第18話
レイン湖周辺にある町や村の神殿はたった一つであり、キラーニーの対岸、湖の畔に立てられた城のような建物がそれだ。山脈から取れた白い石材で作られたという神殿はムム随一の美しさを誇る。
そんな神殿であるが、なんと只今ちゃんとしたバルドがいないらしい。人材不足だ。ナバンではそんなことなかったらしいが、地方ともなると人材不足が深刻だ。他の役職ならともかく、バルドなど育成に十数年かけるのが普通だというのだから尚更だ。文字がなく、口伝のみで膨大な数の詩を継承しなくてはいけないのだから仕方ない。
ただまあ、見習いという立場の妖精ならいるらしい。少し前まで生きていたらしいバルドの弟子で、残念ながら全てが受け継がれることはなく、ゆえにバルドになることもできずという見習いだ。といってもいい年をしたおじさんだ。まだ若さの片鱗が窺えないこともないが。
そんな見習いはバルドになるべく大きな町のバルドに弟子入りをした。多くの時間は元師匠の友人でもあった新しい師匠の下で過ごし、僅かな期間こちらに戻ってくる。ちょうど今の時期だ。
いつもならその見習いが研鑽の成果を練習がてらに披露するらしいのだが、今は生憎と正真正銘のバルドであるティッカが滞在している。兼ね備える詩の量とそれを表現する歌唱力。どちらももちろんティッカさんの方が上で、しかも今だけという限定性から、ティッカさんが見習いの代わりに詩を披露している。純粋無垢で素直な子供たちによる要望だ。断われるはずもなく、またティッカさんもそれを楽しんでいる。
見習いとやらが反感を抱かないのかと心配になったが、それは杞憂だった。年下だからとか女だからとか、見習いに嘲るような様子はなく、むしろ好感を持って拝聴しているような感じだ。かの北の地とは大違いだ。
それにティッカさんも、見習いの方には少しでも私の知る詩を知ってほしいと言っていたし、直接聞かれれば教えるとも言っていた。それは学ぶのに十分な環境とはいえないことへの優しさだろう。
「もっと、いい方法があると思うのよね」
これはティッカさんの言葉だ。もっと、詩を学ぶいい方法があるのではないか、と。詩がもっと身近になる方法はないか、と。
そんな思いを聞いた時、俺は心の底から凄いと思ったものだ。自身が特別な存在であることを確立している詩を、特別でなくそうということなのだから。ティッカさんが抱いているのは、ただ単純にもっと詩が広まって欲しいということだけなのだろう。
「わたしたちも行きますよ」
ティッカさんの語りはまだ続く。ここに滞在できる期間は短いけれど、その間によりたくさんの詩を語りたいと言っていた。喉の負担にならない程度に控えるとは言っていたが、楽しそうに披露する様子を見ると、それも本当かどうか。
「だな」
羽白と俺はティッカさんの語り場から、作られた世界を壊さないようにそっと離れた。
「それで、今日はどこに行くんだ?」
「今日は旬の果物をいただけるそうなので、向いの山です」
「ああ、そう」
さあ行きましょう、とふわりと浮き上がった羽白に付いて行く。
思えばこいつ、この旅が始まってから随分と色々なものを食べているはずなのだが、太る気配がまるでないな。
「なにか?」
「なんでもないが、どうした急に」
「いえ、少し失礼な視線を感じたのですが」
「そうか」
怖い、怖いよ。隣にはいたけど顔はばっちり前を向いていただろうが、お前。それに俺だって横目にちらっと見ただけだぞ。なんでわかるんだよ。
「もう、女性は視線に敏感なんですから気をつけてくださいね」
「はい」
本当かよと思ってしまうが、羽白に限って言えば間違いない。こいつは美人だし、そういった視線はよく受けるのだろう。それに俺が邪念を持って見た時にしか注意をしてこない。視線に敏感だという女性の中でも、羽白はきっと人一倍敏感なのだろう。
湖の上を飛ぶのは気持ちがいい。鳥が水面すれすれを飛ぶのも納得だ。まあ、鳥には別の理由があるだろうか。
横を向いた時に顔を覆った髪を、羽白は手で払い除けて口を開いた。
「昨日確認した本の修復具合ですが」
ほんの少しの笑みを浮かべ、
「ここまでは順調そうです。破れた部分はページを取り戻しつつありますし、他の部分が新しく破れる気配はありません」
羽白の報告はこの旅が無駄ではなく、むしろ必要なことだということの証だった。もちろんこまめに確認はしていただろうが、それなりの時間を経た今、その報告は安堵をもたらす。
「よかった」
「はい。それで確認しておきたいのですが、倉見さんはこの先どうなると思いますか?」
「どう、って。随分と曖昧な問いだな」
湖の上以外に静謐に満ちている。
「この旅をして来たことで本は修復されています。では、その終わりは? ……私は、この旅の果てに、ティッカさんが答えを得ることが重要なのだと思います。『涙の大釜』についてはここまで、残念ですが有用な情報が得られてはいません」
あまりにも四大国時代の遺産が存在していない。ただ、推理と言うのは時の運のような側面がある。思いつかなかったら思いつかないし、思いつくときは特に考え事をしなくても思いつく。しかめっ面で考え込んでも仕方ないことなのだ。だから、もしかしたら答えに辿り着くための何かは既に得ているのかもしれない。俺たちがそれに気が付けないだけで。
「でも、それではティッカさん——主人公のこれからはどうなるのかと考えた時、必要なのは答えだと思いました」
「『涙の大釜』の真実か?」
「それも確かにわかりやすい答えの一つですね。個人的にもそれが一番いいです。でも、それ以外にもあるとは思いませんか?」
羽白の言葉は極めて平坦なものだった。
「重要なのは、ティッカさんが納得して、次に進めることなのだと思います。真実はおそらくティッカさんを納得させてくれると思います。でも、真実を知ることができないというのも、一つの答えだと思いませんか?」
「まあ、そうだな」
要するに保険だ。この旅は『涙の大釜』の真実を探るというものだが、俺たちにとってそれはページを修復する一つの手段でしかない。
俺たち司書がページを修復する際に気を付けなくてはいけないことは、物語の流れを途絶えさせないようにすることだ。破れ始めから破れ終わりまでを繋げる作業。その内容は矛盾を孕むようなことにならなければ、どうとにでもなる。
それを踏まえ、羽白はティッカさんが納得して次に進むことが、繋げる上で大事なことだと判断したのだろう。そしてそれは『涙の大釜』の真実は切り捨てられるものだと結論付けた。
司書としての業だ。
「先ほども言いましたが、真実がわかるなら、もちろんそれが一番です」
一転して好奇心に突き動かされる羽白だ。
「どうです? 羽白さんはなにかわかりそうですか?」
「まるでわからない」
「……でも、期待はしちゃいます」
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