十章 焦燥 第三話
アリノの執務室は王宮内殿にあると聞いていた。王の相談役として、内殿の一室を与えられ、その時々に応じて、王の補佐をする。
今は正行の教育係としての役割を与えられていたが、馬人族の襲撃があったと聞いた日、しばらく飛行と戦闘の訓練を優先させてほしいと正行が言ったため、ここしばらくは内殿で、何か別の仕事をしていると思われる。
――とりあえず、一言お詫びを入れといた方がいいのかな
正行はそう思いながら、アリノの部屋を探す。一応、ジェインに地図を書いてもらったものの、違う部屋を開けてしまってはいけない。近くまで来たら、誰か通りがかった人に聞こうと思っていたが、内殿は外殿と違って、人の姿が見えない。困りかけたところに人影が見えた。
「あら」
そこにいたのはステラだった。
「どうしたの? こんなところで」
なんだか久しぶりに会う気がする。
「アリノさんを探しに来たんだ。訊きたいことがあって」
「そう」
こっち、と言って、ステラが案内しようとする。正行はどことなく冴えないステラの表情が気になったが、まずはついていくことにした。
「どうしてた?」
正行はぼんやりとした質問をした。
「考え事やいろいろ――」
ステラの答えもぼんやりとしていた。
「本当に国を継がなきゃいけなくなっちゃった――」
「……うん」
何を言えばいいか、正行は言葉を探す。
「でも、今すぐってわけじゃないだろ?」
「まあね。お父様がお元気なら、まだまだ先」
そう言いながら、ステラは一つ角を曲がる。
「ここよ」
ステラは曲がって、すぐのところにある扉を指した。
「ありがとう」
言って、扉を叩きかけ、正行はステラを振り返った。
「一緒に行かない?」
ステラは一瞬、迷うような目をしたが、
「そうね」
そうステラが頷いたのを見て、正行は扉を叩いた。
「おや、珍しい」
扉を開けたアリノは、第一声こう言った。
「どうかされましたか?」
アリノは二人を招き入れ、椅子に案内した。
「僕は訊きたいことがあって。ステラは途中で会って案内してくれたんです」
「そうでしたか」
アリノは微笑んで、棚から三つカップを取り出し、お茶を注いだ。
「雷についてなんですけど……」
「ほう?」
アリノはポットを置いて、椅子に掛けた。
「今、アイトラが雷を吐こうと頑張ってるんです」
アリノは驚いたような表情をした。
「さすがにまだ無理でしょう」
「やはり無理ですか?」
「……おそらく」
アリノは難しい顔をした。
「いや、私などが無理と分かるものでもありませんが……。それでも、生後三か月足らずで吐息に魔力を乗せたという話は聞いた事がありません」
「確かに出来そうなそぶりもありませんが……。何か手掛かりはないかと考えていた時、ふと雷ってどういうものだったかと思ったんです」
「ああ、自然現象の、という意味ですか?」
「はい」
アリノは一口、茶をすすった。
「そうですな。普通――雷は雲が作るものです」
アリノが話し始めた。
「はい」
「雲が何で出来ているかは向こうの学校で習いましたか?」
確かに理科で習った事はある。
「水だと」
「その通り。雲は水蒸気で出来ている。霧と同じですな。地面にあるのが霧、空にあるのが雲。そう思えばよろしい」
「はい」
「一言で雲と言っても、その高さはそれぞれ違います。低い位置にある雲もあれば、遥か上空にある雲もある」
低位にある雲は地上数百メートル、高位の雲は地上一万メートルほども高くなる。
「雷を作る雲は積乱雲と呼ばれる雲です。地表近くの低い位置から遥か上空まで、上下に大きく発達した雲。それが積乱雲です」
――上下に大きく
確かに、雷が落ちる時はいつも巨大な雲の塊があった。
「空は高いところにいくほど、気温が下がるのはわかりますか?」
「分かります。高いほど、寒くなると習いました」
アリノは頷く。
「遥か上空は、氷点下百度になる事もある。そこまで行かなくても、氷点下を下回るところまで水蒸気が上がれば、その水蒸気は冷えて小さな氷の粒に変わります。低い雲は水蒸気で出来ているが、高くなるほど、氷の粒に変わっていくわけです」
アリノは手振りを交えながら話す。
「この氷の粒は上空に上がるにつれて、さらに冷やされ、他の氷とくっつき、大きく成長する。すると、今度は上空に留まっていられないほど、重たくなる。そうすると、今度は重くなった粒が重力で下降しようとする。ここまでは分かりますか?」
「はい」
「では、空の低い位置に大きな雲の塊があるのを想像してみてください」
「雲の塊――」
「この雲は低い位置にあるので、水蒸気で出来ています。しかも、大きい。しかし、もし、この雲が強い上昇気流にぶつかったらどうなりますか?」
「えーと……、上空に巻き上げられる?」
「そうです。積乱雲という巨大な雲は、低い位置にあった大量の水分を含んだ雲が強い上昇気流によって巻き上げられ、上空高くまで成長したものです。その大量の水分が、氷点下となる高度まで上がると、その水分は極小の氷の粒に変わり始めます」
アリノは指で氷の粒をつまむかのような仕草をした。
「さらに巻き上げられると、最上空の氷の粒は大きくなり、下に降りようとし始める。逆に下からは上昇気流に乗った水蒸気が次々と小さな氷の粒に変わり、気流の力でまだ上に行こうとする」
「はい」
「上からは大きな粒、下からは小さな粒。これがカチカチとぶつかって、静電気を起こします」
「――あ」
「そうです。この静電気が雷の元になります。大量の静電気が発生し、やがて雲は大きな電気を孕む。雲がそれをため込んでおけなくなると、今度はどこかに逃がさなくてはならない。雲が大量の電気を地面に放出する現象。それが雷です」
正行は理解した。大量の水分と強い上昇気流。それによって、作られる積乱雲が雷を生む。
おそらく、かつて理科の授業で習ったはずだったが、その時はちゃんと理解できなかった。アリノの博識と説明の上手さに改めて脱帽する。
しかし――と、思った。この雷は、竜が吐く雷とは多分違う。竜が腹の中で氷をカチカチさせているわけではないだろう。アリノもおそらく同じことを考えていた。
「竜の吐く雷と、雲が産む雷は別でしょうな。どうやって、それを起こしているかは分かりません。魔素を電気に変換しているのだと思いますが、さすがにその仕組みは……」
「そうですね……」
これはアイトラの手掛かりにはならない。もちろん、確証があって来たわけではなかったが――
アリノは正行をじっと見た。
「……正行殿は焦っておられますな」
言われて、正行はどきり、とした。
「今回は正行殿にとっては、初めての事。動揺も無理からぬことですが――こと戦において、陛下の読みが外れた事はない。陛下があのようにおっしゃられたという事は、まもなく内乱が起こります。しかし、その陛下が王都を任せて出陣したという事は、必ず防衛は可能だと読んでおられるということ」
アリノは続ける。
「正行殿とアイトラはこの国の未来を背負っています。例え、雷を吐けようが、今はまだ戦場に出すわけにはいきません」
アリノはステラの方を見た。
「もちろん、ステラ様も。陛下は必ずお戻りになられます。国や戦など、まだ我々年寄りに任せておけばいい」
正行達は礼を言って、アリノの部屋を出た。戦場には出せないと釘を刺されてしまった。
「叱られちゃったわね」
ステラが言う。その面白がる顔には、いつもの元気が戻っていた。
「俺、まだ戦場に出るなんて言ってないのにさ」
正行はおどけて言う。
「アイトラに雷なんて吐かせようとするからじゃない」
ステラは笑って返した。
「あいつがやるって言うんだぞ。アリノに聞きに行けって追い出されたんだから」
ステラはそれを聞いてさらに笑う。
「どーせ、今も竜卵宮でしゃっくりしてるよ」
正行は肩をすくめて言う。
「アイトラに会いたいわ」
「来ればいい。おいでよ」
「そうね……」
ステラは少し無言で歩いた。
「行くわ」
そう言ったステラに笑いかけ、二人で竜卵宮へと歩いた。
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