第一週「おーい」

Mさんは某食品配達の配達員をしていた。


もとからスポーツ自転車が趣味だったMさんは

「まぁ、週末のサイクリングついでにお小遣い稼ぎできたらいいかな」

くらいの軽い気持ちで始めた。


まだサービスが目新しい時期だったこともあり、仕事のない週末でも、珍しいもの好きの若い客や、タワマンの住人からパラパラと注文が入った。


配達員を始めて2ヶ月程、仕事も慣れて来た頃だった。


仕事を終えると、Mさんはいつも決まったルートで帰宅していた。

見晴らしの良い幹線道路だが、車や歩行者も少なく、自転車を流すにはうってつけだった。


ある日、ふと、道路沿いにある雑居ビルに気が付いた。

道路を挟んで向かいにあるビルは建ててからかなりの年数が経っているのだろう。

ビルの壁面は所々、塗装が剥がれて、むき出しのコンクリートは汚れた灰色をしている。


古ぼけてるとはいえ、特段、珍しくもない……にもかかわらず何度も素通りしていた雑居ビルが気にかかったのは、その窓際にいつも決まって男が立っていたからだった。


ワイシャツにネクタイの中年の男が、窓から道路をぼんやり眺めている。


最初に気がついた時には、ビルに会社の事務所か何かがあって、そこの社員が休憩がてら、窓から外を眺めているのかと思った。


ところが、毎週、帰る度にその男を見かけるようになった。


道路を挟んで距離が離れているため、表情までははっきりと見えなかったが、どこか疲れた様子で外を眺めている。


それが毎週である。

視界に入るのは10秒足らずとは言え、Mさんが自転車で通りかかるタイミングと、まるで示し合わせたように必ず男が窓際にいる。


まぁ、すべての会社が土日休みなわけもなく、休憩時間が夕方の会社だってあるだろう。


そんな風に気にしないようにしていた。


ところが、ある時、いつもの様に配達員の仕事を終え、帰り道を走っていると、またいつもの様に窓際に男がいた。


(あー、またいるよ……)


もはや見慣れた風景の一部のように眺めていたMさんだったが、その日は様子が違った。


一瞬だけ 男と目が合った。

いや、距離が離れているのに、目が合ったというのはおかしい。

正しくは視線を感じたと言うべきだろう。「あ、見られたな」と直感的に感じた。


ただ別におかしい話じゃないと思った。

ビルの窓からぼんやりと風景を眺めてて、ふと1台の車が目に留まる。

その車が特別な訳でもないのに、無意識にそれが走り抜ける姿を目で追う。よくある話だ。

こちらがある日、男を認識したように、向こうも「あ、あの自転車、またこの時間に走ってるよ」くらいに気づいたのかもしれない。


……と、頭では分かっているのに、何とも言えない気まずさと薄気味悪さに、Mさんは自転車をさらに強く漕いで、その場から逃げるように離れた。


その次の週末。

仕事を終えたMさんがまたあの雑居ビルの見える幹線道路に差し掛かった時だった。

夕方の人も車も少ない道路を自転車で駆け抜ける途中、ビルの窓越しに、またあの男がいる。


「え?」


Mさんは思わず呟いた。

その日は男の様子がおかしかった。


「おーい!」


男は大声で叫んでいた。

いつもならぼんやりと惚けたように佇んでいるはずなのに、その日は窓に顔を張り付けるようにして、


「おーい!おーい!」


両目を見開き、髪やネクタイを振り乱し、何かに追われているような、もしくは閉じ込められて、外へ助けを呼ぶような、切迫した様子だった。


内側から窓を割れんばかりに両手でバンバンバンバンと何度も強く叩き、繰り返し叫ぶその姿は明らかに異常だった。


そして何よりその見開かれた両目は、まっすぐにMさんを見ていた。

その必死な叫びは明らかにMさんへ向けられていた。


なんで自分を呼ぶんだ?

もちろんMさんにとって、窓の男は名前も知らない赤の他人だ。


もしかして、こちらからは見えないけど、ビルの中で火事でも起きてるのか。

内側から火に追われてて、窓から助けを求めているのか。


---そんな事を考えた瞬間だった。


「がしゃん」という音と共にMさんは激しい衝撃に襲われた。

風景がぐるぐると入れ替わり、自分がどちらを向いているのか、立っているのか座っているのかが分からなくなった。


Mさんは夕方の空を眺めていた。

そして自分がいつの間にか地面に仰向けに寝ている事に気がついた。


「大丈夫ですか!」


見知らぬ女性の声にMさんははっとした。

思わず飛び起きると、知らない中年女性が自分を心配そうに見下ろしており、その脇には軽自動車と前輪が激しくひしゃげた自分の自転車があった。


「今すぐ救急車呼ぶんで、そこにいてください」


突然の出来事に返事をすることもできず、その場に座り込んだMさんは、周りを見渡して、ようやく自分の身に起こったことを理解した。


そこはMさんにとって通いなれた交差点で、信号はないが、左右とも50m以上離れた車も見える見晴らしの良い交差点だった。


ビルの男に気を取られたMさんは左右の確認をせず、交差点に進入し、そこを運悪く軽自動車に衝突された。


脱いだヘルメットの左半分はヤスリがけしたかのように、表面が荒く削れ、全体にヒビが走っている。宅配用のリュックも地面に叩き付けられて、ひどい有様だった。


その後、病院に運ばれて分かったことだが、Mさんはヘルメットと宅配用のリュックのおかげで奇跡的にも膝や肘に軽い擦り傷を負う程度で助かった。

身体ではなく、車と自転車だけぶつかったのが最大の幸運だった。もちろん自転車は全壊だったが。


衝突した軽自動車の運転手の女性は動揺していたが、携帯電話で救急車の手配を進めてくれていた。


そこまで状況を整理できるくらい、ショックから立ち直ったMさんは、男のいた雑居ビルを見上げたが、そこに男の姿はなかった。


その時。Mさんは気づいた。

なんであんなはっきり見えたんだろう。

なんであんなはっきり聞こえたんだろう。

表情もぼんやりとしか見えない距離なのに。

そんな遠くの、しかも窓越しの声が、あんなはっきりと聞こえるはずがないのに。


そしていつもいるはずの男がいないからこそ気がついた。

その雑居ビルはどの階も電気がひとつも点いていなかった。


あそこに仮に事務所があったとして、電気のついていない真っ暗な事務所で男は何をしていたのか。


「救急車、すぐ来てくれるみたいです」


女性の声に我に返ったMさんはビルから目を逸らし、救急車が来るまでずっと俯いていた。

擦り傷の痛みすら忘れていた。この場から、あのビルの見えない場所へ一秒でも早く離れたかった。


数分して救急車がやってきた。

救急隊員から、意識もはっきりしてて大丈夫そうですが、頭や首が心配なので、念の為に病院で検査をしましょうと言われ、近くの病院に搬送されることになった。

担架に仰向けに乗せられ、身体はベルト、首は硬い枕のようなもので固定された。


ここから離れられることに、安心したMさんが救急車に運び込まれる、その瞬間、


「おーい!」


と、あの男の叫びが聞こえた。すぐ耳元で。

動くこともできず、目だけで周囲を見回すが……声の主はどこにもいなかった。


その日を最後にMさんは配達員の仕事を辞めた。あの道路を通ることもやめた。


しかし、今でも時々、あの「おーい!」という声を思い出すらしい。


自分を遠くから呼ぶ男の声を。

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