一冊目『常若の国ティルナノーグ』
プロローグ
誰もが人生の主人公。そんな言葉を何回も聞いていきたが、俺はその度に疑問に思う。
——主人公でなければいけないのか。
脇役じゃ、BGMじゃ、背景ではいけないのか。俺が見て来た物語は決して主人公だけで成り立ってきたものではなかった。台詞の少ない彼や名前のない彼女、主人公でなくても大切な存在は沢山いた。誰もが主人公になりたいわけではないだろう。
かく言う俺は、物語に関与すらしない読者でありたいと思ってきた。倉見識という登場人物は、俺の物語には必要がない。
「倉見さんはそんな存在ではないと思いますけどね」
「羽白か」
沈みゆく夕日を背負って夜を歌うように現れたのは、水墨画のような女だった。墨に浸したような長い髪に、視線を吸い尽くすように白い肌。そんな素朴な中に溶け込んだ黒曜石のような瞳が呆れを孕んで俺を射ていた。
「羽白はまさしく『運命の女』って感じだけどな」
「あら、それは嬉しい言葉ですね」
「意味分かってないだろう」
「ファム・ファタールってことですよね。でしたら、美人ということではないですか」
「いい意味しか知らないのか、お前……」
羽白が美人だということは否定しない。こんな何気ない一場面ですら絵になってしまうのは羽白が美しく、ヒロインのような存在だからだろう。
「さて、倉見さんが珍しく褒めてくれたのは嬉しいですが、お仕事の時間ですよ」
「やっぱり『運命の女』じゃないか」
「もう、そんなこと言ってないで戻りますよ」
俺のボヤキを軽くいなし、ポケットから取り出した金の栞。鮮烈な日暮れの光にあってなお羽白の手の中で自らの光を携えるそれは、本を渡り歩くための証だ。
「では、いつもの場所で集合です」
羽白が、まるで世界から切り取られるように消えた。先に行ったのだ。
「行くか」
物語を読みに。
世界が栞に飲み込まれていく。微かな風の擦れる音は途絶え、水彩画のような景色は不出来な点描画になる。そして、俺と言う存在が世界から切り取られた。
***
知覚が世界を取り戻した。目に映る暗さも、肌で感じる静けさも、どれも覚えのあるものだ。
俺が立っていたのは無限の書架を有する大図書館ユグドラシル、その一画であった。傍らの机には俺が先ほどまでいた
栞を手に取って本を閉じ、光源なき光に満ちた裏路地のような書架の合間を縫って羽白の待つ中央に向かって進む。迷路のように入り組んではいるが迷うことはない。司書が望んで歩けば、望んだ場所に辿り着ける。この世界はそういう風になっているのだ。
暫く歩いた先に、書架ばかりで出来たこの世界で唯一開けた場所に着く。ここが唯一この世界に変わることのない中央広場だ。ここ以外はあっちの方とかこっちの方なんて言って名称も定まらず、少しでも離れて歩けば離れ離れになってしまうが、ここだけは名前があり、それ故にここが司書たちの間では待ち合わせの場所にされることが多い。とは言っても、他の司書に会うことなんてほぼない。絶対数が多くない上に、仕事に出る際の待ち合わせ以外の用途がないのだ。俺を含めほとんどの司書は適当な
「こっちです」
見通しのいい広場、俺たち以外に音を発生させる要因のない空間に羽白の澄んだ声が響く。
羽白は開かずの扉に寄りかかっていた。木でできた大きな扉で表にも裏にも鍵もついてないが、名前の通りこの扉は開くことがない。微動だにせず、ただのインテリアのようになっている。
「遅いですよ」
「どうせ本のある場所に戻って来るんだ、待っていればよかったろう」
「出発はここなのですから、先にここに来ていても構わないじゃないですか」
そう言いつつ、羽白は一冊の本を差し出してきた。ここにある物のなかでは比較的薄い部類に入るが、それでも一般的な単行本のような本にカバーはない。それでも全く傷みのない外観は、くすんだ緑の重厚感漂う色。背に、そして表紙に金色で刻まれた本の名は、
「常若の国ティル・ナ・ノーグ」
辛うじて読めた本の題。羽白に目線で確認しても訂正されないあたり、どうやらちゃんと読めたらしい。
しかしそれ以上は俺には読めない。一応パラパラと目を通したが分かることはなく、わかったのは破けているページがあることだけ。まあそれは当然だ。なにせ、この破損を直すことこそが、俺たち司書の役目なのだから。
開いていた本を閉じて羽白に返す。
「で、肝心の内容は?」
「……少しは読もうしてください」
「努力するよ」
俺の返答に落胆を隠さず小さく息を吐く羽白は、戻って来た本を開くことなく説明を始めた。
「
「平和か、それはいいな」
「はい。戦争なんてしていたら、私たちが役に立つかわかりませんでしたから。それに、誰かが死ぬところなんて見たくない光景ですしね」
「ま、そうだな」
「あ、話が逸れてしまいましたね。すいません。先ほども言ったように平和な時代、その破損したページにおける主人公はライラ・ティッカさん。女性のようですね。そして肝心の修復の目標ですが、すいません、わかりませんでした」
「どういうことだ?」
そう問いかけると、羽白は困ったという表情を浮かべた。
「倉見さんもすでにご存じでしょうが、このユグドラシルに保管されている本は、それぞれとてつもない情報量を秘めています」
「知ってるよ、だから俺も読めないのだし」
本という形に世界のすべてを記すには、とてもではないが文字数が足りない。いや、人が管理できる媒体であれば、本に限らず通常の方法では不可能と言えるだろう。そこでこのユグドラシルの本に使われているのが世界の情報を圧縮に圧縮した特殊な文字。ここにある言葉はそれだけだから、特別な呼び名はない。ただの〈文字〉だ。この〈文字〉から情報を読み取るというのが、かなり難しい。先ほどまで羽白が言葉にしていたのは設定などの世界の表層部分であり、さらに深い情報を得ようとすれば、濁流のように押し寄せる情報量に一瞬でキャパシティを超過し、激しい頭痛や吐き気、酷ければ気を失うこともある。
そもそも、羽白は司書のなかではかなり情報を読み取れるほうらしい。そんな羽白がそれ以上を読み取れないのであれば諦めるほかないが、肝心の部分が不明と言うのは流石に聞かざるを得なかった。
「私が読み取れた情報は先ほどのものがすべてなのです。本来なら失われたページの前後の情報も読み取って比較し、私たちの目的を設定するのですが、今回はそれができませんでした。理由は二つ。第一にこの本は本当に情報量が多くて、得られる情報がそもそも極表層部分に限られること。第二に平和な時代だからか、表層部分での変化が認められなかったということです」
物語とは変化だ。登場人物の変化、登場人物がもたらした変化、時の流れ、そう言ったものだ。その変化が分からなければ、物語もわからない。つまり、変化を見つけることができなければ、俺たちがどうすることでこの破れたページの部分を直すことができるのか分からないということだ。
「ま、結局いつも通りということか」
「はい、いつも通りです」
そう、いつも通りなのだ。
世界の設定に影響を与えるほどのことをするというのは、登場人物といえどもそう多くはない。もちろんゼロとは言わないが、それでも多くはその世界のルールに則っている。どんな偉業を成そうとも、歴史に名を連ねても、世界の在り方を変えてしまうような人物は極まれなのだ。
故に、今回のように
「ですから、やることはいつもと同じです」
それは登場人物に、主人公に接触するということ。なにせ、世界は主人公を中心に動いている。物語を導くのは主人公なのだ。その主人公の近くにいれば物語を追うこともできるし、物語を突き動かすものが何かもわかる。それは破れるページの前後を繋ぐ大切な情報になる。
「だな」
だから俺は同意を示した。
「それでは早速行きたいと思いますが、準備は大丈夫ですか?」
「問題ない。というか、持って行くものもないんだから、準備することがなくないか?」
「心の準備です」
「それはしても意味ないからいつもしてないんだ」
薄く睨まれてしまった。
「全くもう、口が減らないんですから」
「行きたくない俺の心の現れだと思ってくれ」
「でしたら大丈夫ですね」
全く文脈の繋がってない返事だ。
「本当に嫌なら、司書にはなっていないはずですから」
「なりたくてなったわけじゃないけどな」
「それはみんなそうでしょう。でも、続けることを選んだのもみんな一緒です。もちろん倉見さんも」
「騙された気がしないでもないが」
「それは気のせいですね」
「そうか」
「ええ」
「羽白の言うことも間違ってないか」
そう納得したところで、今度こそ出発の時間だ。
羽白が『常若の国ティル・ナ・ノーグ』の破けたページを開き、俺との間に構えた。壮大な物語への入り口は、この小さな本にあるのだ。
「では」
それぞれの栞を開かれた本に置く。物語には存在しない俺たちが、一時的に
視線を合わせた羽白が、ぱたりっ、と本を閉じた。
光が漏れ出す。栞を挟んだ本の隙間から。はじめは静かに、次第に激しく。とめどなく溢れる光が俺たちを埋もらせていく。
燃える赤。
流れる青。
跳ねる黄。
さざめく緑。
揺らめく紫。
差し込む橙。
そして、何よりも輝く黄金。
色とりどりな光が繋がって、混ざって、世界を形づくっていく。
「倉見さん」
そう言って握ってきた羽白の手を、わずかに握り返す。
そんな俺たちの影を光が塗りつぶした。
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