半透明の球体

紫鳥コウ

半透明の球体

 それは半透明の球体の形をした、まっさらなガラスに包まれたランプ。その底の土台にあるスイッチを押すと、ためらうことなく、あかりがともった。まるで、真珠のようだった。


「東欧旅行をしたときに買ったんですの」


 拡樹ひろきのことをチラリと見たきり、天音あまねはA4用紙にシャープペンシルを走らせていった。小型ラジオから、いくつもの鉛筆の音が聞こえている。


「できましたわよ」


 手から離したペンが、横に一回転した。


 拡樹は答案に眼を走らせた。すべての設問に、かわいらしい丸っこい字で回答が書かれていた。もちろん、誤答はひとつもなかった。


 よくできる生徒を受け持つことほど、疲れることはない。この時間を、ほかの科目の勉強に費やせばいいのにと、拡樹は常々思っていた。


 週に一度、自分には場違いな郊外の高級住宅地にまで行き、この我修院家がしゅういんけの厳かで煌びやかな門扉をくぐり、両親に溺愛されて甘やかされて育ってきた一人娘の天音に、大学受験用の世界史を教えている。


 いつか、天音はこんなことを言っていた。


「いい言い訳になっていますわ」


 その声色はまるで、晴れの日にできた雲の影のようだった。大学生になったら、その寂寞せきばくから解放されてほしいと、拡樹は祈っていた。


 ムカッとくるようなことを言うし、褒めても注意しても素直な態度を示さない。拡樹に不手際があると、勝ち誇ったような表情で生意気な台詞を投げかけてくる。


 それでも、この子は悪い子ではないのだと、拡樹は感じていた。そして、こういう子だからこそ、表面的で浅薄なことを言いあいながら関係を維持していく、器用な生き方ができないのだろうと思った。


 都内の、有名私立大を目指しているということで、それに合わせた受験対策を教えているものの、もう、拡樹の役目はほとんどないと言ってもよかった。


 割り当てられた二時間のうち、勉強をする時間は日に日に短くなっていき、とりとめのない会話をする場面が増えていった。それでも拡樹は、そうした他愛もない言葉のやりとりの端々で天音が見せる、年相応の無邪気さが好きだった。


「少しカーテンを開けるね」


 拡樹は、乳白色のカーテンを少し引いて、窓の外を見つめた。うすやみのなかを雨が走っているのが分かった。


「ごめんだけれど、傘を貸してくれない?」


 青空のたもと、うだるような暑さのなかを歩いてきた拡樹にとって、夕方に雨が降ることは、思ってもいなかったことだった。


 しかし天音は、きっぱりとそれを断った。


「いやですわ。うちの傘は、あなたには買えないくらい高級なのですから」


 観念した拡樹は、他愛もない話をいでいくことにした。


「東欧旅行は楽しかった?」


 拡樹は、ふと、あの半透明の球体へと目線を投げた。


「ええ」

「なにが一番楽しかった?」

「そうですわねえ……」


 天音は、ソファーの上にある、ライオンのぬいぐるみを見つめながら、考えはじめた。


 そのとき、パチンという音がして、部屋が真っ暗になった。


 と同時に、雷鳴がとどろいて、まばゆい光がふたりの影をより濃いものにした。


 拡樹は、なんとか壁に手をついて、探り探り半透明の球体を探した。そして、冷たいガラスに指がふれると、それをガッとつかんで、底にあるスイッチを押した。


 白いひかりが、瞬く間に、あたりを照らしていった。


「月が綺麗でしたわ」


 天音は、この急な停電に動じることはなく、椅子に座ったまま、静かな口ぶりで、そう言った。


「旅行に行くと、決まって眠れないものですから。まるで、夜行性の動物になった気分になりますわ」


 半透明の球体のあかりは、天音をじゅうぶんに照らしてはいない。どのような表情をしているのか、拡樹にはよくわからなかった。天音の声は、ふだんの軽やかさは影をひそめて、拡樹の耳の奥底へと響いていった。


 すっと椅子を引く音がした。


「そのひかりを消すなら、いまですわよ」


 また、雷光が閃いた。


 半透明の球体のあかりは、それと同時に消えた。

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半透明の球体 紫鳥コウ @Smilitary

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