第2話 日記
え?中谷さんマジで言ってんの?あの子供みたいに陽気な岡崎さんやで?仕事でもいっぱいアドバイスくれる岡崎さんやで?先週やってさ…………。
原田は必死になって岡崎の事を説明した。しかし中谷はキョトンとしている。
『あなたが変わった人だとは思ってたけど。私の想像を遥かに超えてきたわね』
澱んだ朝の空気を和ませるような笑い声が周りからチラホラと聞こえた。
『おいおい、朝から何なんや?月曜日やってのに、お二人仲良くバチバチしとんか?』
冴えない顔の佐伯部長が、良くも悪くも場を乱すようなハイトーンで茶化しに来た。
『部長!原田君がちょっとおかしな事言ってるんです!』
『またか、原田君』
またか、とはどういう事か?一体俺がいつおかしな事を言ったのか説明してみよ!と原田は心の中で吐き捨てた。しかし、そんな事より部長に確認しなければならない事がある。
『あの、今日はまだ岡崎さん来てないんですか?いつも朝早くから来て、窓の外を眺めてる……』
『……そうか分かった、中谷君の言ってる事は至極正しい!』
佐伯部長のニヤけた表情は、腹が立つほど憎らしかった。
『原田君はしっかりしたまえ。もし現実と夢がごっちゃになるくらいに疲れてるんなら相談にも乗るから、何でも言ってくれていいねんで……』
『ちょっと!岡崎さんはどうなんですか?休みの連絡はあったんですか?何かあったんですか?』
『だからそんな人はこの部署にはいないんやってば』
なんで誰も彼もこんなにおかしいんや!?
もう何がどうなっているのか?いつも朝早くからオフィスに来ていたはずの岡崎を知る者は誰もいなかった。
『で、でもデスクはあるはず!』
一人慌てた様子でオフィスを走る原田。他の人達は、やれやれといった様子で彼を見る。
『ほら!デスクはあるやん……か……』
誰?
彼が目にしたのは岡崎の席にちょこんと座っている女性。今まで見たこともない人だった。
『は、はじめまして!本日から配属になりました塩田と申します!よろしくお願いします』
『こちらこそ……よろしくお願いします』
岡崎さんがいない……。
『あぁ、みんなにも紹介するよ。今日から我が部署に来てくれることになった、新入社員の塩田さんや。うちは楽しさをモットーにしてるから、仲良く和気あいあいとやっていきましょう!』
佐伯部長が大きな声で皆に呼びかけると、塩田は簡単に挨拶をした。
『いや、でもそのデスクは先週まで岡崎さんが………』
『もう原田君はいい加減にしなさい。ここは前の担当の人が辞めてから半年以上も空席や。何を思ってそんな発言をしてるか知らんけど、今日は明らかにおかしい。君はもう帰りなさい』
『僕は至って普通です。体調も全く問題ないんです』
『帰りなさい』
佐伯部長は優しい口調ではあったが、もうこれ以上何も言えないと悟った原田は、荷物を取りにとぼとぼと歩き始めた。
『あ、あの……』
周りの反応に気を遣いながら、恐る恐る声を出したのは岡崎の席に座る塩田だった。
『これがデスクの引き出しに入っていたんですが、誰のでしょうか?』
彼女の右手には、深い緑色のカバーをつけたB6サイズのノートがあった。
『えっ!それってさ……』
原田が踵を返して、少し興奮したように、そのノートを受け取った。この分厚い緑色のノート、これは絶対……。
『それは原田のノートか?』
呆れたように尋ねる佐伯。中谷も原田を心配そうに見つめる。
『これは…………、僕のです』
『自分のやったらしっかり管理しとけよ』
ノートをじっと見つめたまま、原田は『はい』と答えた。
この時、彼は一つの嘘をついた。
ノートをカバンに入れて、皆の方に頭を下げてオフィスを出ようとした時、『また今日の内に連絡するから、それまでゆっくり休んでおきや』と、佐伯が言った。
『はい』と答える原田の頭は、案外冴えていたのかもしれない。何が起こっているのか、訳がわからない事物に直面した彼は、もう動き回って確かめるしかなかったからである。
○
とりあえず、一度全てを整理するために原田は家に戻った。
『はあぁ、一体どうなってるんや?』
椅子に座り、背もたれに大きく寄りかかった彼は、目の前の壁をぼうっと眺めた。いや、正確には壁にかけられたコルクボードを眺めていたのである。
そのコルクボードには、盛大に振られた大学時代の彼女との思い出である、綺麗な写真がずらりと並んでいる。彼は過ぎ去った苦い思い出も捨てられないような悩ましい男なのである。
そんな彼が、ふぅと溜息をついてから淋しい声で一人つぶやいた。
『岡崎さんの写真なんて持ってないよなぁ』
写真があれば、皆に岡崎の存在を示す事ができるのに。
そういえば昨日の猫……。あれは写真にも映らなかった。誰にも存在を証明できない猫。何だったんだろう?
コルクボードの写真をなぞるように見ていくと、懐かしい景色の中にいる彼女や原田自身は確かに存在しているのが分かる。だが、それさえも信じられなくなってくる。
とりあえず、彼はカバンから緑色のノートを出してみた。
『このノート、絶対岡崎さんのやつや』
よくこのノートに何かを書いていた岡崎がしっかりと思い浮かぶ。一度原田はその中身が気になって覗き込もうと試みたが、頑なに見せてはくれなかった。
『何メモってるんですか?仕事のことですかね?』と聞くと、『違うよ。サボってるんやけど、俺にとっては大事なことやねん』と、何と利己的な発言かと思うほどの返答があった。たった何日か前の事であるのに懐かしい。
そんなノートの中身を見るというのは、緊張感と罪悪感で少し居た堪れないような気もしたのであろう。原田はゆっくりと表紙をめくった。
『……何だ……これ?』
分厚いノートの一ページ目。
そこには白い猫の顔が描かれていた。
ぐっと惹きつけるような目。真っ暗な底が見えるくらいに澄んでいるのか、沼のように澱んでいるのか。光の当て方で何通りにも見えるその目が、このノートの主役であるように思えた。
背中がすうっと寒くなる。腕のあたりには鳥肌が立ち、彼はページを捲るかどうか迷っている。
さらに時間をかけて指を進めた。やっと覗いた次のページ、そこに記されているのは日記だった。
『なんだ……、日記か。どんなこと書いてるんやろ?』
○
・2月23日
昨日見たアレは夢なのかな?誰も信じてくれないけど、私はなんだか気分が良い。子供の頃に戻ったかのようなワクワク感がたまらない。
だからこのノートに日記を書く事を決めた。ちなみにこのノートも昨日大倉山公園で拾ったんだ。ちょっと分厚くて重たいけど、緑が綺麗。ちょっとみんなに自慢しちゃった。
そうそう今日は学校だったんだけど、本当にいい事があったんだあー。日記だからって油断していると落とした時に怖いから、絶対に書かないけどね!あ、でもこのノート、外には持っていかないから恐らく大丈夫なんだけど。
○
『なんやこれ?』
そのノートに並んでいる文章は明らかに岡崎と口調が異なる別人のものだった。それに筆跡も全く違う。
岡崎さんじゃない誰か。誰なんだろう?
その人物は毎日ではないが、コンスタントに日記を綴っている。恐らくは学生で、少ない情報しかないのだが、楽しく学校生活を送っている人物と思われる。
知らない人の日記。
原田はページを捲っていく。
するとまた口調が変わった……。
○
・9月30日
酷い雨の中、あの瞬間だけ光が差した。昨日の出来事は、忘れよう。
あぁ、この血のついたTシャツ。これは一体何の血なのか?俺のではない。それだけは言える。気味が悪いし、あの雨でも落ちなかった、とてもしつこい血。
薄暗い御崎公園での記憶。
目の前を通り過ぎたアイツなのだろうか?
そして気がつけばベンチで寝ていた俺は、このノートを枕にしていた。
誰かの日記。
ノートのデザインが気に入った俺は、この愉快な誰かさんに代わって、日記を書く事にした。
○
これも岡崎ではなかった。
一体誰の字だろう?そもそもそれを考える事自体、意味がないのかもしれないが。
意図せずとも日記のリレーになっているのだろうか?
原田は岡崎の字を求めて、さらに後ろの方へと日記を進めた。
すると、三人目の文字が現れたのである。
○
・3月6日
昨日の午後は3月にしては暑かったと思う。上に羽織っていた厚地のパーカーを脱ぐと、背中がかなり汗ばんでいる事に気付いた。
『うぅ、喉渇いたぁー』なんてぶつぶつ言ってると、パトカーのサイレンが聞こえた。
突然鳴り響いて、すぐに消える音。信号無視か一時不停止か、交通違反である事は間違い無いだろう。
そんなとりとめのない事を考えていたら、いつの間にか鉄人28号の前に立っていた。このモニュメントの下で、鳩が忙しなく歩き回っていたのが、なんとなく面白かった。
でもその時、モニュメントの奥に見えるJRの線路の方で、よく分からないものが横切った。
あれは……、たぶん猫だ。
少し遠かったから、しっかりと判断できるほど観察できたわけではないけど、あの耳や尻尾は猫のものだと言っていいと思う。
ただ、かなり大きかった。
大きさは貨物列車のコンテナくらいの大きさだったか。とりあえず、異常なほど大きかった。
あまりに信じられず、目を擦り過ぎて片目のコンタクトレンズを無くしてしまったのは、かなり痛い出費だが、もうどうしようもない。
昨日は本当に不思議なものを見たなぁ。
そして、もう一つ不思議な事。
このノートはいつ俺のリュックに入っていたのだろう?
電車で寝てた時?
でも他人のリュックに何かを入れてる人がいれば、誰かしら注意するんじゃないか?
とても不可解だが、これは日記らしいぞ、ということは分かった。
そして一ページ目に描かれた猫。
昨日の猫にそっくりじゃないか?
とりあえず、俺も先人に倣って書いていくとする。
○
岡崎の文字は飄々としながら、しかし現実とかけ離れた風景を呼び起こした。
昨日の原田が直面した、存在しない猫。
この日、同じものを岡崎も見たのかもしれない。
猫。前の二人が見たものも猫なのだろうか?
しかし三人とも、最初の日の記述だけが特徴的なだけで、その後には特別な出来事など書かれてはいない。書き連ねられているのはただの日常であり、何も手がかりがない。
このノートだけが頼りだというように、じっくりと読んでいく原田。
途中で急に自分の名前を見つけた彼は、咄嗟に『岡崎さん』と呟いた。
○
・5月10日
最近は新入社員が積極的に仕事に取り組むようになった。まだ入社して間もないが、もう立派な社会人だ。
その中でも一人、どうも気になる人がいる。
どこか斜に構えているというか、周りから一歩引いているというか、良い意味でも悪い意味でもなく目立っている。
その人物は、原田という男だ。
仕事はしっかりこなすけど、どうも皆に馴染むのが苦手らしい。
そんな彼を見ていると、まるで自分を見つめているような感覚になる。
多くの人は、原田と俺は正反対だと言うかもしれない。しかし、それは表面上の話である。
本当に彼は俺にとって面白い人だ。
仲良くなりたいなぁ。
○
ノートを見つめる原田の目には涙が滲んでいた。
『……やっぱり岡崎さんは幻なんかじゃない。絶対にあの職場にいたんや』
一人部屋の中で呟きながら、恥ずかしさと懐かしさで、笑いながら泣いていた。
これは岡崎が存在していた証明なのだと確信した原田は、さらに日記を読み進めた。
『まだ何かあるはず……』
すると一つだけ、日常とは異なる奇妙な記述を見つけた。
○
・5月28日
俺はルールを破っていたらしい。
前の二人をよく読んでおくべきだったのか?そんな事は先に言っておいてほしいけど、仕方ない。
それの罰なのだろうか?
俺の家では奇妙な模様が浮かび上がっている。
さして害はないが、やはり気持ち良くはない。常に監視されているような気分だ。
これを書くとまたルール違反かもしれないが、次にこの日記を手にする人のために書いておこう。
この日記はただ自分自身の日常を書かなければならない。何かおかしな事が起こったとしても日常を記述するのが、暗黙のルールだから……。
○
原田はここに書かれているのが何のことかさっぱり分からなかった。
ただ、次に何をすれば良いのか。それだけはすぐに理解できた。
『岡崎さんの家に行こう』
彼は不穏な世界に少しずつ足を踏み入れていく……。
神戸散策、猫日記 メンタル弱男 @mizumarukun
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