3.前世




 十五年前、ミモザはそれまで暮らしていたベライドから生まれ故郷であるアルディモアの辺境、聖女の街へやって来た。身寄りもなく、痩せていて、見た目は薄汚れた子どもだったミモザが職などありつけるはずもなく、彼女は浮浪児のグループに紛れ込んで日々を過ごしていた。

 アルディモアではこうして家のない民を定期的に保護し、温かな寝床と食事のある施設へと入れる。大人ならば仕事を与え生活できるまでサポートをし、子どもは成人するまでちょっとした仕事をしながらその施設で過ごす。施設は国のあちこちにあったが、もちろんこの聖女の街にもあった。




 ミモザもまたその施設に保護された。そしてその人は、ある日突然訪れた。




 その日、ミモザは施設にいる他の子どもたちと一緒に建物内の掃除をしていた。聖女アルティナが視察に訪れたのは施設としてはもちろんはじめてのことではなかったが、ミモザがそこで暮らすようになってからははじめてのことだった。


 従者と共にやってきたその人は、他の誰とも違って見えた。髪は真っ白で、顔には年齢を感じさせるしわが刻まれているものの、瞳は輝いていて表情は若々しい。杖をついていたが、背筋は伸び、歩き方はしっかりとしていた。

 ミモザは他の子どもたちと同じように頭を下げ、聖女アルティナが声をかけるのを待った。聖女は施設で過ごす民たちに必ず声をかけてくれるのだという。「頭を上げて」と穏やかな声が響き、ミモザも他の子どもたちも顔を上げた。

 いくつかの言葉をかけられ、最後にアルティナが一人一人握手をしていく。健やかに過ごせるようにほんの少し加護を与えてくれるらしい。他の子どもたちがうれしそうに頬を赤く染め握手してもらうのを、ミモザは少し緊張した面持ちで見つめていた。


 目の前に来たその人の手を、ためらいがちに握り返す。


 少しだけ赤みを帯びた金色の瞳が、驚いたように見開かれたのはきっと気のせいではなかったはずだ。ほんの一瞬……すぐに穏やかな顔に戻ったけれど。






 その数日後、ミモザは見た目は同じ年頃の数人の子どもとともに施設長に呼び出され、聖女の館で働くことが決まったと告げられた。これもはじめてのことではなく、時折こうしてよく働きそうな子どもを雇ってくれるのだという。施設で暮らす人数にも限界があるからだ。もちろん、聖女の元だけではなくごく普通の商店などで住み込みで働くことになる子どももいる。


 聖女の館は庭園の美しい石造りの建物で、彼女と亡くなった彼女の夫が過ごすための別邸だったらしい。彼女の夫はこの辺りをおさめる辺境伯だったそうだ。今は孫がその地位にいる。

 ミモザやミモザと共に雇われた子どもたちはそれぞれ仕事を与えられた。館で働く者の中には明らかにミモザたちを見下すものがいて、聖女はよく気を遣い、そういう者たちとは同じ仕事にならないようにしてくれていた。色々とつき合いもあってやめさせるのが難しいのだと、聖女アルティナは困った様子でミモザに話した。


 ミモザは、聖女アルティナの身の回りの世話をする役目を言われた。同じ役目についているのは昔からアルティナに仕えている者ばかりだった。少し年齢が高く、無理が利かないことがあるので若い人員を補充したかったという。




 でもそれだけではないことを、ミモザは何となく気づいていた。






「あなたのことを、知っているわ」


 星が夜空で煌いている。聖女はベッドに横になった。「昔はもっと夜更かしできたのに、年には勝てないわね」とほがらかに笑いながら。護衛は渋ったが人払いをし、部屋の中はミモザと聖女アルティナの二人きりだった。アルティナの少し赤みを帯びた金色の瞳はミモザを真っ直ぐ見つめていた。ミモザの紫色の瞳にも、アルティナの姿が映っている。


「あなたもわたしを知っているでしょう?」

「……どうして」

「あなたの手に触れた時、そう感じたの。何というか……気配がしたのね――魂がそう教えてくれたのよ」


 ミモザがぱちりと瞬きをすると、紫色の瞳が煌いた。


「あなた――」


 聖女は言った。


「お母様でしょう?」


 懐かしむような、泣きそうな、そんな表情にミモザは少し目を細め、それから困ったように微笑んだ。






 ミモザには前世の記憶がある。






 それはかつて、人間の国――アルディモアの王女として生まれ、その国の聖女だった時の記憶だ。となりの魔族の国ザルガンドの国王と出会い、愛しあい、そして娘が生まれてすぐに亡くなった。


 それはかつて、人間の国の商家の娘だった時の記憶だ。堅実に商売をする家系で、真面目で計算が好きだった。旅人と身を偽っていたザルガンドの国王と出会い愛を告げられたが、彼女には無口だがやさしい夫がいた。その夫と添い遂げた。


 それはかつて、人間の国の女騎士だった時の記憶だ。剣に生き、その国の王家の盾として武功を立てた。他国の騎士と身を偽っていたザルガンドの国王と出会い愛しあったが、彼の正体を知って身分の差を考え、独り身を貫いたが最後は愛する男に看取られた。


 それはかつて、人間の国の村娘だった――領主の娘だった――ある時は魔術師だった――


 そして一番最初、彼女は人間の村娘だった。孤児で、名も無き森の中の小さな家で同じ孤児たちと一緒に暮らしていた。そして一匹のドラゴンと出会い、愛しあい、年を取って寿命を迎えた時、彼が言った。


「俺の幸い、俺の魂の伴侶、君が何度生まれ変わっても見つけ出して、君をずっと愛しつづけるよ」


 その言葉も、彼の瞳も、彼の姿も――






 ミモザにはその全ての記憶があった。






***   ***






 ミモザは目を覚ました。カーテンの隙間から太陽の光が差し込んでいる。聖女アルティナに――かつての自分の娘に出会った時の夢を見ていた。手元には髪飾りとスカーフがある。このせいだろう。


 この髪飾りはアルティナの母の形見――つまり、ミモザの前世のものだった。ミモザがかつて人間の国であるアルディモアの王女として生まれ、聖女として生きていた時、後に夫となるザルガンドの国王と出会ったばかりの頃、彼から贈られたものだ。

 前世では黒髪だったからこの銀の髪飾りがよく映えた。今の髪色には少しも似合わない。聖女アルティナの――娘の願いを叶えてやりたいが、ミモザは国王の近くに行くことを迷っていた。娘だってすぐに気づいたのだ。彼もきっと気づくだろう。




 でも……




 今までと違ってミモザには前世の記憶がある。今までそんなことはなかったのに。いつだって彼のことを覚えていなくて、彼に惹かれることもあったし、もう別の相手がいてどこか心惹かれるものを感じながらも彼の想いを受け入れなかったこともあった。




 でも、彼は……




 髪飾りを箱の中にしまい、ミモザはいつものように頭にスカーフを巻いて髪ごとすっぽりと頭を覆った。


 でも彼は、ミモザが何度も生まれ変わっている間、ずっと生きてきた。


 彼はいつでも自身の愛する人を見つけ出し、変わらず愛を告げたのだ――こちらはいつだって姿かたちも性格も違っていたのに。


 アルティナはきっとこの髪飾りをきっかけにミモザがザルガンドの国王に会うことを望んでいたのだと思う。でもこうして前世の記憶が全てあるミモザからしてみると、それはあまりいいことではないような気がした。


 彼はいつでも愛していると言ってくれたけれど、一度だって姿かたちや性格が同じことはなかったのに、どうして惹かれたというのだろう? ミモザには彼が最初に誓いに縛られているような気がした。ミモザ自身、前世では別の男性と添い遂げたこともあるのだから彼にだってそうする権利があるはずだ。


 できれば誓いを忘れて、自由に生きて欲しい。別の誰かを愛したっていい――このまま見つからなければ、彼はあきらめてくれないだろうか? 彼はまだ生まれ変わったことに気づいていないだろう。今までにないくらい、間隔があいているから。このままあきらめる可能性だってあるはずだ。アルティナには悪いけれど……。


 ベッドから降りてカーテンを開けると、建物の合間から王宮が見えた。


 息を一つ吐き、両手で頬をぱしんと叩いた。王宮に行こう。そこで誰でもいい、国王と顔を合わせる機会がある人と知り合って、その人に髪飾りをたくそう。そしてすぐに仕事をやめてこの蘭の館に戻って来よう。きっとそれが一番いい。


 胸の奥がつきりと痛むのに気づかないフリをして、ミモザは「よし」と気合を入れた。






***






「ミモザ、どうかしたの?」


 ふいにかけられた声にミモザは顔を上げた。アデラがのぞき込むようにミモザの紫色の瞳を見つめている。


 とりあえず城で働こうと決意し、ミルヴァに頼んでガシェに言付けしてもらったが、ミモザは時間がたつにつれて不安に襲われていた。城でもし彼に出会ってしまったら……という不安ももちろんだが、蘭の館の人たちが好きだったし、随分とお世話になったのに突然そんなことを言い出して迷惑をかけたり嫌われたりしたらどうしようという気持ちが後から湧いてきたのだ。


 今晩はミモザもアデラも休みだ。“家”の談話室でのんびりと過ごしていた。アデラは本を読んでいたし、ミモザは自分の服を繕っていた。


「眉間にしわが寄ってる。せっかくかわいい顔しているのにあとになるでしょう?」


 アデラの綺麗な手が伸びて、ミモザの眉間にやさしく触れた。困ったように眉を下げたミモザにアデラは「どうしたの?」ともう一度たずねた。


「悩みがあるなら聞くけれど?」

「悩みというか……」


 アデラはミモザの隣に移動して、ぴったりと体を寄せた。彼女からはいつだって蘭の香りがする。蘭の館の一番の売れっ子で、ミモザも随分と世話になった。


「実はミルヴァ姐さんが、ガシェさんから王宮で使用人の募集があるって聞いて……ガシェさんが推薦してくれるから、募集してみようかと思ってるの」

「あら、よかったじゃない」


 ミモザが王宮で働くことを考えていたのを知っているアデラはあっさりとそう言った。


「でもずっとここでお世話になったのに、突然すぎて迷惑じゃないかなって……」

「そんなこと気にすることないわ。母さんだって賛成するわよ。そんな顔しないで、ミモザ。あなたはわたしたちにとって大事な妹みたいなものなんだから」


 アデルは髪をなでる代わりにミモザのスカーフをそっとなでた。


「世話になったというけれど、ミモザはそれ以上にしっかり働いてくれたわ。それにここはもうあなたの実家と同じ。独り立ちするのに反対する家族はいないわ。嫌になったらいつだって戻ってきてもいいし」

「アデラ姐さん……」

「そうだ、久しぶりに髪を梳いてあげる」


 アデラは立ち上がってミモザの手を取ると自室へと向かった。娼婦や男娼は二人部屋を使っている。アデラは自分のスペースにある鏡台の前にミモザを座らせてブラシを手に取った。

 言われるままにミモザがスカーフを外すと、金色の、毛先に向かって白くなる不思議な色合いの髪がふわりと落ちる。鏡に映るミモザは、アデラに負けず劣らず愛らしい顔立ちをしていた。蘭の館に来たばかりを思うと、本当に美しく成長したとアデラは思う。


 神秘的な紫色の瞳は煌いていて、髪と同じ色の睫毛が瞳をいっそう美しくしている。ここに来た頃はやせていた頬は今はふっくらとしていて、健康的なバラ色に染まっていた。そして――


 ミモザは無意識にこめかみの少し上に手を伸ばした。そこには黒い石のようなものがある。ひし形と楕円の中間くらいの形で、表面がごつごつとしているが、黒曜石のように美しいものだ。


「綺麗な髪なのに、どうしてずっと隠しているの? たしかに人間の国だと目立つかもしれないけど、ここはザルガンドなのに」


 癖のあるやわらかな髪をブラシで梳きながらアデラは言った。ミモザがスカーフを外したところをアデラが見たのは偶然だった。ミモザは隠したそうにしていたが、折角綺麗な色をしているのにあまりにも手入れが行き届いていない髪に腹が立って強引に手入れをはじめてから、アデラはこうしてことあるごとにミモザの髪を梳くようになった。

 アデラの美しい手がやさしく髪に触れるのを感じながら鏡越しにアデラとゆったり話すのが、ミモザも好きだった。が、この姿を人前で出す勇気はまだない。


「もうちょっと、形がよくなってからなら……」


 黒曜石に触れて、ミモザは言った。


 これはミモザの角だった――美しい黒い角。ミモザの両親と同じ形の角。




 ドラゴンの角だ。




「ドラゴンの角が折れてるのって、とても恥ずかしいことなんです。本当は……」

「そう……」


 アデラは折れていてもミモザの角は十分に美しいと思っていたが、ドラゴンにはドラゴンの常識がある。


 幼い頃、人間の国で角が折られたミモザは何度も角が折られないようにずっと魔法で角が伸びないようにしていた。今はもうその魔法も解いてあるが、角が再び綺麗な形に戻るまではまだ時間がかかる。


「ここにはクヴィストさんもいるし……」


 クヴィストは蘭の館の女主人であるファレーナの内縁の夫で、この店で働く者たちの父親的存在だ。経理を含めた事務仕事はもちろん、用心棒のまとめ役などをしている縁の下の力持ちで、クヴィスト自身は物静かで優しい男だった。彼はドラゴンで、頭にはもちろん立派な角が生えている。


「父さんはそんなこと気にしないわよ」


 ミモザは曖昧な笑みを浮かべた。たしかにクヴィストはやさしいから気にしないでくれるかもしれないが、ミモザの方が気になってしまう。

 アデラはミモザの髪を綺麗に編み込んでアップにしてくれた。スカーフで隠れるとはいえ、おしゃれな髪型は気分がよくなる。アデラは髪結いも上手だった。


「ミモザがお城に働きに行ったら、こうして髪を結えなくなるわね。時々は帰ってきてね?」


 ミモザは笑ってうなずいた。


「でもこんなにかわいいんだから、王様のお妃様に選ばれてしまうかもしれないわね」

「えっ?」

「知らないの? お城でお妃選びがあるのよ? なんでも人間の国の王女様も何人か来るみたいで……もしかしたら使用人の募集があるのもそのせいかもね」


 「お客様から聞いたのよ」とアデラは何でもないように言ったが、ミモザは寝耳に水だった。



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