十一章 雲の中で 第二話
それは確かにここに来ていた。
アイトラが言った「大きな雲」とはあれのことだろう。ベロウワ湖上空には巨大な雲がもくもくと頭をもたげていた。
(あれだろう?)
アイトラに問う。
(うん)
アイトラは答えた。
(でも、昨日よりも大きくなってる)
アイトラは不思議そうに言った。昨夜から、既に十時間以上が経過している。竜はどうやってか、近くにあった雲を呼びよせ、それを湖上空に留まらせていた。
(もしかして、蒸発する湖の水分も吸収して大きくなったのかな?)
適当な事を言ってみたが、言ってみて思った。もしかしたら本当にその通りなのかもしれない、となんとなく。
アリノは雲の高さが重要なのだと言っていた。この雲なら、相当大きいが、どれくらい高ければいいのだろう。空の気温がどこから氷点下に変わるのかは、下からでは分からない。
(あそこ)
(ん?)
アイトラの意識が指し示した先は、雲の六合目ほど。
(あそこは少し電気を帯びてる感じがする)
目を凝らして見たが、正行には分からない。
(本当か?)
(確かめに行ってみようよ)
(本当に電気を帯びていたら、危ないだろう)
(僕は感電しないよ)
(なんでわかる?)
その問いに、アイトラは目をぱちくりさせて正行を見た。
(感電するなら雷なんて吐けないだろ?)
何を分かりきった事を、と言わんばかりのアイトラに虚を突かれ、一瞬、言葉を失った。
確かに今までにアイトラが言った不思議な事の中で、これが一番納得できた。自分が感電するなら、雷なんて吐けるわけがない。
(じゃあ俺は?)
正行は聞いた。アイトラに乗る自分はどうなのだろう。
(しない)
試してみろ、といわんばかりにアイトラが口を開けた。
これはさすがに勇気がいる。アイトラが出す電気は話に聞いたほどの強さではないが、それでも感電すれば、相当痛いだろう。
しかし、自分が感電するかどうかは確認しておかなくてはならない。今でなくとも、いずれアイトラは雷を吐くのだ。
アイトラの口元におそるおそる手を伸ばす。
(大丈夫だって)
アイトラは面白がるように言い、発電した。
――バシッ
という音と共に、光が
正行の右手には、それが触れたような感触があったが、痛みはない。
(ほんとだ)
(ね?)
そう言って、アイトラは乗れ、と正行に背を向けた。
―― 一応、ジェインさんには湖に行くと伝えてある
正行は鞍につけてあった兜を取って被り、アイトラの背中に乗った。
(いいぞ)
正行が言うや否や、アイトラは翼で
この飛び立つ瞬間はいつでも最高に楽しい。一瞬、身体にかかる重力。高鳴る鼓動。上空での滑空も気持ち良いが、飛び立つ瞬間こそ至高だと正行は思った。
湖の際、盛り上がった林のあたりまで飛ぶ。湖の際は上昇気流が発生しやすい。強い気流ではないが、これを受けて帆翔し、適当なところで次の気流に乗り換える。それを繰り返しながら、正行達は上昇していった。
雲への飛行は、これまでで最も高い飛行になった。雲は低いものでも、地上五百メートル前後、高層にある雲は地上一万メートルを超える。今回、目指す雲の中間層は、おそらく六千メートル程度にはなる。スカイダイビングの場合は高度四千メートル弱から飛び、ジャンボジェットと呼ばれる、現代の大型旅客機の場合、高度一万メートル前後を飛行する。それを考えれば、生身の人間が高度六千メートルまで飛ぶという事は常識からは大きく逸脱した行為だった。
最初の異変は、温度だった。既に七月、朝とはいえ、気温は現代で言うところの二十度は超えていた。しかし、高度を上げるにつれ、正行の体はどんどんと冷えていく。雲の最下層に到達する頃、水蒸気にまとわりつかれ、正行の体感温度は一気に下がった。雲の中、高度を上げるにつれ、それはさらに下がっていく。
次の異変は、酸素だった。薄い。呼吸がしづらくなってきている。
(大丈夫?)
アイトラが聞いた。
(大丈夫だ)
正行は答えた。
嘘や、強がりではなかった。この時、正行は、自分は大丈夫だと、感覚で理解していた。
普通、この速度で高度を上げれば、生身の人間は失神する。しかし、正行は寒さや酸素の薄さ、周囲の異変を感じていながらも、意識は十全に保っていた。心肺その他、肉体にも異常を来たしてはいない。
――竜の力だ
正行は飛びながら思った。竜騎士には竜の特性が備わる。言語、感覚、肉体。以前、教わった事を、今、我が身を以て実感していた。
厚い雲の中、乱れる気流に翼を取られながらも、正行とアイトラは高度を上げていった。
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