神戸散策、猫日記
メンタル弱男
第1話 原田。そして岡崎という男
○
『何だったんですか、あれは?』
『俺には分からん。いや、そもそも今まで誰も理解しようとしてこなかったんや』
目の前で起こった光景を、原田は現実のものだと信じることができない。
『あの子はどこへ行くんでしょう?』
『それも分からへん』
コイツ分からへん事ばっかしやな!と原田は心の中で突っ込んだ。
『ただ言える事は原田、お前はあの猫が見える人間やって事や』
『だからどうしろって言うんですか?何も変わらないでしょ?そもそもあなたは……』
『いや、それはお前がまだ何にも知らないからや。この地であの猫を見たという事が、いかに特別かという事を……』
○
『気に入った場所は何度も訪れるべし』
これは原田の部屋の天井に貼られた、彼にとっての座右の銘である。
原田というのは、“何度同じ場所へ行っても同じ景色を見る事はできない”という理論のもと、その微妙な景色の違いから生まれる美を追求するような男である。
良く言えば、ロマンチックで芸術性のある男と呼べるかもしれない。しかし周りの人の多くは彼の事を、変態的かつ固執性の高い勘違い男と呼んでいた。
それは彼が表現力に乏しかったからだと思う。
例えば彼が大学生の頃、どういう訳か彼にはとても美人な恋人がいたのだが、何度も何度もポートタワーのあるメリケンパークへと連れ出し、ただひたすら海を見るだけというデートを繰り返していたそうだ。
太陽の角度や、海の匂い、空の青さ、そして人の流れ。彼はそれらの違いに美を感じていたのだが、勝手に一人で『うんうん、今日も美しい』と納得して、説明も無しにほとんど会話する事なく帰るものだから、彼女はとうとう痺れを切らし、ポートタワーの真下で思いっ切り原田の顔をビンタしたそうだ。
『痛っっつ!!何すんねん!!』
『こんなクソみたいなデートする男はうんざり!一緒にいたって、私の事なんか見えてないやん!ハッキリ言って、あんたキモいよ』
『キモいよ』というワードが周囲の人々の目線を集めた。チラホラと“キモいやって”、“可哀想ー”という囁きが聞こえる。
はっ……は、恥ずかしいっ!!
『お、お、俺はキモいーーー!!』
ムンクの叫びのような形相で叫ぶ原田に見向きもせず去っていく彼女。取り残された原田は涙を堪えて踊り出す。
『俺はキモいです、俺はキモいです、俺はキモいです、俺は……』
ぶつぶつ呟いて完全に壊れた原田は、民謡の踊りのようなステップで元町へと退散し、小さな焼鳥屋で一人寂しく涙のビールを飲んだのであった。
原田はきっと、一番大切な彼女だからこそ一緒に最高の景色を眺めていたかっただけなのだろう。
しかし、なかなか他人には伝わらない。
まぁそんなこんなで、彼は周りに理解されないまま不遇の学生時代を終えた。
そして社会人一年目。
配属された先に岡崎という先輩がいて、原田の事をよく可愛がった。これはとても珍しい事だ。
『原田!今週末ヒマか?』
昼休みに社員食堂で黙々ときつねうどんを食べていた原田の横に岡崎が腰掛けて言った。
『ヒマではないです。須磨浦公園へ行く予定なので』
『おっ!デートか?』
カレーを食べ始めた岡崎は、面白い話題を見つけたぞと言わんばかりのニヤけ顔で聞いてきた。
『いいえ一人ですが……』
すました顔で答える原田に、『つまんねぇなぁ、おい』と呆れる岡崎。そして彼は原田のきつねうどんを見て笑った。
『お前はもっと肉食って筋肉つけろ!社内の女の子から、ひょろひょろもやしって言われてんぞ』
『……筋肉は維持しようとしなければすぐ衰えます。だからみんな意識的に筋肉美を作り出そうとしてると思うんですけど、僕は無意識的な美が好きなんです。例えば景色とか、自然の音とか……。つまり筋肉美は僕と正反対のところにあるんですよ』
『長々と下らない屁理屈やな。ひねくれすぎ!努力したくないだけやろ!何でもかんでも美しいものは美しいの!ほんで美しさってのは、きっと外側にあるんじゃないで。何かを美しいと思う、お前自身の中にこそ存在してるんや。やから美しさってのは己の心の事なんや…………。って俺、何言ってんの?』
原田も最後の方は半分聞き流していたが、岡崎は笑って誤魔化した。岡崎は笑うのが上手な人だ。
『でもさ、良かったら俺も一緒に須磨行っていい?原田とゆっくり話してみたかったしさぁ』
『いいですけど、覚悟して下さいね』
『覚悟?』
『僕とのデートはハシビロコウくらい動かないっすよ。ずっと観察です』
『最高やんか』
なぜこの時、“最高やんか”と岡崎が言ったのか、原田は気になっていた。
○
須磨の風は気持ちいい。夏前の程よい陽気に、キラキラと輝く海。南に見える淡路島は緑が鮮やかだ。
『おはようございます』
『おう、おはよう!』
岡崎の私服は何とも言えないほどダサかったが、原田は特に触れなかった。
原田と岡崎は須磨浦公園で待ち合わせ、ロープウェイで途中まで行って、そこからガタガタと激しく動くカーレーターに乗った。
『何やこれ!めちゃくちゃ揺れる!』
『癖になりますね。何回も乗りたいです』
『それは嘘やろ?』
『いや、もう一回乗りましょう』
『はぁ、子供やなお前は』
そして2倍の時間をかけて上まで登った後、回る展望台の席に腰掛け、メロンソーダを飲んだ。明石や神戸の西側から三宮まで見渡す事ができるこの席で、ただただ外の景色を見つめる原田。そして、そんな原田の様子をじっと見守る岡崎。
『あの、岡崎さん。退屈じゃないですか?』
『めっちゃ退屈やな』
また笑って答えた。
『本当に何も起こんないっすよ』
『せやから、あの時も彼女に盛大に振られた訳や。学習しなさい』
『え……?先輩にその話しましたっけ?』
いや、この話は誰にもしてないよな……。
うん、絶対にしてない……。
何か変な気がする……。
原田が頭の中にいくつものクエスチョンマークを浮かべてキョトンとしていると、
『見てたら分かっちゃうんよ、なんとなくね!』
そう言って笑いながら岡崎はメロンソーダを飲み干した。
この時、原田が抱いた違和感は何かの予兆だったのかもしれない……。
○
『さあっ、次はどこへ行くんや?』
ようやく重い腰を上げた原田に、背伸びをしながら岡崎が聞いた。
『いや、もう満足したので帰ろうかなと……』
『え!?もう帰んの?メロンソーダ飲んだだけやで?』
『綺麗な景色見れました』
ハハハッと高らかに笑う岡崎。階段を降りて外に出たら、いつの間にか人が増えていた。
『お前と合う女性は、なかなか見つかりそうにないなぁ』
余計なお世話ですよ、と口を開こうとした原田の声は喉で止まった。そして彼の目は見開き、顔が一気に青ざめる。
『あ、あ、あれ……は何?』
代わりに出た声。情けない程、震えていたが無理もない。
『うん?……あぁ、あの子?』
『“あの子”っていうレベルじゃないでしょっ!!』
『なんでぇ?可愛いやん』
二人から少し離れた所で、異常な程に大きい猫が一匹寝転んでいたのである。
○
『な、何やあの猫!?全然可愛くないですよ!いくらなんでもデカ過ぎません?』
例えるなら、イナバ物置。
いやいや、様々なサイズのバリエーションがある商品で例えると分かりづらい。
身近なもので言うと、軽トラくらいの大きさか……。それくらい大きな猫が、だらしなく前足をあげて、仰向けで寝ている。
『気持ち悪っ!!』と言いながらも、少なからず興味があるのか、デカイ猫の方へと近寄って行く原田。
岡崎はやれやれと言う顔でついて行った。
『岡崎さん!コイツめっちゃ寝てます!めっちゃ鼻息すごいです!』
『興奮しすぎ!あんまり近寄ると目が覚めちゃうよ』
『これ見て興奮せえへん人なんておらんでしょ!世紀の大発見でしょ!写真撮っといた方がいいでしょ!』
あまりに常軌を逸した現象に、原田の頭は、かのポートタワー振られ事件の時と同じように爆発していた。
アホみたいに記念撮影していた原田の気配のせいか、突然パチッと目を開いた猫。
ゴロゴロと言いながら素早く起き上がり、歩き出した。
『ほら言わんこっちゃない!危ないで、原田!』
『うおぉ、立ち上がるとさらに迫力あるなぁ。こんな野良猫どこで暮らしてん……』
やばい!!
そう思った時には手遅れだった。
大きな猫が、小学生くらいの子供達の方へと向かってしまったのだ。
『危ないっ!!』
そう叫んだ彼が見たものは、おかしな光景であった。彼が今まで見てきた自然とは全く違うもの……。
○
『あれ……どういう事?』
大きな猫に触られたり、舐められたりしている子供達。しかし彼らはうんともすんとも言わない。ただ彼らだけで談笑している。
『見えてないの……?』
ぽかんと口を開けたまま岡崎の方を見ると、彼はまた嫌味のない笑顔で原田を見ていた。
『周りを見てみ!』
『え?』
後ろを振り返る原田。
そう言えば誰も騒いでいない。ここには二人の他に十数人いるが、あんなでかい猫を見れば絶対に騒ぐはずだ。
それなのに、誰一人としてあの猫を見ていない。見えていない……。
『さっき撮った写真も、見てみ』
そう言われてスマホを取り出した原田は焦っていたのだろう。うっかり落としてしまい画面が割れてしまった。
『あぁ、割れてもうた……。まぁええわ』
写真、写真……と呟きながらスマホを触っていた原田であったが、再びスマホを落とした。
『猫が写ってない……。なんで??』
慌てて猫の方に顔を向けたが、山の下の方へ降りて行く後ろ姿しか見る事が出来なかった。
猫……。
そういや猫っていえば、昔…………。
昔???
駄目だ、なんやっけ?
原田は思い出せない昔の記憶にモヤモヤした。
○
帰りの電車で、興奮冷めやらずの原田が岡崎に質問攻めをした。
『何だったんですか、あれは?』
『俺には分からん。いや、そもそも今まで誰も理解しようとしてこなかったんや』
目の前で起こった光景を、原田は現実のものだと信じることができない。
『あの子はどこへ行くんでしょう?』
『それも分からへん』
コイツ分からへん事ばっかしやな!と原田は心の中で突っ込んだ。
『ただ言える事は原田、お前はあの猫が見える人間やって事や』
『だからどうしろって言うんですか?何も変わらないでしょ?そもそもあなたは……』
『いや、それはお前がまだ何にも知らないからや。この地であの猫を見たという事が、いかに特別かという事を……』
『どういう事なんですか?岡崎さんは何か知ってるんでしょ?もったいぶらずに教えて下さいよ!』
『俺の役目はもう終わりやから……』
『はぁ??何言ってるんですか?明日の仕事中もしつこく聞いてやりますからね!』
『それは困る。部長に怒られへん程度にな』
笑う岡崎。相変わらず嫌味のない笑顔。
原田は酒に酔っているかのようにハイテンションだ。
『あぁ、くそ!なんやねんあの猫!』
この日の出来事は原田にとって、全ての始まりの日だと言える。では岡崎にとってはどうだったのであろう?
この世界は何がどうなっているのだろうか?
○
『おはようございます』
『おはよーう』
翌日。気怠い月曜日の朝。暗いオフィス。それでも、挨拶くらいはシャキッとしたいものだ。
原田の大きな声に続いて、間延びしたような皆の声が返ってくる。
ただ、いつもの明るい声が聞こえなかった。
『あれ?岡崎さんが遅いの珍しいなぁ。まだ来てないの?』
『へ…………?あんた今なんて言った?』
原田の同期の中谷さん。コーヒー片手に原田の事を怪しんだ目で見る。
『いやだから、岡崎さんまだ来てないのって言ったんよ』
『……誰よ、それ?』
『は……?』
やはり何かがおかしい……。
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