暗夜

綿引つぐみ

暗夜

「流れ星だわ」

 家を出てゆくとき彼女は最後にそう言った。星の数が減りすっかり淋しくなった夜の空に、また星が一つ流れた。

 冬の初めからのことだ。天空からは星々の輝きが消えていた。日に日に星は失われ、春が来る頃にはもう数えるほどしかそれは残っていなかった。

 人々はざわざわとその不可思議について噂した。


 蓮華がわたしの家に来たのは十五の時だった。小説家志望の彼女は突然わたしの家の扉の前に現れ弟子入りを志願した。

 持参された原稿は荒く欠点の多いものだった。しかし少し話をすれば分かる。彼女には才気がある。考えていること話すことがそのまま作品に表れればすごい小説を書くだろう。だのにまだそれをコントロールすることが出来ないでいる。

 その可能性にわたしはすぐに魅了され、蓮華の望むまま彼女の師となり、そして師だけではなく恋人にもなった。


 女二人の日々は静かに過ぎた。

 一年経ち二年経ち、しかしまだまだ蓮華は未開発なままだった。

 すると焦りが募り、彼女は自分自身の才能を疑うようになっていた。

 彼女はまだまだ若い。小説を書くには若過ぎるぐらいだ。

 焦ることなどないのだが、でもそういうふうには思えないだろう。それも良く分かる。


 そして三年が過ぎた。

 苛立つ時期を過ぎ、自分への失望とともに彼女は文章を綴らなくなっていた。

 同時に、わたしに対する興味も薄らいでしまったようだった。

 小説がうまくゆかないことによる、師としてのわたしに対する不信が彼女の無自覚の中に広がっていた。

 自惚れるなら、恋人としてのわたしはまだ魅力的だったかもしれない。でも創作者としてのわたしが、彼女にとって取り返しのつかないほどに色褪せてしまっていた。


 わたしの家は小さな丘の上に立つ一軒家だ。二階の窓からは我が家に続く遥かな一本道が見える。草原の中の白い道。

 わたし以外通る者のない道だ。

 そこに彼女の姿がある。後姿だ。

 やって来たときと同じ鞄を両手で持って。茜色に黒の水玉の帽子を被っている。

 まだ明けない暗い空の下、一番列車に乗る彼女は冬枯れの草原を歩いている。

 わたしはその姿が丘の向うへ消えるまで、乾いた心でぼんやりとそれを眺めていた。


 残された日めくりは春分をさしている。

 南中を過ぎ、温かくなった二階の部屋で、わたしは蓮華の残していった荷物を片付けていた。

 と、壁の中で音がする。

 東の窓の下辺り。かさかさと、何かが動く微かな音だ。

 そっと近づく。

 観察すると壁板が一枚少し浮いている。

 耳を寄せると微かな音は続いている。

 わたしは思い切ってそこに手をかけた。剥がす。

 板は薄く、めりめりと簡単に半分ほどまで剥がれた。

 外板と内板の間は二十センチほどの空洞になっていて、覗き込もうとすると生温かい気体が顔を包む。

 朝日が当たる壁面だ。二階はこの時間まで陽射しが遮られることがない。

 息苦しい空気を逃れ見ると、壁板にかかる手の指に茜色の点が停まっている。

 天道虫だ。

 そういえば毎年春になると天道虫が部屋の中に入り込んで来ていた。

 子供の頃に一度見たことがある。庭に置いてあった廃材の朽ちかけたその板の裏に、何百という天道虫が集まってぎっしりと群れ固まっているのを。

 きっとこの壁裏もそんな天道虫の越冬場所の一つなのだろう。

 しかしここ何年かは天道虫を見かけなくなっていた。

 わたしは中を覗く。


 ──星が、落ちていた。


 砂埃にまみれて、暗い壁板の隙間に、天道虫の羽の星が、降り積もっていた。

 羽だけが、数センチもの厚さだ。そこにあるのは何万という数だろう。

 何かに喰われていたのだ。

 生きているものはほとんどない。

 闇の中を、するすると何者かが逃げていく気配がした。気配はとても卑小なものだ。

 かなり長い間わたしは漠としていて、それから壁板を元に戻した。


 やがて天に星は、僅かながらも戻りつつあった。

 去って行った彼女は、書き続けてさえいれば必ず出てくる才能だ。

 しかしわたしにはまだ、彼女の噂は聞こえてこない。

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