決しますよ。又、今まで通りに商いが出来ます。此れ迄にずっと真面目にやって来られたんですから。きっと三吉の殿様もご存知ですから」

 と言い残すと与作は急いで駆け出して行った。

 主人を無事牢屋から救出してきた与作は、大事な次の一手を打つ為に浅田屋を駆け出した。

 すぐに鉄、玉とラー助が付いて来ている。

「今日は間道を走ると馬が可哀想じゃから街道筋を通るぞ」

「ラーちゃん、一寸、下りて来てくれるか」

「すまんが、此れをお師匠さんに届けてくれるか」

 と其の場で今からすぐ帰りますからと一筆認めた。

「ラーちゃん頼むよ」

「マカセトケ」

 相変わらず何時もの様に返事がいい。それを足に括り付けるとアッと云う間に飛び立った。

「今から駆け出すと青河の垰の辺りで会えるぞ。それ行け」

 どうにも、玉ちゃんの足では無理だ。何時もの様に鉄ちゃんの背中にしがみついている。玉の目方など軽いものだよと云う顔をし又、与作を気遣いながら前を走って行く。とに角、嬉しくて堪らないのだ。青河村に入って来ると真っ直ぐ前方に垰のてっぺんが見えだした。

「お〜い、お師匠さんは見えるか」

 だが鉄も玉も無反応だ。まだ垰を登っているのであろうか。

 するとすぐに「ワン、ワン、ニャン、ニャン」と鳴きだした。

 上空をラーちゃんが飛んで来たのだ。与作には相変わらず見えない。

 峠のてっぺんより遥か高い処を飛んでいるのでこちらが丸見えなのだ。やがて馬二頭が見えだした。ラーちゃんは折り返してお師匠さんの方に向かっている。

 警護しているつもりなのだ。そして肩に止まった。

「キタ、キタ」

「オォ、皆んな来たか。然しラーちゃんがおるとほんま心強いな、だんだん」

「タンタン」

 両方から坂を登って来て、てっぺんで合流したのだ。

 鉄と玉が駆け出した。お師匠さんに飛びついている。後は例によって大騒ぎしている。

 与作が遅れて到着すると一頭の馬にお師匠さんが乗りもう一頭には若い侍が乗っていたが、てっぺんですぐに下りて手綱を握って待っていた。

「お待たせしました」

「おうおう、皆んな来たか。それにしても早いのう」

 お師匠さんは、連れの侍に声を掛けた。

「ご苦労じゃったな。お前は此処でええから帰りは歩いて帰ってくれるか」

「其れは宜しゅう御座いますが此の馬は如何されますか」

「其れはやな、大将が乗って三次迄まで一緒に駆けて行くんじゃ」

 若侍は何の事か全く理解出来なかった。なにせ目の前に居るのは百姓風情の、うだつの上がらぬ小男が居るだけだ。

「その方は何処にいらっしゃいますか」

「ハハハ、目の前におるではないか」

 若侍は只々、呆気に取られるだけであった。

「・・・・」

「大殿様を宜しくお願い致します」

 と一礼してから下りの坂道を一気に駆け下りて行った。余程、照れくさかったのであろう。

「うざい奴が、おらん様になってしもうたで。話しゃ変わるが、其れにしてもラーちゃんは凄いのう。大将等が一里くらい向こうから、こっちへ来るのを見とって一々報告に下りて来るんじゃ。此れが戦場なら凄い事で」

 色々な話しをしながら峠で馬を休息させている間、道端の草を食んでいる。

「そりゃええが、今日の一番大事な事じゃが、浅田屋殿に関しての大将の報告じゃが真実と思うてええんか」

「嘘偽りのない全く本当の事で御座います」

「然し、よく此処まで短期間に調べあげたもんよのう。何も知らん三次の殿さんもたまげるで」

「よしゃ、馬も休んで落ち着いた様なから一気に行くか」

「分かりました。皆んな行くぞ」

 又々、お師匠さんと与作と一緒に行けるのが嬉しくて堪らないのだ。

 玉はちゃっかりお師匠さんの懐に入って顔だけ覗かせている。

 だが特に喜んでいるのが誰あろう師匠であった。

 町中に入る手前から与作は顔を隠す為に頰被りをした。こんな犬、猫連れの派手な道中をしていると必ず顔見知りの人に出会い身元がバレれてしまうからだ。


 初登城


 代官所の大きな建物を左手に見ながら目の前に馬洗川が見えてきた。そこを川沿いに東に上る。平地の町中に主な物は代官所を含め集中していた。だが比叡尾山城は街外れで此処から一里も先で更に高い山の頂上に有る。

「然し、あこまで行くのは一過あるのう。よう藩士は毎日毎日通うのう。ほんま今時流行らんで」

「まぁ馬を休ませゆっくりと上がるとするか」

「大将は此処を登った事が有るか」

「いえいえ、初めてです」

 いざ城中に入いるとなると緊張で表情が強張ってしまった。町人等らが入る事を絶対に許される処ではないからだ。

 其れを咄嗟に読み取ったお師匠さんは

「大将、気にすな、気にすな、ワシが付いとるから大丈夫じゃ。ええから堂々と胸を張って入れ」

「有り難う御座います」

 小走りに馬ニ頭と大きな狼犬が城の正面に到着、そしていきなり

「門を開けい!」

 中から門番二人が飛び出して来ると慌てて大きな木戸を押し開けた。

 此処から先は師匠ではなく、此の地を支配する尼子勢の殿様、尼子国久公である。

 さぞや、門番もびっくりしたであろう。大殿様の後から百姓風情の小男が馬に乗り城中に入って来た。武家社会の今の世の中、百姓、町人等が絶対に中に入れる訳がない。ましてや正門からである。おまけに大きな狼犬と大殿様の懐には猫がいる。この時には顔に巻いた頰被りは外していた。

 与作が乗った馬の前に門番が割って入り制止しょうとすると

「構うな!」

 と一喝、慌てて一礼して中に招き入れた。

 城中に入ると、与作と鉄と玉は大殿様に案内されて別室に控えていた。

「大殿、先程、上の方から見ておりましたが、町人風情の男が馬に乗って城内に正面玄関から入っておりましたが何故に」

「ハハハ、見ておったか」

「まさか」

「そう、そのまさかの男じゃよ」

「三吉氏も、薬問屋の浅田屋を知っとろうのう」

「知っているどころか叔父上の時代から三次藩は長い付き合いが御座います」

「奴はその浅田屋の丁稚奉公じゃ」

「何ですか、其れは!」

 三吉氏は、此の一言にシゲシゲと顔色を伺いながら只々、絶句してしまった。大殿様は涼しい顔をしながら

「まぁ、話しは終いまでよう聞けや」

「其の浅田屋の主人が今、大変な事になっとるんじゃ」

「と申しますと」

「三日前から代官所の牢の中にぶち込まれとるんじゃ。其れも明日をも知れん命じゃ」

「そんな馬鹿な!」

「何でそんな大事な事を三吉氏は知らんのじゃ」

「家老を始め、代官所からの報告が一切上がっておりませんものですから」

「第一、ワシがそんな指図をする訳が有りません。今すぐにも代官所に出向いて取り調べをさせましょうか」

「まぁ、待て待て、其れではやっぱり代官の独断じゃな。牢内で殺してから、あれこれ理由をつけて事後報告するつもりじゃな」

「代官を此処に呼びましょう!」

「まぁ慌てるな。此処はさっきの男に任せておけ、上手に解決するじゃろうよ」

「大殿、何を悠長な事を言うとられるんですか。今にも殺されると言われたじゃないですか。其れに、あの男は代官所とは全く関係のない部外者ですよ」

「ほうじゃった、ほうじゃった。ハハハ、まぁええ今日一日は黙って様子を見とれよ」

 三吉氏は此の話しにどうにも納得がいかず、大殿が言っている事がさっぱり分からない。

 すると急に立ち上がり、戸棚の引き出しを開けて一枚の書類を取り出してきた。そして

「大殿、此れが奴の苗字帯刀の許可状で御座います。此れには名前が与作と有ります。与作と云うんですか」

「そうじゃ」

「職業欄には何も書いて有りませんが、まさか丁稚奉公とは・・・・」

 と言い三吉氏は後は絶句してしまった。だか国久公は毅然とした態度で

「侍、町人、百姓と職業に貴賎はありゃせんよ」

 だが、はたと気づいた。

「もしや!」

「そう、其のもしやじゃよ」

「大殿が山中の間道でマムシに噛まれ、死の淵を彷徨っている時に助けてくれたと云うのは此の男ですか」

「そう云う事よ。与作殿は寒い山道を下着一枚で走り回り、解毒薬を調達する為に浅田屋を叩き起こして薬を作ってくれたのよ。其れに栄養のある食べ物を持たせてくれた。誰とも分からんワシの為にだぞ、浅田屋も命の恩人よ。更にな与作殿は道の真ん中に倒れとるワシを三次の町へ行って帰ってくる間、寒さから身を守る為に芝草を集め其の上に着ていた着物を被せてくれたんじゃ。其の時、一緒におった狼犬の鉄と猫の玉がな、ワシを温める為にずっと寄り添っておってくれたのよ。其れからワシの看病の為に、治る迄仕事を休ましてくれと許可を取ってくれたんじゃ」

「すると主人は、お前も薬屋の端くれじゃろうが。お侍さんを死なす様な事があったら承知せんぞ」

 と言いながら、何度も往復してくれる与作殿に、食べ物と薬を持たせてくれたようじゃ」

「銭にもならんただ働らきだぞ」

「其れこそ、両方共に命の大恩人じゃないでか。此れは大変失礼致しました」

「其れとな、ついでにもう一寸、話しをしてもええか」

「どうぞ、どうぞ、いくらでも」

「ワシはな、今迄に与作殿には三度も命を守り助けてもろうたんじゃ」

「二度目は、三吉氏も知っとると思うが、ワシは三次藩に夜分に警護して出立するのを遠慮して、誰も付けずに一人で八幡山城に向かったわな」

「其のことはよう覚えとります」

「城を出てからすぐに毛利の間者の二人に跡を付けられておったわ、其れから間道を半ば過ぎる頃には十人に増え皆完全武装をしとる。皆、手練れの連中ばかりで有ったろうよ」

「其の晩は月夜じゃったが、ワシャ鳥目でよう見えん。ワシの人生も此れで終いじゃと覚悟をしたよ」

「奴等も襲撃するなら狭い道の処ではなく、少し広い場所でワシを取り囲んでメッタ刺しにして殺そうと思うたんじゃろう」

「そうしとったらな、与作殿の住んどる炭焼き小屋迄来たんじゃ。マムシに噛まれて看病して貰うとった小屋でのう」

「ワシの命は奴等にとっちぁ賞金首じゃ、多勢の手練れを集めて眼の色を変えておるわ」

「じゃがのう、与作殿はワシが襲われそうな気配をすぐに悟っていたんじゃが、気持ちように小屋へ迎え入れてくれたのよ。ワシは死神みたいな男じゃで、普通なら誰でも自分の命が大切じゃけ追い出すぞ」

「じゃが与作殿はそんな事は一切気にせずに「お師匠さんを此処で死なす訳にはいきません」と言って戦ってくれたんじゃ。ワシは其の時、此の男の心意気に感服したわ」

「何せ、此の一家は夜目が効く。松明や提灯の明かりが無ければ、普通の人間には周りが見える訳がないわ。真っ暗闇の中で最初に板壁の隙間から吹き矢で前方の二人を倒し、ワシも一緒に外へ飛び出したんじゃが、前がよう見えんのでまるで子供の棒振り剣法よ。足手纏いになったろうよ。じゃが其の時、鉄が助けてくれたよ。大きな狼犬が暗闇から、いきなり現れて鋭い牙で相手に噛みつき引き倒すのよ。玉は玉で相手の顔に飛び付き引っ掻きまわすし、奴等はワシや与作殿を相手にするどころじゃないわ。両方共に真っ黒で何処から襲って来るのか全く見えんのよ。与作殿といえば小刀遣いじゃが剣の達人じゃ。昼間やってもワシの方が分が悪いんじゃ」

「ワシは殆んど活躍しとらんのに与作殿と犬と猫が十人の間者を退治してしもうた」

「嘘みたいな話しじゃがほんまの事じゃ」

「今でも奴等十人の墓を大切に守っとる。ワシも側を通る時は何時もお参りをしとるよ」

「三度目の時はな、ワシが又、狙われては危ないと思うて、ずっと月山から二人の一応の手練れを警護に連れて来たのは三吉氏も知っとるわな」

「あぁ、其れはよく存じております。確か此処から八幡山城には昼飯時前に向かわれました」

「其の時も、前と同じ様に城のすぐ近くから二、三人の間者が町人の格好をして付けだしたのよ」

「そりゃええが、三吉氏、どうにもおかしいとは思わんか」

「何がですか」

「考えてみい、此処は三次藩じゃぞ。其の三吉氏の喉元にな、何時も毛利方の多分、宍戸の野郎じゃろうが他所の陣地に入って来て藩の動きを見張っとるんだぞ。其れも城の真ん前じゃ。お主、よう此れで枕を高くして寝ておられるのう」

「ウゥ~ン。迂闊じゃった。此れは私の全くの油断で御座います。すぐにも周辺の山から隈なく探索し手を打ちます」

「其れにな、奴等はワシが城を出立するのを知って、一度ならず二度迄も先回りして待ち伏せしとるのよ、だから早馬用の小屋を此の近くに必ず持っとるはずじゃ、絶対に百姓のふりをしとるぞ。可愛川沿いを一気に駆け上がって深瀬迄連絡に走っとる」

「其れとな、ワシが思うに間道を抜けて行くワシ等より遥かに早く先回りして待ち伏せしとるという事は、早馬より更に早い方法を使うておるしか思えんのじゃ」そ

「そりゃ又どんなやり方ですかね」

「そりゃ今迄は備後と安芸の国が互いに平穏無事じゃったが、今はこう云う戦況で情報収集合戦じゃよのう。何時もワシが此処へ来る度に見とるんじゃが西に高い山が有ろうが」

「ああ、高谷山ですか」

「そう、其れよ。多分、あのてっぺんからは両方の陣地がよう見える筈じゃないのか。三次藩で管理はしとらんのか」

「当然、ワシ等の物です」

「子供の頃には何度も登った事は有りますが、三次の町が綺麗に手に取るに見えます」

「今は誰も上がらんのか」

「多分」

「其れならば、今は奴等が三次藩の動きを見張りに使うておるな。城の前の山中から白旗を振ると高谷山から見える筈じゃ。其れを受けて狼煙を上げると志和地の方に丸見えよ」

「いやぁ、非常にえゝ指摘有り難う御座います、今一度、性根を入れて三次藩の引き締めに徹底的に掛かっていきます」

「其れに、早急に高谷山警護班を設け、常駐する様に家老に命じておきます」

「ハハ、話しが外れてしもうたのう。ついでにもう一つ言うてもええか」

「どうぞ、どうぞ」

「今迄のやり方よりも更に速い方法があるんじゃ」

「何ですか、そりゃ」

「ハハハ、空飛ぶ忍者よ」

「大殿、全く理解出来ませんが」

「今度実際に見せてるやるよ」

「そりゃええがワシャ何にゅ言うとったかいのう」

「三度目の襲撃事件ですよ」

「そうじゃた。其の時は、与作殿が仕事でどうにも呼ぶ事が出来なんだ。うちの警護の奴等ではどうにも頼りにならんのでな。又、必ず相手は十人前後を集めて来るで。其処で何時もの処で犬笛を吹いたのよ。すると鉄とラー助が間者に気付かれない様に離れて後を尾行してくれてな。其の様子はワシには全く見えんし分からんで心配しとったのよ。其れからは前と同じ様に明光山の峠に差し掛かる頃には途中合流した奴とで十人程に増えてな。皆、完全武装しとったわ。今度は昼間で道もよう見える、すぐ其の先にかなり広い草地があり、此処でワシ等三人に襲い掛かると見たのよ」

「ラー助とは何者ですか」

「ハハハ、カラスよ」

「こいつが又凄い奴でな」

「広場の手前に来た時に、前方の小高い松の木の裏に隠れとった間者の弓矢でワシの心臓が狙われとったのよ。其れをいつの間にか空を旋回しながら見とったラー助が急降下して弓の射手の右目を襲ったんじゃ。矢はワシの頭上すれすれに飛んでいったわ」

「そして愈々、目の前の草地に到着してから、間者どもに遠巻きに囲まれて一斉に襲撃する陣形をとられ出した時は、ワシャもう諦めたよ。付いとる二人の野郎がブルブル震えとるのよ、話しにならん。半ばやけくそになりかけた時じゃ、林の中から鉄が現れたんじゃ。そして其の後から四、五頭の狼犬がドドッと地響きを立てながらワシ等に向かって来てな。ワシも完全にビビッてしもうた。二人は腰を抜かして座り込んでしもうて戦意喪失じゃ。ワシもやられると思うたよ。処が、鉄と目が逢うと全く優しい眼差しで「お師匠さん、助けに来ました」と言うとる」

「案の定、狼犬はワシ等をぐるりと取り囲んでくれ牙を剥き出しにして奴等を威嚇してな。此れを見ていた間者供は襲撃どころか、恐ろしゅうなって後すざりを始めおった」

「奴等は前の襲撃の時、仲間の十人を失うとる。其れが此の狼犬にやられたと思うたんじゃろう。目を負傷した仲間を担いで這々の体で逃げ帰ってしもうた」

「其れが終わると暫くして他の狼犬は牙を収め優しい顔になって山中に消えていったのよ。此れも死にかけた鉄を助けてくれた与作殿への恩返しかも知れん。来てくれた他の狼犬は多分、親、兄弟じゃないか」

「お陰でワシ等は刃をまみえず誰も殺生する事がなかったんじゃ」

「と云うような訳でな、本日、忍者一家を皆引き連れて来たのよ」

「カラスがいないのでは」

「おう、そうかそうか。ラーちゃんな、多分、今は天守閣の上でワシを見張ってくれとるはずじゃ」

「そんな馬鹿な!、大殿、狼犬はとも角、カラスがそんな事が出来る筈がないじゃないですか。嘘でしょう」

「実際に、頭がえゝとは聞いた事は有ります。じゃがワシにはどうも信じられんのですが」

「よし、今度見せたるよ」

「大殿、今度ではなく、今、無理ですか。犬も猫もさっき来とったじゃないですか」

「よし、分かった。お主が信用出来んと云うなら仕方ないのう」

 と言いながら、大殿は懐から二本の笛を取り出し、其の一本を見せ

「よう見とれよ、此れがカラス笛じゃ」

 と立ち上がり、窓際に寄り添い一呼吸おいて力強く吹いた。音は高音で聞き取り難かったがピィーと響く音が聞こえた。するとまだ吹き終えないうちに外から声がした。

「オシショウサン-ダイジョビ」

 とぎこちない声がして窓枠に「カタン」と音がしてラー助が止まった。何とほんの一瞬の出来事だ。

「ラーちゃん、来てくれたか。ダンダン、有り難う」

「ナンノ、ナンノタンタン」

 全くの大殿の物真似に三吉氏は大笑いであった。

「ハハハハ、こりゃ何じゃ!」

「いやぁ、凄い、ほんまに凄い!何ちゅう事じゃ!」

 此れには

「完全に参りました。今迄は大殿の言葉を、大風呂敷の話し半分に聞いておりましたが、真実である事がはっきり分かりました」

「それ程ではないよ」

「今度はな、八幡山城から三次城迄の二里半をラーちゃんに書状を運ばせるからな。ほんまにアッと云う間だぞ。さっき言うたのはこの事じゃ」

「大殿、此れは今後、戦略上重要な役目を果たしそうですね」

「早馬など全く目じゃないですな。派手に騒々しゅう駆けて行く馬に比べて何一つ音がせんのがいいですよ。第一、空を飛ぶから川や険しい峠も全く関係無く行けるし、ラーちゃんなら往復する事が簡単に出来るんでしょうね」

「当然の事じゃ。だから三次城から飛ばす時にも、三吉氏に慣れといて欲しいのよ」

「伝書鳩を見いやぁ、あれは一方通行のみで。其れに下手すりゃ何処に飛んで行くか分からんからな」

「確かに」

「其れにな、今連れて来とる鉄も速いぞ。競走すると早馬が簡単に置いて行かれるぞ。其れに少々の荷物なら肩に括り付けてぶっ飛んで運んでくれるわ」

「も一つええのは、行け!と命令すればどんな川でも泳いで渡る事よ。三次の町は川が多いからのう、特に役立つで」

「前に与作殿が言うとった話しによると、鉄や玉は自分が居らん時、昼間に何時も別荘の近くで遊んどるらしいんじゃ。其の時、たまたま人里が見える辺りで、百姓の嫁が小さな子供を連れて川の側で遊んどったんじゃ、だが足が滑って水の中に落ちて流されたらしいのよ。「誰か助けてー」と叫んでも周りに人は居らん。川幅はそんなに広うはないが流れが速うてどうにもならん。其の時に側の藪の中から、最初黒い猫が出て来て、すぐ其の後に、狼らしい大きな動物が飛び出して、水の中に飛び込んでくれたそうじゃ。そして子供の腰の帯を咥えて岸迄引き上げたら、すぐに山の中に消えたらしいのよ」

「其の事を帰ってから近所で話した事が評判になって、忽ち町中に広まったらしいのよ」

「其の話しならワシも小耳にした事が有りますよ」

「其れがどうも鉄らしいのよ。じゃが鉄は話しは出来んからのう、はっきりは分からんでぇ」

「与作殿は、暑い時期は何時も風呂替わりにすぐ下の沢で汗を流し身体を洗うらしいんじゃ。其の時、鉄が毎度飛び込んで来るらしいよ。わざと水の中に暫く潜ると、溺れたと思うて心配して犬かきで来るゆうとったよ。さすがに玉とラー助は水が苦手なんかのう」

「なるほど非常にええ事を聞きました。早速にも犬やカラスの訓練所みたいな処を作りたいと思いますがどうでしょうか」

「そりゃえゝ思い付きじゃ」

「西の方の國じゃ既に犬の鋭い嗅覚と戦闘能力を利用して探索、追跡に軍隊が活用しとるらしいじゃないですか」

「其んな話しならワシも聞いた事が有るのう。ましてやカラス迄加わってみい、片田舎の三次藩が日本の先駆けとなるなるかも知れんでぇ」

「こんなに動物達を思い通りに躾ける事が出来る、与作殿とは一体何者なんですか」

「ハハハ、本人は只の男と言うとるよ」

「何れ、三次藩の為に協力願えませんでしょうか」

「そう云う事なら喜んで力を貸してくれると思うよ、ワシもよう言うとっちゃるよ」

 三吉の殿様は大殿との会話が楽しくて、本来なれば重要な戦略会議が第一の目的であったが、嘘か真か訳の分からぬ大殿との会話に時の経つのを忘れる程であった。

「処でな、三吉氏にお願いが有るんじゃが」

「何で御座いましょうか、何なりと」

「今、来たラーちゃんに何か食べ物をやってくれんかのう」

「えゝ、たったそんだけの事ですか。お安い御用ですよ」

「ラーちゃんがな、腹が減ったんじゃろう、口の周りをしきりに舐めとるのよ」

「ハハハ、ラーちゃんごめん。気が付かずに悪かったのう」

「シミマシェン」

「大殿、ラーちゃんはこっちの言う事が大体理解出来るんですなぁ」

 三次の殿様はお付きの侍に食べ物を持って上がって来るよう命じた。

「オイ、肉が有ったろう。すぐに持ってこい」

「肉だけでなくてもええよ。此奴は何でも食べるからな、只、味付けの塩分は控えてくれるか」

「大殿、動物に塩味はようないんですか

「ああ、与作殿が何時もそう云うとる。間違いない」

「然し、ラーちゃんには、たった此れだけの報酬でえゝんですか」

「そうじゃ、他に何の欲もないわ。しいて他に有るとすれば愛情を込めた声掛けかのう。だからラーちゃんに限らず動物達に接する時には、子供をあやす時の様に猫撫で声になるのよ」

 其のうちに階下から食べ物を持って上がって来た。

「どうぞ、やって下さい」

「いやいや、お主がやってくれるか。そうするとすぐに覚えて仲良くなれるから」

 と大殿に言われた三吉氏は包みから肉を取り出し

「ラーちゃん、有り難うな、さあお食べ」

 と言いながら優しく頭を撫でてやると嬉しそうに目を細めている。ラー助は三口くらいを食べると、大殿が残りを包みなおし爪に引っ掛けさせた。

「さあ、ラーちゃん持ってお帰り」

「アリガトサン」

「今後共宜しくな」と三吉氏が言うと

「ワシ二マカセトケ」

 と全く大殿そっくりのもの真似に二人共大笑いしながら

「大殿、こりゃ癖になりそうですな」

「ハハハハ、ワシもはまっとるよ」

「其れにしても与作殿と云う男は凄い能力が有りそうですね」

「ワシもな、最初の襲撃事件が有った時は酷い鳥目でのう。暗い夜道で前がよう見えなんだ」

「其れを与作殿はワシの為に、薬の処方箋から食事方法と色々と教えてくれてな。こんなもなぁ病気じゃない、と言われたんよ。教えてもろうた通りに偏食を辞めて、貰うた薬を飲んだらきれいに治ったわ」

「其れは又、全然知りませんでした。うちの野郎等にもぎょうさんおるんですよ。其れで、暗うなったら外をよう歩かん言うて夜の見廻りをせんのですわ。此れじゃ、ろくに城の警護も出来ません。戦になったら何の役にも立ちませんよ。中には仮病の横着もんもおるでしょう」

「今度、浅田屋に来て貰って講義を受け対策を協議します」

「そうじゃ、其れがえゝで」

「処で、大殿が最近ずっと持っておられる二本の筒が忍者笛ですか」

「えらい立派な拵えですね」

「ハハァ、三吉氏、仲々上手い事を言うのう。そう此れが鉄とラー助を呼び寄せる犬笛とカラス笛じゃ。此の笛はワシの為に与作殿が作ってくれたもんよ」

「玉は両方に反応してくれるよ。此れはさっき使ったぶんよ」

「大殿、ついでにもう一本吹いて貰えますか」

「おう、そりゃええが此処は城の中でぇ、ほんまえゝんか」

「構いません、是非。ワシも楽しみにしとるんですわ」

「そうか、ほいじゃ見とれよ」

 大殿はおもむろに立ち上がり、腰の犬笛を手に取り口に当て一吹きした。此れもやはり人間の耳には全く何も聞こえない。

「三吉氏、鉄はワシが襲われとると思うて凄い顔をして来るで、噛まれん様に気を付けとってくれるか」

「えゝ、冗談でしょう!」

 階下の部屋に控えていた与作と鉄と玉は、ゆっくり休んでいたがどことなく落ち着かなかった。何せ城中の大広間の青畳の上に座って控えている。自分の実家は畳など無くムシロを敷いた部屋に他は板張りであったからだ。だがその時、突然鳴った笛に鉄の耳がビンと立ち目の色が変わった。

 すっくと立ち上がると

「鉄、お師匠さんが呼んどる、行け!」

 と与作に言われ一気に廊下を駆け出した。すると玉も後に続いている。

 階段を駆け上がり、大殿と三吉氏がいる部屋の前に来ると戸が閉まっている。鉄はお構い無しに其れにバ–ンと体当たりして、ひっくり返し中に飛び込んだ。

 まさしく牙を剥いて凄い顔をしながら近寄り三吉氏を睨んでいる。

「鉄!駄目!」

「辞めい、この人は味方じゃ」

 大殿のこの一声に、即座に其の場にお座りをしたではないか。

 全く柔和な表情に一変して尻尾を振っている。そして、其の変わり身の速さに

「ウヮ〜、肝を冷やしましたよ。いやぁ、凄い迫力ですな」

「たまげた!たまげた!ワシャ噛まれたかと思いましたよ、これじゃ大殿が言われた様に間者供も恐れをなす筈ですわ」

「鉄ちゃん、来てくれたか有り難うな」

 大殿が優しく声をかけると、途端に大きな鉄がまるで借りてきた猫の様におとなしくなったではないか。

「もう大丈夫じゃ、褒めてやってくれるか」

 三吉氏が恐る恐る頭を撫でてやると「ウォーン、ウォーン」と大喜びをしている。

 すると今度は玉が駆け付けて来た。

「おやおや、今度はほんまの猫の玉ちゃんも来てくれたんか」

 来るといきなり「二ャ〜ン、二ャ〜ン」と鳴きながら大殿の膝の上に座っている。

「此奴は此れで可愛ゆうてな。全く癒しになるのよ」

「然し、鉄ちゃんも玉ちゃんも可愛いですな」

「じゃが、いざと云う時には、さっきの通りで、全く勇敢で無茶苦茶強いぞ」

「あのなぁ、鉄ちゃんと玉ちゃんの頭を優しく何度も撫でてやるとすぐに懐いてくれるよ。特に鉄は全く従順で優しいよ」

「鉄は此れから強い味方になってくれ、特に三次藩の為の初代の訓練犬の手本になってくれるよ。戦闘能力と桁外れの嗅覚を利用すると凄い戦力に必ずなるよ」

 と言われると三吉氏は目を見つめながら「鉄ちゃん、玉ちゃん」と呼び優しく頭を撫でると本当に嬉しそうな顔をしている。

「こうして鉄と玉が此処にいてくれると心が和み、癒やされますな」

「これだけの事が出来る与作殿に付いてもう少し聞かせて貰うて宜しいでしょうか」

「アァ、何なりと」へ

 と其の間に、もう鉄は三吉の殿様の横にぴったりとくっ付いている。

「そもそも苗字帯刀を許す結果になった事と、百姓の倅が何で剣術をやる様になったんでしょうか」

「其れはな、奴が云うのには子供の頃に何時も可愛いがってくれるお武家様が近くに住んどったらしいんじゃ。少しの田地が有ったんじゃが独身者で城勤めときとる。其れでその世話を殆んど与作殿の家族が面倒みとったらしいのよ。田植えから稲刈り、畑のしごう迄もよ。だから互いに仲がようての、しょっちゅう小さな侍の家に遊びに行っとったと言うとる。

 其の時に、何時も庭先で真剣での居合の稽古や木刀の素振りをしとってな。じゃが、其れに与作殿は興味が有ったらしくて家に帰って真似事をしとると、 其れを見た父親は「ワレは百姓の倅じゃ、馬鹿な事たぁすな」と怒鳴られたらしい」

「与作殿は子供の頃から物事に徹底的にのめり込む性分で観察眼が鋭いのよ。親に内緒で山中に入り、そっくり其のまま真似をして素振りをしとったらしい。其れも千回だぞ、剣豪でもそこまでよう出来んぞ。自分で樫の木を削り小刀にしてな、短い小刀だぞ。其れは護身が目的じゃ云うとった」

「自分は百姓の倅で、剣術は一切必要のない事なので、其の侍に絶対に教えは請わんかったらしいんじゃ。とに角、自分の趣味が高じたらしいのよ」

「三吉氏の処に居合の達人で誰か心当たりのある奴がおるか」

「分かりました。多分、其奴は代官所の次席を務めとる上里ではないかと思われます。八幡山城の出身ですから」

「其奴はどう云う流派かのう」

「どう云う流派かと申しますと、さして言うなら無念無手勝流ですかね。近在の腕自慢が対戦した奴で、一本勝負で勝てる者は一人もおらんのですよ」

「ジッと目を閉じたまま刀に手を掛けず、肩の力を抜いた自然体のままで対峙するらしいんですわ」

「 其れよ!与作殿は其れをそっくり真似たのよ、間合いといい、構えといい全く同じじゃ」

「ワシがマムシに噛まれて看病して貰う時には、鉄と玉が居ってラー助はまだおらなんだな。

 具合が大分ようなった頃、世話をしてくれる与作殿の手を何気無く見ると竹刀だこが有るんじゃ。剣術をやるんかと聞くと、これは百姓仕事のまめですと言いおった。然し、ワシにはすぐに分かったよ」

「一丁、ワシと手合わせをしてみるかと云うてみたらな、渋々承知しおったわ」

「今迄に、一度も相手と対した事は有りません。お手柔らかに願います」

「オゥ、どこからでも掛かって来い」

「と言った迄はよかったが見事一本取られたよ」

「二本目からはボロが出初めたが、其れにしても身が軽い、油断しとるとすぐに懐に飛び込まれる」

「今では此方で合う度にええ対戦相手じゃ、何せ奴は小刀だぞ、凄いに決まっとる」

「其れにな、も一つ加えると与作殿は吹き矢の名手じゃ。百発百中、何と云っても凄いのは一度に五連射出来る事よ。目にも止まらぬ速や技よ、 こっちの方の一本の竹筒は構造が違うとったな、普通なら左手と右手で固定して構えるんじゃが、此れは筒の先の方に、縦に短い把っ手が付いておってのう。其れで目標を定めて吹くらしいのよ。

 そして矢じゃが五本が段々と一つに重ねて入っておりプッと吹くのではなくピシッと鋭くと言うとったよ。矢の方に工夫をしとるらしいんじゃ。其れはワシには教えてくれず笑うとったな」

「まるで手妻じゃ。こんな事が出来のは國中探しても他におらんぞ」

「此れは子供の頃にお武家様と川に釣りに行っとった時に吹き矢の作り方から吹き方まで教わり習得したらしい。何せ研究熱心な男じゃ」

「そう云う事もあり更に命の恩人でもある。ワシはすぐその場で腰から小刀を抜いて与作殿に手渡し、御守りで持っておってくれ、そして今日から苗字帯刀を許すと言ったんじゃよ。三吉氏には何も許可を取らずに決めてしもうて迷惑を掛けたな」

「とんでもない。三次藩に取っても大変誉れ高き事をして頂きました。大殿のお腰の物は備前長船兼光の名刀とお聞きしとります。其れを授かった与作殿は藩としても大変名誉な事で御座います。三次藩を代表致しまして御礼を申し上げます」

「三吉氏、そう思ってくれるか、有り難う、感謝しとるよ」

 色々話しをしてくれる国久公に三吉氏は楽しくて仕方がない。今迄は大きな身体で強面の高圧的な大殿と思っていたのだが、人や動物に対してこんなにも愛情溢れる人間とは及びも付かず、其れに気さくなうえに饒舌な方とは思ってもみなかったのだ。

「大殿、今日は三次藩にとってもの凄くえゝ事をご教示頂きました。目から鱗が落ちた思いで御座います。悪い事もぎょうさん有ると思いますが、その都度、指摘願えれば大変嬉しゅう御座います」

「其れとですね」

「何かいのう」

「其れは大殿が苗字帯刀を許すと言われた与作殿に是非会ってみたいもんですが如何でしょうか」

「ハハハ、止めとけ、止めとけ、今は。ましてや今日は絶対に駄目じゃ」

「どうしてですか」

「其れは、お主が三次藩の殿様と知れば恐れおののくわ」

「では大殿とは何とも無いんですか」

「其れは奴とワシとは師弟関係で有り、一時、同じ釜の飯を食った仲で友達でも有るからよ」

「そんな馬鹿な」

「じゃが、此れが現実で大真面目のこんこんちきよ」

「今では師匠、師匠と呼んでくれるがな。実際ほんまのところはワシが弟で与作殿が師の方よ」

「そりゃ又、どんな理由で」

「それだけ文武両道に優れておるのよ。其れに信心深こうてな。写経をやっとるんじゃが第一、長い長い経文が全部頭に入っとる。ワシも少しはかじっとるんじゃがのう。とてもじゃないが凡人の頭では付いていけん。浅田屋に奉公に上がる前はお寺さんの小僧をやっとったらしいんじゃ。終い頃には若いのに既にご院家さんの伴僧を勤めとった様じゃ」

「其れにな、与作殿の、お粗末な机の上に有った書き物を盗み見すると、ボロボロの孔子の論語の書教が有り、書き写しの紙一面が真っ黒になる程書き尽くされておったよ。恐らく日本國中、地方で此れを読み切る事が出来る者はおらんぞ」

「何れは三次藩に無くてはならない人間に必ずなるだろうよ」

「然し、苗字帯刀を許されとっても絶対に侍にはならんからな。ワシも一発で断わられたよ。奴がおってくれたら凄い参謀になるんじゃがのう」

「分かりました。何れ、如何なる方面でも力添えを頂くように致しますから」

「そうか、そうか有り難う。すまんなワシもよう言うとくから近いうちに是非合わせてやるよ」

「然し、大殿は当藩にとって色々凄い事を提供して頂きますね」

「さして何もしとらんよ」

「大殿が見つけ出してくれなければ、与作殿と言う優れた人材を埋めてしまう処でした」

「ハハハ、三吉氏がそう思うてくれるか。ワシは嬉しいよ」

「処で、話しは変わるが忽ち三吉氏にやって貰いたい事じゃがな」

「何でしょうか」

「代官が勝手に浅田屋を闕所にしとる事よ。今、店は完全に閉まっとるが、奉公人達は年末じゃと云うのに路頭に迷うとる事じゃろう。すぐに解いてやってくれるか」

「分かりました。明日、早朝にも知らせてやりましょう」

「其れにしても悪い奴よのう。殿様の権限をまるで無視しとる」

「此奴らは近いうちに潰した店を乗っ取るつもりじゃ。薬事免許も取り上げてから、全てを深澤屋に任せて代官は其の儲けの上前をはねるつもりじゃ」

「許さん、絶対に許さん!ワシの目が届かんと思うて悪い事のし放題しゃがってからに。代官も深澤屋も厳罰じゃ!」

「ワシは今、此処に今回の毒殺事件に絡む、与作殿が調べ上げた報告書を持って来ておるんじゃ。ワシが下に行っとる間に読んどって貰えるかのう」

「一寸、下におる与作殿に報告しといてやらんといけんので失礼するぞ」

「どうぞ、どうぞ行ってやって下さい。与作殿には、三次藩としてとんでもない失態を犯す処じゃったと、そして心からお詫びすると伝えて下さい」

「分かった、有り難う」

 小半刻経った頃、大殿が与作達が控えている部屋に、ドンドンと足音を立てながら掛け込んで来た。そして大声で

「大将!喜んでくれ。事は解決したぞ。浅田屋の闕所はすぐに解いてやる、無罪放免じゃ!」

「すぐに伝えてやってくれるか」

「ほんまですか、有り難う御座います」

「其れに、此処の殿様がな、今度の一件で、三次藩の恥さらしな窮状を救ってくれて感謝していると礼を言うとったで」

「とんでもない、私は何もしておりません。みんな大殿様のお陰で御座います」

「またまた、大将と云う奴は」

「処でな、闕所が解けたのはえゝんじゃが、浅田屋の主人はどうなったかのう」

「昨日、大殿がすぐにでも見張っといてくれと言われた事で、其の役目を玉が果たしてくれました」

「然し、今朝方、代官所の役人が店にやって来て「死んだから亡骸を引き取りに来い」と言いました」

「其れで私が、代官所の裏手から運び出された棺桶を大八車に乗せて店に引いて帰ったのです」

「亡くなったのか」

「いえいえ、玉の機転で店に帰って息を吹き返しました」

「ウ〜ン、びっくりさすなや」

 と唸って暫くため息をついていた。だがやがて大笑いしながら

「大将といい、鉄、玉、ラー助といい全く何と云う奴等じゃ」

「ほんまに凄い!」

「大殿の指図通り天井裏から見張っていた玉は、物凄い嗅覚で、朝食の中から上がって来る湯気で毒が入っているのを嗅ぎ分けると、主人がすまし汁椀を口に当てる瞬間、天井から飛び下りて叩き落としたのです。其れから死んだふりをする為に、痺れ薬を飲ませ仮死状態にして、すぐに棺桶に入れさせ運び出したのです」

「何と上手い事を考えついたもんじゃのう」

「店に帰ると、奥様が気付薬を飲ませて息を吹き返えらせました」

「此れも大殿の的確な指示のお陰で御座います」

「又々よう言うてくれるわ、でも嬉しいよ。浅田屋の主人はワシの命の大恩人じゃから当然の事をした迄よ」

「大殿様、今日は私達町人にとっては、絶対に入る事が出来ない城中で長居をさせて頂き有り難う御座いました。私達は此れで失礼させて頂きます」

「そうかそうか、ご苦労じゃったのう」

「一寸、待っとれよ。皆んなにお土産が有るんじゃ」

 と言って奥に引っ込み小包を持って来てくれた。

「何時も誠に有り難う御座います」

「何の何の」

 其れが美味しいご馳走で有る事を忍者一家はよく知っている。

 鉄と玉は大殿に甘えて大喜びをしている。

「今から門の処迄、送って行くからな」

「とんでもない、結構で御座います」

「えゝから、皆んな行くで」

 部屋を出ると城の中の玉砂利を踏みしめて正面に向かった。そんなに長く歩く距離では無かったが出会う侍は一歩下がり一礼をしている。そし玄関口に来て愈々帰ろうてして

「本日は誠に有り難う御座いました」

「オゥ、皆んな気を付けて帰れよ」

 と挨拶をしている時、一人の侍が城の中に入って来た。

 なんと「おっちゃん」ではないか。歩みを止めて大殿の手前、一礼をしている。其の時、上目遣いに与作と目が合った。

「おっ・・、」

 と危うく叫ぶところであった。さぞびっくりした事であろう。

「何で大殿と一緒におるんじゃ」

 おっちゃんは与作と別れて以来、一度も合っていない。互いの仕事が忙しい為もある。

 だが、 其れ以上に、方や代官所の次席、方や薬屋の丁稚奉公と格段に身分格差が生じており会える訳がないのだ。何れ、おっちゃんは三次代官に出世するであろう。

 そんな与作が、天下の大殿様と、城中からニコニコ談笑しながら並んで歩いて出て来たのだ。其れに奥の方では我が殿も柱の陰から見送っている様だ。

 側には大きな狼犬と大殿様の懐には猫がいる。だが与作はといえば、全く身なりがお粗末な格好である。城中で初めて目にする異様な光景に、ただ唖然とするばかりであった。

 でもその後は、さり気なく互いにやり過ごしたのである。

 あの子供の頃、可愛いがった百姓の倅の与作が、天下の大殿様と城中を歩いている。

 でも、おっちゃんは、心の中では嬉しさと喜びに溢れていたに違いない。

 其れ以降、与作と忍者一家は、三吉のお殿様に一目置かれる存在となり、何かと重用されて三次藩や 代官所に於いて、陰の実力者として大いに貢献したのであった。

 城を出て暫く歩いていると、ラー助が舞下りて来て鉄の背中に止まった。見ると口の周りを舐めており、更に包みを持っている。

「ラーちゃん、さては師匠さんに呼ばれたな」

「エへへへ」

「おまえは、師匠さんが好きだからな」

「よし、此れから別荘に行ってから飯にでもするか」

 今日も皆んな仕事をした充実感一杯で飯と聞いて更に大喜びをしている。

 与作は今度の事件に関して、町人には到底解決などあり得ない事を国久公に成し遂げて貰い、只々、言葉では言い表わせない程の感謝の念で一杯であった。

 そして日頃、お世話になっている浅田屋の主人を救い、明日にも店を再開できる事で今迄通りに奉公人達も、此れで正月を迎えられるであろうと心がうきうきして堪らなかった。


闕所の解除


 生き返った主人は昼過ぎまでぐっすり寝ていた。余程、牢屋より寝心地が良かったのであろう。

「オ〜イ、母さん、腹が減ったよ。飯にしてくれんかのう」

 隣の部屋から襖を半開きにして、母子が固唾を呑んで長い時間様子を伺っていた。

 主人の麻沸薬からの意識回復は、奥様の匙加減一つに掛かっていますよと、与作に言われた為に、どうか間違い有りません様にと手を合わせながら祈っていた。

 目覚た主人の声を聞いて

「何時ものお父さんの調子に戻っているよ」

 と美和がいうと

「そうね、元気になったみたいだね」

「良かったぁ、うちは調合を間違うとらんかったんよ」

 襖を開けて奥様が声を掛けた。

「お父さん、目が覚めましたか、お粥を持って来ましょうか」

「要らん、要らん、何時ものでええよ。考えてみりゃワシャゆんべから何も食うとらんで。朝には代官に毒を飲まされたからのう」

「じゃがな、美和よ」

「何ですか、お父さん」

「ワシもな、美和と同じ事をしてもろうたのよ」

「何の事ですか」

「美和が誘拐された時に助けてくれたと云う犬と猫な、美和が代官所で言うたら 、気違い扱いされたが、ワシも同じ事をゆんべしてもろうたのよ」

「そうでしょう。私が言っ事は間違いないでしょう」

「代官がワシを殺そうとしゃがったが、どうも深澤屋とグルで店を乗っ取ろうと企んどる様じゃ。其れが証拠にすぐに闕所にしたろうが。どうにも此奴等が藩に内緒で決めたとしか思えんのじゃ、三吉のお殿様は絶対にこんな酷い事はなさらんぞ」

「明日中にな、どうしょもなけりゃ、ワシは覚悟して殿様に直訴をするから」

「でも直訴は御法度じゃないんですか」

「そんな事ぐらい、始めから分かっとるわい」

「では、お父さんに全て任せます。いいですね、美和も」

「はい」

「でもね、お父さん、与作が言った言葉も信用しましょうよ」

「ほいでも、相手は代官所のほんまの悪代官じゃぞ。与作でどうなるもんじゃないぞ」

「丁稚一人で何が出来るんじゃ」

「ようし、こうなりゃ末期の酒じゃ、母さん、美和、ドンドンやるで」

「そうね、此れで最後と思うたら気が楽になりました。酔い潰れるまでやりましょうよ」

「オイ、オイ、然し、母さんも度胸が座っとるのう」

「美和ちゃん、有る物を皆持って来てよ。明日の朝までジャンジャンやりましょうよ」

「親子で最後の宴ですね」

 主人は二人の横顔を見つめながら「なんと腹の据わた母子よのう。ほんま誰の子かいな」と思い今、初めて母親の逞しさに感じいっていた。

 どれほど呑んだであろうか、三人共に意識が朦朧とするほどの酩酊ぶりであった。そうした早朝、与作が来るよりも早い時間、玄関戸を派手にドンドンと叩く音がする。これに奥様が気付いた。

「今時、何用かな。うちは潰れとるというのに」眠気眼を擦りながらハッと気付いた。

「こりゃ大変だぁ!どうしよう、どうしよう」処

 が二人共に爆睡中で大いびきだ。

「えぇい、ままよ」

 と立ち上がり表に向かった。覗き窓から外を見ると

 二人の役人が玄関先に立っている。

 此れは昨日、浅田屋が牢屋で亡くなった為に、財産没収と店舗引き渡しの通告に来たものと覚悟して奥様が出て来た。まさか主人が、生きて帰って来ているとバレる筈はないんじゃが、と思いながら恐る恐る戸を開けて外に出た。

「お役人様、私らは覚悟をしております。仰せの通りに従います」

「オイオイ、御内儀よ、何を勘違いしとるんじゃ、今朝はな、えゝ知らせを持ってきたのよ」

 早朝にも関わらず、やって来た役人二人はニコニコしながら

「浅田屋、喜べ、闕所が解けたぞ。今日からまた店を開けてもええぞ」

 悪い事ばかり考えていた奥様は、この一声を聞いて其の場で腰を抜かして、へたり込んでしまった。昨日からの飲み過ぎで足腰がふらふらのせいもあった。 

「オイ、大丈夫か」

「アッ、はい、大丈夫でございます。又、今まで通り商売を始めてよろしいんでしょうか」

「アア、そう云う事じゃ、上の方からお達しがあってな、すぐに行って喜ばしてやれとな。其れで、早朝にワシ等が出っ張って来たのよ」

「本当に有難うございます。でも何でこういう事になったんでしょうか」

「そんな事を聞かれてもな、ワシ等、下っ端に分かる訳きゃ無かろうが」

「間違い無く伝えたぞ」

 と言い二人が帰ろうとすると

「お役人様、一寸、お待ち下さい」

 と言って立ち上がろうとするが腰砕けだ。役人が手を引いてくれてようやく立ち上がった。

 そして、奥に入って戸棚の中から、得意先用に用意してあった一斗樽の祝酒を持ち出そうとしたが、またもや樽ごと転んでしまった。

「お役人様、助けて下さい ! 」

「どした!又か。大丈夫か」

「お役人様に持って帰って頂きたくて」

「えゝ、こんなにくれるんか」

「どうぞ、どうぞお待ち帰り下さい。朝早くに来て頂いたお礼でございます」

「いやあ、すまんのう、有難う」

「浅田屋、ほんまに良かったのう。ワシらもええ伝達に来れて気分が晴れ晴れじゃ」

 と丁寧にお礼を言いながら二人はご機嫌で帰って行った。

 玄関先から役人が帰るのを見届けた奥様は慌てて奥座敷に駆けり込んだ。

「お父さん!大変だあ ! お店の闕所が解けましたよ」

 と大声で叫びながら、廊下を走り奥の部屋に飛び込んで来た。其れまでは押入れの中に潜む様にしていた二人は、奥様の声を聞いて抱きあって泣いている。

「お父さん、美和、何処に居るんですか」

「此処じゃ、此処じゃ」

 そして襖を開けて転げ出た。

「お父さん、どうしたんですか」

「ヒヒヒヒ、飲み過ぎで足腰が立たん」

「もう隠れなくても、直訴もしなくてもいいんですよ」

 この知らせに浅田屋一家は、嬉し涙に泣き濡れながら抱き合い、そして部屋や店中を何度も転びながら走り回っていた。

 主人は店先に下りては帳場の前に座り、帳簿が書ける、算盤が弾けると子供の様にはしゃぎまくっている。

「母さん、今度は祝い酒じゃ」

「そうですね、やりましょう。やりましょう。美和ちゃんもこっちに来て、又、一緒に飲みましょう、ジャンジャン持って来て」

「何言ってんですか。この大酒飲み、五升樽がもう一寸しか残っていませんよ。其れにつまみや食べ物は全然有りません」

「無かったら、美和ちゃん買って来て ! 」

「何よ。今 、何時と思っているんですか」

「叩き起こせ ! 」

「オイ、母さんもの凄いぞ、まるでウワバミじゃないか」

「知らなんだなあ、女房がこんなかったとは」

「お母さん、凄いね。でも今、買って来ますからね」

 美和が買い物に出かけてからも一層、元気が出て来だし、いささか心配になり出した。

「まあ、後の世話は美和に頼むか」

「処で、母さん、うちの店は如何してこうなったんじゃ」

「そんな事を聞かれても私も、美和も分かる訳が無いでしょうが、つまらん事を聞くな ! 」

「代官はワシが知らん間に、勝手に闕所にしおってからにな。一旦こうなったからには、お殿様が決めて下さらん事には解除出来んぞ。よっぽど偉いお方が動いてくれたとしか思われんのじゃがなあ、多分、代官は厳罰を喰らうぞ」

「其れにしても誰が助けてくれたんかのう。美和もワシも犬と猫に助けてもろうたが、実際には必ず飼い主がおるで。其の時に書いてあった紙にはな、

 もの凄い達筆で、綺麗な月下美人の絵が描いてあったわ」

 其の時に美和が一杯の荷物を抱えて帰って来た。

「ワシは何の事やらさっぱり分からんが、お前ら分かるか」

「さあ〜、わっからね〜」

「こりゃ、母さんは駄目じゃ」

「此の月下美人の花言葉は何じゃ 、美和 ! 」

「其れはね、夜咲く花と言われているわ」

 と美和が答えた。

「フ〜ン」

「其れにしても、与作の言った通りになったろ。奴は賢い, なぁ、美和ちゃん」

「分かった、分かった」

「美和、酔い冷ましに母さんの顔へ水でもぶっ掛けや」

「お父さん ! お父さんも何言ってんですか」

「冗談、冗談じゃ!早よう寝かしてやれぇや」

「まさか与作じゃなかろのう。奴は最初うちで使う様になる時、庄屋の山田屋さんは、百姓の出で無学文盲じゃと紹介して来たぞ。今も字を書いてもミミズがほうたように下手クソじゃし全く絵は描けんぞ。其れに犬も猫も飼うとらんじゃろう。毎日、志和地から走って来とるから無理よのう」

「然し、庄屋さんに騙されたんかのう」

「其れか、自分の力を全く隠して、猫を被っとるんかのう」

 役人が相当に早い時間に来たもので親子の話が佳境の頃、ようやく、何時もの様に与作が顔を出した。

 今朝も、くぐり戸を開けて箒を取り出すと店先から路地の隅々迄、掃除を始めていた。

 丁度、其の頃、与作が来た事に奥様が気付いた。

「ほら、お父さん、与作が何時もの様に来ましたよ。店が閉まっているのに必ず顔を覗かせるんですよ。然も志和地から来るんです。他の奉公人達は誰一人として来た事がないのに」

「私や美和は、お父さんが何と言おうと、今は与作を一番信用してますからね」

「お父さん、しっかりせえ ! 」

「オイオイ、こりゃ完全に悪酔いじゃ」

「美和よ、すまんが後は母さんを頼むで」

「ワッカリマシタ。任せてチョウダイ ! 」

「オイ、此奴もかい」

 酔っぱらった母さんから聞いた与作の事を主人は「フゥ–ン」と唸りながら席を立ち店先の戸口の処に近寄った。

 外では、毎朝の様に隣同志の丁稚仲間の話し声がしてくる。

「与作どんは、店が潰れて閉まっとるのに何で、何時迄も馬鹿な事をするんじゃ」

「其れも、遠くから来とるんじゃろう。一銭にもならんじゃろうが」

「変われ ! 、変われ ! 」

 と皆んなで合唱している。

「こんなケチがついた店など縁起が悪いわ」

 隣、近所の丁稚供は散々浅田屋 のことをこき降ろしている。

 其れを聞いていた主人は少々頭に血が上ったが、与作の一声に一気にかき消された。

「ウン、じゃがワシには他にする事も、行く処もない。脳足りんじゃから此れでいいのよ、主人が、又、店を開けてくれるのを待っとるんじゃ 」

「牢屋の中から何が出来るんじゃ。どうしょうもない阿呆じゃのう」

 だが丁稚等の喧騒の中、与作の冷静さに浅田屋は目が覚めた。そして美和が言っていた花言葉を、酔っぱらった頭で一生懸命考えていたが、この時、始めて此の意味が浮んだのだ。

「夜る、咲く花、夜る咲く花、夜咲く花、よさくはな、よさく、与作じゃ。オウー、絶対に間違いない ! 」

 丁稚供の話しを聞く迄は、まだ与作を疑っていたが、皆んなして浅田屋を去ってしまった店に、とんでもない能力を有した忠義者が残ってくれていたとは・・

 主人は玄関戸の裏で一人声を押し殺し号泣したのである。

 やがて、丁稚供が夫々の店に散っていくと、外には与作一人がポッンと立っていた。東の空に向かって両手を合わせ暫く何やら拝んでいる様だ。

 其れを見計ってから、主人は涙を拭いて玄関の戸をガラッと開けて出て来た。

 其れを見た与作は

「おはようございます。ご主人さん身体はもういいんですか」

「うん、有難う。与作のお陰で、気分も身体も快調じゃ」

 与作が浅田屋に雇われて以来、主人が「有難う」を初めて口にしたのである。

「与作よ、今朝、早ように代官所の役人が来てな、上からの御達しで闕所が解けて無罪放免じゃと言うてな、ほいで今日から店を開けてもえゝ言うんじゃ」

「じゃが信じられるか。わしゃまだ店を開けてもえゝんか迷うとるんじゃ」

「どうしてですか」

「ころころ変えりゃがる代官所の方針に、ワシの身にもなってみいや。其れに生きたり死んだり忙しい事よのう」

「ご主人さん、もう大丈夫ですよ。三吉のお殿様を信じてあげて下さいよ」

「そうか、そうか、与作もそう思うか。自信を持ってもええんじゃな」

「其れじゃあ、今から番頭さんを始め奉公人さん達を呼び集めなければいけないですね」

「私も又、雇ってもらえますね」

「当たり前だよ」

「有難うございます」

 其れでは、早速取り掛かりますから」

「ほんま、宜しゅう頼むよ」

「処でな、ワシャ、代官にほんまに殺されるかと思うとった、こんな難しい事件を誰が解決してくれたんかのう。ワシにはさっぱり分からんのじゃがな。与作よ知っとるか」

「私は全然、其れこそ知りません」

 と返答すると、与作は、今迄勤めていた奉公人さんの住まいに向かって、呼び戻しの為に掛け出して行った。

「然し、何と粋で冷静沈着な奴が、浅田屋におってくれたもんよのう」

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