第一章 聖女の髪飾り

1.十年




「これをあなたに預けたいの」


 年齢を感じさせない凛とした声がそう言って、年齢を感じさせるしわくちゃの手に乗せた美しい髪飾りを差し出した。銀でできたそれは花を模していて、随分と古い物だったがその美しさを少しも損なっていなかった。


「でも……」


 ミモザは紫色の瞳をそっと伏せた。


「わたしの父に、届けて欲しいのよ」


 そう言って微笑むその人――アルティナは、このアルディモア王国の王家の血を引く、この国の今代の聖女だった。

 ベッドの上で体を起こすその人は、普通の人間の寿命よりも長い時間を生きてきたが、それでもこの頃は眠っている時間が多くなってきた。誰もが聖女アルティナの寿命がもうすぐつきるのだと思っていた。アルティナ自身もそうだった。


 ミモザは困ったように聖女アルティナと髪飾りを見た。


「あなたにしか頼めないの。お願いできるかしら?」


 アルディモアは星明けの山脈のふもとに広がる暗闇の森に隣接した国だった。そして暗闇の森を含めた星明けの山脈のふもとの広い土地を領地にザルガンドという大きな国がある。そこはアルディモアやこの近隣の国々と違って人間ではなく魔族と呼ばれる者たちが暮らす国だった。




 聖女アルティナの父は、その国の国王だ。




 アルディモアの王女であった先代の聖女をザルガンドの国王が見初めて妻に迎え、生まれたのが今代の聖女であるアルティナその人だった――つまり彼女は人間と魔族の混血で、そのために寿命が長いのだ――アルディモアの聖女を継ぐために彼女は母の故郷へと戻り、アルディモアとザルガンドの国境近く、暗闇の森に面したこの聖女の街で暮らしてきた。

 髪飾りは、先代の聖女――アルティナの母が、かつて彼女の父から贈られた物だという。母の形見として大切にしていたが、自分が死んだ後、父に返して欲しいと言うのだ。


 聖女アルティナの気持ちは理解できたが、ミモザはすぐに頷くことができなかった。その隙に、「聖女様」と入口の傍に控えていた女性の従者が口をはさんだ。同時に、壁際に控えている従者たちの中からいくつかの厳しい視線がミモザに突き刺さる。


「その役目は、彼女には荷が重いのではないでしょうか?」


 ミモザは困ったように聖女と視線を合わせた。


 この従者は――いや、この従者だけではなく聖女に仕える一部の者たちはミモザのことをよく思っていなかった。


 ミモザは五年ほど前から聖女アルティナに仕えている。生まれこそアルディモアだったが、しばらく隣国のベライドにいて、その後アルディモアに戻ってきた時の彼女は浮浪児だった。偶然、聖女アルティナと出会って彼女に仕えるようになったのだが素性の知れない元浮浪児を信用しない者は少なくない。

 見た目は十二、三歳ほどの子どもだが、この五年ほどでその姿はほとんど変わっていないように見えるのがまたミモザの得体の知れなさを助長していた。頭には古くて随分とくたびれたスカーフを巻いていて、ふわふわと癖のある金髪がこぼれている。痩せていて、以前よりマシになったがみすぼらしさが抜けきらない。


 ミモザをよく思っていない従者たちは聖女アルティナに仕えるのに彼女はふさわしくないと考えていた。一方で、アルティナはミモザを重用していたのでミモザがただただ妬ましかった。


「黙りなさい」


 アルティナははっきりとした声で言った。


「それを決めるのはわたしです。この役目は、彼女にしかできないことです」

「ですが――!」

「ミモザが断るのなら、わたしはこれを墓場にまで持っていきます」


 その言葉に従者は驚いて目をむき、それからミモザを睨みつけるように見た。


 ミモザは息を一つ吐いた。その従者を含めたミモザに向けられる悪意ある視線に対してなのか、頑なな聖女の意志に対してなのかはミモザ自身わからなかった。


「わかりました……」

「やってくれるのね?」

「渡すだけなら」


 それでもかまわないと、聖女は幼い子どもが母親に宝物を見せる時のように、うれしそうに笑ったのだった。






***   ***






 あれから、十年――。




 石畳を走る馬車の振動がミモザのシャツの襟を揺らしていた。


 星明けの山脈を背に広がる暗闇の森、そこを国土として広がる魔族の王国、ザルガンド。その“名も無き王都”は四重の壁に囲まれた城郭都市で、外側から


 軍部の施設や演習場、軍関係者の邸宅がある第一区

 最も広く、一般市民が多く暮らす第二区

 いわゆる富裕層が暮らす第三区

 そして王宮や宰相府などがある国の心臓部たる中枢区


 によってなる。その第二区から中枢区へ向かう馬車にミモザは乗っていた。王宮で使用人の募集があり、その採用試験を受けるためだった。






***






 十年前、聖女アルティナが亡くなってすぐにミモザは彼女をよく思わない聖女の従者たちからアルティナにたくされた髪飾りを奪われそうになり、逃げるようにしてアルディモアの聖女の街を出て行くこととなった。髪飾りは無事に持ち出せたもののなんの旅のしたくもなく、ボロボロになりながら暗闇の森を抜け、ザルガンドへと入国を果たしたのだった。

 しかしザルガンドになんとか到着してからも何の伝手もないミモザが生きていくのは困難で、それでも日雇いの仕事を探して何とか路銀を稼ぎ、この名も無き王都へとたどり着いた――厳密には行き倒れだったが。


 ミモザが行き倒れていたのは王都の第二区にある花街だった。日が落ちてからこそ活気あふれるこの街は、どの建物も白を基調とし、雨どいには水瓶や桶をもった美しい女性の彫刻がされ、看板の代わりにそれぞれの店を象徴するような図柄がその壁や柱に描かれていた。

 その店は決して大きくないが老舗の娼館で、白い壁にはかぐわしい蘭の花が描かれている――その図柄と同じ“蘭の館”と呼ばれる店だった。その時のミモザは何日もろくな食事にありつけておらず、すっかりやつれ、もうろうとする意識で店の壁に体を預けて座り込んでいた。彼女を見つけた店主夫妻がミモザに休養と、たっぷりの食事を与え、ありがたいことに住み込みの下働きとして雇ってくれたのだ。


 聖女アルティナの髪飾りのことを忘れたことはなかったが、国王に会うことはもちろん、中枢区に入ることも難しい。それを知ったのもあってミモザは、まずは店主夫妻に恩を返すためにも蘭の館で一生懸命働くことにした。

 蘭の館で働きはじめたミモザを店で働く“姐さん”、“兄さん”たちや下働きの先輩たちはかわいがった。やつれた姿から健康的な姿になっていくミモザを見るのが楽しかったからかもしれない。誰もがミモザを妹のように思っていた。


 聖女アルティナが亡くなって、十年がたった。十年前、蘭の館に来たばかりのミモザは十二、三歳の見た目をしていたが、今の外見は十八歳ほどに見えるくらい成長していた。毎日店の中をくるくると走り回ってよく働き、今では店の者だけではなく客からの評判もいい。






「ねぇ、ミモザ」


 店が少しずつ開店の準備をはじめる時間帯、あちこち走り回っているミモザを情けない声が呼び止めた。


「わたしのヴェールを知らない? ほら、薄紫色のやつ」

「それなら昨日、洗濯に出ていたけど」


 ミモザはぱちりと瞬きをした。くりっとした紫色の瞳がきらめいて見えた。


「あら、あなたの目、今すごくきれいだったわ。もう一度瞬きしてみてよ」

「もう! ミルヴァ姐さん、そんなこと言っている暇ないでしょう! はやくお風呂に行って来て! ファレーナさんに怒られても知らないから」

「かわいい顔でふくれちゃって」


 フフと笑って長いウサギの耳を持つミルヴァはのんびりとした口調でそう言いながらミモザの頬をつっついた。


「わたしがお風呂に入っている間、代わりのヴェールを選んでおいてくれる?」

「もちろん。どんな雰囲気がいいの?」

「あなたが選んでくれるならなんでもいいだけれど――衣装が部屋にかけてあるから、それに合わせて欲しいの」


 うなずいたミモザは、別のところで自分の名前を呼ばれたのに気がつくとすぐにそちらに駆け出して行った。

 ミルヴァはその様子を微笑ましく見守って風呂場へと向かった。部屋にも小さなバスルームがついているが、この館では店がはじまる前と終わった後は店の裏にある大浴場を利用する。風呂係が何人もいて、髪や体のマッサージなどをしてくれるのだ。


 ミルヴァは大浴場へと向かった。蘭の館は三階建てで、一階が酒場になっており、二階と三階には娼婦や男娼たちと一夜を過ごす部屋が並んでいる。働いている娼婦と男娼は全部で八人で、それぞれ一部屋ずつあり、内装は各々の好みに整えられていた。

 つくりはどの部屋も同じで、防音魔法がかけられていたり、直接二階に行くことができる外階段もあったりするので、人目につきたくない客にも好評だ。

 娼婦や男娼たちは店主のファレーナとその内縁の夫であるクヴィスト、他の住み込みの従業員たちと同じように、普段は館の裏にある三階建ての建物で暮らしている。館と違って素朴な外観の建物だ。これはファレーナの先代からの方針だった。こちらは相部屋だが、仕事から切り離された空間があることはミルヴァたち娼婦と男娼たちにはありがたかった。


 大浴場はその二つの建物の中間にある。ミルヴァが蘭の館から大浴場に向かっていると、ちょうど向かい側の“家”の方から同僚のアデラがやってきた。寝起きらしい。


「おはよう、アデラ。これからお風呂? 一緒に行かない?」

「いいわよ」


 あくびを一つしながらアデラは言った。蘭の香りがほのかに漂う。蘭の館の一番の売れっ子である彼女は花の妖精で、香水をつかわなくてもいつも花の香りがした。


「ねぇ、聞いて。さっきミモザがまばたきをしたんだけれど」

「まばたきくらい誰だってするでしょ」

「そうだけど、そうじゃないの! ミモザがまばたきをしたら瞳がね、すごくキラキラってしたのよ。すごくきれいだったわ。もう一度してほしいってお願いしたんだけれど、はやくお風呂に行ってきてって怒られちゃった」

「あなたお風呂が長いもの。のんびりしてたら仕事に間に合わないわ」


 アデラはそう言って笑った。


「そんなことないわよ」

「そんなことあるわよ。それで慌てて、直前になってアクセサリーがない! とか騒ぐんだから」


 「そんなことないわよ」と言うには心当たりがありすぎて、ミルヴァはちょっと唇をとがらせて見せながら話題を戻した。


「ミモザって宝石の精霊とかかしら? 魔族なのは間違いないと思うんだけど。ほら、人間ってもっと年を取るのが早いでしょう?」

「そうねぇ……」


 ミモザが蘭の館に来てから、ミモザの種族が何なのか明らかになっていない。魔族には様々な種族がいるが、同じ種族であればなんとなくわかるものだ。しかし、そう感じる者が不思議とこの界隈にはいなかった。とはいえ、最初の頃こそみんな興味を持っていたが、知らなくても不都合はなかったのでやがて聞かなくなっていったのだが。

 アデラはよくミモザの世話を焼いていたし、知っているのではないかとミルヴァは思ったがアデラは首を傾げた。本当に知らないように見えたが、蘭の館で一番の売れっ子だ。そういうフリをするのがうまいことをミルヴァはちゃんと知っていた。



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